(写真は、復元された「一乗谷の朝倉氏の遺跡」
の町並み)
「バスで行く奥の細道」のツアーのメンバーは
全員が歴史好きです。
バスツアーでは、芭蕉も訪れた福井県の永平寺
を見学しましたが、永平寺まで来たのなら、
すぐ近くの「朝倉氏の一乗谷」へどうしても
行ってみたい、との皆さんの要望で、急遽
「一乗谷」にも立ち寄ることになりました。
戦国時代、「一乗谷」には、5代100年間に
わたって、越前国(福井県)を支配した朝倉氏
の城下町がありました。
そして、朝倉氏が織田信長に滅ぼされた後は、
一乗谷はそのまま見捨てられ、長い間、
田畑の下に埋もれていました。
その後、何と!400年を経て、この一乗谷の
城下町が、近年発掘されました!
遺跡としては、長い間、見捨てられて田畑の下に
埋もれていたのが幸いしたのでしょう、戦国時代
の町並みが、奇跡的に当時のままの姿で発掘
されたのです!
武家屋敷や町屋から道路に至るまで、町並がほぼ
完全な姿で発掘され、国の重要文化財・特別
史跡・特別名勝に”三重指定”されました!
最近のお城ブームで、天守閣や櫓などの復元は
あちこちで行われていますが、戦国時代の城下町
の町並みの復元は非常に珍しく、歴史ファン必見
です!!
一乗谷は、福井市の南東約10キロに位置する、
上の航空写真の様に、細長い谷間です。
三方を山で囲まれた一乗谷は、ただ一つの出口の
足羽川が外堀の役目を果たし、両側の峰の上には
「一乗谷城」が築かれていました。
一乗谷城は、一度も戦闘に使用されることなく
廃城となってしまいました。
現在でも、一乗谷城の曲輪、空堀、土塁などの
遺構が、尾根や谷筋に沿って残っているそう
です。
しかし、年寄りが多い我々「奥の細道ツアー」は、
山の上の一乗谷城へは登りませんでした・・・
かっては、この一乗谷の谷間には、朝倉氏の館を
はじめ、武家屋敷・町屋・職人屋敷などが整え
られていました。
また、応仁の乱により荒廃した京から多くの公家
や文人たちが、この一乗谷に避難してきたため、
華やかな文化が花開き、「北の京」と呼ばれて
いました。
1573年、織田信長は、柴田勝家を先鋒として
一乗谷に攻め込み、町並みに放火しました。
この放火は三日三晩も続き、それまで繁栄を
極めていた一乗谷は、全てが灰燼に帰して
しまいました。
我々のバスツアーは、一乗谷の朝倉氏遺跡の
駐車場で下車して、武家屋敷の散策を開始
します。
ここで発掘された塀の石垣や建物の礎石を
そのまま使って、戦国時代の町並みが復元
されています!
建物の柱や壁・建具なども、出土した遺物に
基づいて、正確に復原されているそうです。
前頁の写真の左手は、「中級武家屋敷の門」で、
屋敷の中は、下の写真の様に、井戸や小屋等が
あります。
武家屋敷の家の中では、上の写真の様に、武士が
将棋を指していました。
写真は、仕切りのない広い空き地ですが、「重臣
の屋敷」跡が並んでいた場所です。
重臣の屋敷地区は、1つ1つの区画が大きく、
基礎石や井戸の跡は残っていますが、建物は
復元されていません。
写真は、「庶民の町屋」が並んでいる区画です。
町屋の中は、次頁以降の写真の様に、当時の
生活の様子が覗える様に展示されています。
町屋の広場には、上の写真の様に、共同の井戸や
トイレがあります。
上の写真は、朝倉氏遺跡の中の資料館で、下の
写真は、館内に展示された復元街並みの
ジオラマです。
一乗谷川を橋で渡り、当主の朝倉氏が居住した
「朝倉館」跡へ歩いて行きます。
写真は、朝倉館の入口の「唐門」です。
現在の唐門は、江戸時代中期に、朝倉義景の
菩提を弔うために建てられたのだそうですです。
ここ朝倉館には、室町幕府の15代将軍・足利義昭
も招かれていたことでしょう。
朝倉館跡の中には、写真の「朝倉義景の墓」が
あります。
朝倉義景は、織田信長によって滅ぼされた朝倉氏
五代の最後の当主です。
朝倉館は、山の斜面まで続き、山側には、上の
写真の「朝倉義景館跡庭園」がありました。
そして、この山の上に「一乗谷城」遺構が
あります。