大平山元遺跡は、津軽半島の北東部、陸奥湾に注ぐ蟹田川の河口から8kmの左岸に位置し、津軽山地からの低位段丘上(太平段丘)南北500メートル、東西300メートルの範囲で標高23~30mに立地しています。
昭和46年、町内の中学生が拾った石器を契機に学術調査が実施され発掘調査により有樋尖頭器や細石刃等、旧石器時代の特徴を持つ石器群とともに最古の「土器片」と「石鏃」が出土しています。
土器の破片の緩やかな弧状の湾曲、断面をよく見ると2層構造になっていて、ただの石ころとは違うことが目視できます。
■ 土器のかたち
土器は、割れてカケラの状態で見つかっており、カケラひとつひとつをよく観察すると、割れ口の状態が違ったり、形状が弧状や平たいものであったりします。そのような特徴から考察すると、円形の平底とわかり、直径や深さも20cm以上あったとわかる。おそらくは、口の部分が平らな鉢型や深鉢型の器型であったと想定されています。
外ヶ浜町教育委員会の資料を拝借しました
■ 土器の年代
土器に付着した炭化物を放射性炭素の年代測定によると、14920~16520cal BPという測定値を示したことから、約16500年前のもので、現在のところ日本最古(世界最古)の土器になります。
👇 年代分析データ
■ 外ヶ浜町大山ふるさと資料館
大平山元遺跡から出土した土器片や石器などを見学することができます。
👇 遺跡からすぐの場所(小学校跡を利用)
展示室は、こじんまり(来館者は私だけ)
説明によると縄文の定義は土器の使用が基準となっているそうです。そのことから日本文明(縄文)は、「今から16500年前から12000年続いた」という設定になります。 実際にはもっと前かも知れませんね。
旧石器時代から縄文時代への移行期の環境や文化様相を知る上で重要な遺跡です。
■ 大平山元遺跡(おおだい やまもといせき)
WIFI繋いでQRすれば説明が見れるらしい
地面に説明
のどかなところです。車で12時間以上かけて辿り着きました。電車ではJR太平駅 徒歩10分以内だと思います。
来訪者は私だけでした。(2023.10.4)
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世界遺産となっている縄文遺跡群&大平山元遺跡はどの位置にあるのか?
◆ 北海道・北東北の縄文遺跡群は、北海道6遺跡、青森県8遺跡、岩手県1遺跡、秋田県2遺跡の合計17遺跡で構成されています。また関連資産が北海道と青森県に合計2遺跡あります。これら集落の展開を時代順に3つのステージで分類されています。
👇 1⃣ 大平山元遺跡は(一番古い)スタートに位置します。
認知度が高い 6⃣ 三内丸山遺跡はステージⅡ後半に位置します
◆◆ 日本の歴史を探検する ◆◆
『東日流外三郡誌』(つがるそとさんぐんし)は、
昭和50年4月に突如として、北津軽郡市浦村役場から発刊され、さまざまな論争を繰り広げられたが、偽書として烙印を押され論争は集結した書であります。
しかし、古より偽書とされる記述から何が本当で何が虚偽か?自分の足で地を巡り、考えていくと非常に面白いと思いました。
大平山元遺跡の土器の発掘により、16500年前に 土器を作る文明がこの地に存在していたという事実を、土器片を通してこの目で確認しました。
その後に訪れた「三内丸山遺跡」「是川縄文館」において、当時の生活様式、信仰心などを垣間見てきました。
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本書によると、津軽古代大国・アラハバキ王国が存在していた!
それはいつの時代なのか?
『東日流外三郡誌』の歴史年表を垣間見たくなりました。
※年表は文末にて
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古事記や日本書紀の原資料である「ホツマツタエ文献」では、BC11738年 クニトコタチ が初代天神として(人の形となって)から始まり、それ以降に建国に関わった方々の人名が登場する書になっていることを考えると、この『東日流外三郡誌』においては、津軽古代王国は、それより遥か前(BC18000年)から存在していた!という点において、人類の歴史・生命の起源についての興味が湧いてきました。
そこで、
『東日流外三郡誌』を中心に簡単な年表で時代の流れをザックリ表してみました。
※ 文末にて
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ここで見えてきたのは、
公にされている日本の歴史に登場する勢力・人物とは別に、
東北の地には以前から「津軽古代王国」が存在していたということです。
◆◆◆
なお、縄文以前から
先住民は、生活するに最適な環境を選び、列島各地に集落をつくり平和に暮らしていたと思います。
(群馬県みどり市)それとなく6月に書いてました ⇒ 岩宿遺跡 3万年の眠り
時代が進むに連れて
日本列島において 国造りをするために権力者達が現れ、(※)原住民が暮らしている土地を奪い その者たちを不便な土地へ追いやってしまった。
そして、原住民の信仰,思想であるアニミズム(自然崇拝)から スメラミコトの原点を神とする(人神信仰)に塗り変えられてしまった。それが形として残っているのが国の神をまつる御殿、伊〇神宮などもその類ではないのでしょうか。
だからといって、私はそれを嫌悪している訳ではありません。これも起きるべくして起こったこと、誰が悪い訳ででなく「歴史の連鎖」だと思っています。
