( 写真は、高岡城の水堀 )
我々の「奥の細道」のバス旅行は、木曽義仲が
活躍した古戦場・倶利伽羅峠へ向かう途中で
「高岡城」に立ち寄りました。
1605年、加賀藩2代目藩主の前田利長は、隠居
して富山城に居ましたが、1609年の大火により
城が焼失したため、新たな隠居城として、ここ
「高岡」を選び、築城に着手しました。
「高岡城」は、キリシタン大名で、築城の名手
として有名な「高山右近」が縄張(設計)したと
伝承されています。
その5年後の1614年に利長は死去し、翌年の
1615年に、高岡城は、一国一城令により廃城と
なりました。
しかし、加賀藩3代目藩主の前田利常は、高岡城
の水堀を埋めないで、城の実質的な保全を図り
ました。
そして、明治3年、高岡城跡は民間に払い下げ
られましたが、市民の熱心な保存運動により、
明治8年、城跡は「高岡公園」として残りました。
(高岡城の航空写真:高岡城のパンフレットから)
前頁の航空写真の様に、高岡市のど真ん中にある
「高岡古城公園」は、21万平方メートルという、
東京ドームの4.5倍もの広さを有しています。
城跡は、市民から「古御城(ふるおしろ)」と
呼ばれ、現在でも、水濠は、ほとんど築城時の
ままに残されています。
高岡古城公園の特長は、以下の写真の様に、
豊かな水をたたえた水濠で、本丸を囲む掘の
幅は50メートル以上もあり、水掘りの面積
は、公園全体の3分の1を占めます。
(朝陽橋)
(民部の井戸:三の丸)
写真は、本丸に鎮座する射水(いみず)神社です。
「本丸」跡は、上の写真の様に芝生広場となって
おり、その奥には下の写真の「前田利長の像」が
あります。