その①の続き
当人は意表をついているのかも知れないが、奇妙な長い前置きの後、やっと「テロへの耐性 欧米との落差」のテーマに相応しい文章になる。特攻ママは宇宙飛行士よりも強し云々の後、山折哲雄氏は「そもそも恐怖とは何か、テロとは何か」と書く。続けて氏は、こう述べる。
「その歴史の背景には、例えばフランス革命の恐怖政治や米国で発生した9.11の米中枢同時テロのような不気味な事件が横たわっている。その後世界の各地ではさまざまなテロが頻発するようになり、絶えることがない。だからというわけではないが、欧米人のあいだにはテロに対して耐性のごときものがいつの間にかできているような気がする。
それがジェット機乗りや宇宙飛行士などの心理的耐性と似ているようにも映る。とすれば日本列島人の場合は、それにくらべればまるで赤児のようなものだろう…」
“テロ慣れ”している欧米人に比べ、日本人の耐性は赤児並みという点では私も同感だ。日本と違い元から多民族・多宗教が混在、犯罪の多い欧米諸国では、凶悪犯罪に対する警戒が強いはずだし、それがテロへの耐性の面で大きな差を生じているのだ。尤もテロへの耐性という点では欧米人さえ、インドや中東の人々に比べれば青少年レベルかもしれない。
第三世界と違い欧米諸国はハイテク機器をフル活用しているはいるものの、首都や近郊都市でもテロが珍しくないインド・中東世界。宗教暴動時でも、庶民はさして変わりなく暮らしているのは日本人の想像を絶する。
しかし、欧米とのテロへの耐性の落差に触れた後、山折氏はこう述べている。
「ただ、わが国が地震列島であることに注目すれば、地震の恐怖に対する心理的耐性は、欧米人よりもはるかに強いといえるかもしれない」
全く言わずもがな、としか言いようがない。ちなみにイランやトルコも地震大国であり、地震の恐怖に対する心理的耐性では日本人も中東人と存分に張れるだろう。次はこの宗教学者殿によるコラムの結び。
「テロと地震と、いったいどちらが怖いのか、考えれば考えるほど奥が深い。いずれにしてもわれわれは、テロについて、地震とともにじっくり腰を下ろして考えるべき時にきているのだろう」
問題提起してるつもりだろうが、人災と天災では同列に扱うには難しいテーマである。この種の思考実験にはコラムは短文すぎて向かず、知的遊戯に終わるのが関の山だ。
他に山折氏は外国映画や著書の原題とあまりにも違う日本語タイトルについても言及しており、「性善説」「性悪説」と呼んでいる。前者はポジティブな原題をつける欧米に対してであり、ネガティブなタイトルを好む日本人を「性悪説」というのだ。この違いも氏にかかれば、「要するに恐怖(テロ)に対する認知度の落差あるいは耐性の違い、といったものかもしれない」となる。
その一例として山折氏は、『暴力の人類史』(スティーブン・ピンカー著、青土社)を挙げている。原題:The Better Angels of Our Nature: Why Violence Has Declined(直訳すれば、我々の性格のより良き天使性、なぜ暴力は減少したのか)は、日本人好みの「性悪説」にすり替えられているというのだ。
但し、原題どおりのタイトルにすれば読者の関心を引かないし、まず売れないだろう。出版社も商売だし、売れそうもない本を出す会社など至って稀のはず。タイトルの変更の背景は「性悪説」ではなく、商売優先としか思えない。
とにかく主旨がなく、「かもしれない」の表現が何度も使われる駄文コラムだった。無名のブロガーでももっとマシなコラムを書けそうなのに、これが日本を代表する宗教学者の論説か、と言いたくなる。山折氏も地方紙向けなので、手抜きしたことも考えられるが、それにしても酷すぎる。
氏が河北新報に投稿したのは今回初ではなく、2005年1月7日付の「現代の視座」では真っ当なコラムを寄せている。今回のはまるで別人のような変わりぶり。
山折氏のコラムが掲載されたのは「解説面」で、トップ上部の見出しは「考える」「問う」「論じる」だった。氏のコラムは「問う」はあっても、見事に「考える」「論じる」が抜けている。たとえ著名学者でも、地方紙に良質なコラムを期待するのはもう無駄のようだ。
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