※ この後に行った、三内丸山遺跡でなんとなくイメージしました。
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社で神として祀られている方は、かつては生きておられた方です。
私も神社に行ったり時々参拝したりしますが、神とされた方を崇めてはいません。感謝の念を手向ける空間として、自分の心を見つめる癒し空間として、自然を愉しむ空間としての祈りの場として訪れています。
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いつの時代も どこの国も 権力者が自分達に都合よく歴史を隠ぺいし、自分達にとって都合が悪い者は歴史から消していった経緯があることから、先住民達も意図的に歴史から消されたということは容易に想像できます。現代でいえばGHQが行ったことなどが典型例です。
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また、神武天皇以前の人物を古事記・日本書紀で神話化したのは、日本は渡来の他民族国家であり、それぞれの価値観が異なることから、過去の人物を神話化した方が人々を統制し易かったのではないかと思っています。
以上。あくまでも私の想像です。悪しからず。
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※ 過去においてそのようなことが事実だとしたら……
土地を奪われ (自分たちの文化を守ろうとして)逆らう者は逆賊として、消されていった方々もいるということも 心に留めておきたいと思いました。
また、そのような方々の気持ちを考えると、心の内を書かずにはいられなくなりました。
もしも自分もその時代に生きていた当事者だったら? まぁそんなことまで考える必要はないと思います。
ホツマツタヱ文献でハタレの乱という事件が書かれています。それも ひょっとすると この類の出来事を表現を変えて描写したのではないかなと思いました。
(長々と失礼しました)
<津軽古代王国とアラハバキ王国の歴史年表>
※青字や紫字は参考年表
BC18000年 アジア大陸から、北方系ウラル・アルタイ民族が北海道・東北地方に移動、岩木山一帯の阿曽部の森に住み着いたことから「アソベ族」と呼ばれた。すなわち、原日本人とみなされる。
BC14500年 大平山元遺跡 日本最古の土器
BC12000年 古代アソベ族は、十和田湖の十和利山に 霊山ピラミッドの巨石神殿を築き東北各地で巨石メンヒルや 石神、岩偶、土偶神像を信仰する。津軽半島では、日本最古の無文土器が生まれる。
BC11738年 <ホツマツタヱ> クニトコタチ その後、8王子 タの命(仙台多賀城)ハコ国 タカミムスビ家 トの命(富士王朝)とある
<ホツマツタヱ> クニトコタチ~3代天神 トヨクンヌまでで約1万年統治したとある
BC8000年 津軽半島で縄文土器が発生
BC7000年 黄河長江文明
BC5000年 縄文海進 温暖化ピーク島国になる(海面上昇で近江から東北へ移動か?)
BC3500年 三内丸山 縄文文明栄え
BC3000年 メソポタミア・古代アンデス・エジプト文明
BC3000年 中国大陸からツボケ族が津軽に渡来して、縄文土器文化と漆塗り土器が栄え、青銅器が伝わる
BC2500年 インダス文明
BC1600年 中国文明
BC2000年~BC1000年 アソベ族が各地に環状列石を作る アソベ族とツボケ族の混血による亀ヶ岡の縄文文化が繁栄
BC1315年 <ホツマツタヱ> 7代天神 イザナキ・イザナミ
BC1258年 <ホツマツタヱ> 8代天神 アマテルカミ=天照大御神
BC1188年 <ホツマツタヱ> 10代天神 ニニキネ、ホノアカリ (猿田彦・アメノウズメ)
BC711年 <ホツマツタヱ> 初代天皇 神武天皇 VS ニギハヤヒ(ホノアカリの養子)内乱勃発!
BC700年頃 岩木山麓と亀ヶ岡一帯に 古代アソベ王朝が生まれ最初の王ウソリから十七代の王朝国家がつづく
BC500年頃 津軽の亀ヶ岡から十三湖一帯に 古代ツボケ王朝が発生。最初の王ダツトリから29代の王朝国家がつづく
BC100年頃 中国王朝から新しい漂着民(周・普の君公子一族)とアソベ・ツボケ族混血によりアラハバキ族発生
BC18年 十三湖一帯にアラハバキ王国成立
AD240年 大和の大王ナガスネヒコと安日彦が十三湖に逃れて、アラハバキ族の王となり、新アラハバキ王国が生まれる。新アラハバキ五王制による国家組織が発足。この年から邪馬台城を築き モヤ山ピラミッドを作る。 (大王長髄彦と安日彦は兄弟)
<ホツマツタヱ> ニギハヤヒの家臣、ナガスネヒコ(ニギハヤヒの妻の兄)は神武天皇の強敵であったが、神武東征に敗れ青森へ亡命したとされる
そして、アラハバキ王国は、岩手県平泉にいたる広大な陸奥国=奥州一帯に東西南北5人の国司者を配置し強大な国家を形成。さらに神武天皇以後の天皇後継者や政治問題にまで影響を及ぼすほどの勢力を持ったという・・・
※ナガスネヒコは弟と家族、ごく一部の家臣らと共にツガルに渡ることにしたが、タンゴから船に乗る前に、途中で戦傷が患い亡くなった。 ナガスネヒコは、北の地で国造りをすることもなく タンゴに葬られ カミとして祀られた。という話もある。
参考文献:「津軽古代王国の謎」佐藤有文/サンケイ出版, 「みたまとの対話」神人/野草社, 「神人霊媒日記」神人 「はじめてのホツマツタエ」今村聡夫/かざひの文庫
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