その①の続き
新書『金瓶梅』の中で、私が最も興味深いと感じたのが第6章「お父様と呼ぶ女たち」。この章は小説の夫婦関係も扱っているが、中国社会の人間関係の分析も面白い。
金瓶梅の西門慶の妻たち皆、夫を「お父様」と呼ぶのだ。たとえ子供がいなくとも「お父様」と言い、夫が「お母さん」と呼びかけることはしない。新婚時代は愛称で呼び合っても、子供が誕生した後、「お父さん」「お母さん」の表現に変わる現代日本の庶民とは感覚が異なる。結婚後の女性は個人差もあるが概ね日本人なら“母”となり、中国人の場合は“娘”となると日下氏は指摘する。
儒教圏は基本的に父権主義であり、それに対し日本は母性尊重の母権主義的な価値観と文化の国だとするのは、韓国人の呉善花氏も著書『スカートの風』で書いていたそうだ。日本の男は妻に甘える傾向が強いが、韓国の女は夫に父性を求めたがるという。中国も数千年の封建主義家父長制の国であり、共産主義国家になっても事情は同じなのだ。中国では今なお女は社会の娘であり、一人前の人格を持った人間とは見なされておらず、父親の保護から夫の保護者へ、これが多くの中国女の平均的な生き方だと日下氏は主張する。
家事を手伝い、料理を作る中国の男は珍しくないそうだが、別の顔を日下氏は挙げる。慈愛に満ちた保護者の面と、残酷な支配者の面という父の両面を指摘する。保護を受けるとはその管理下に収まり、支配される意味がある。男すら一人前の人格を持った人間とは扱われぬのだから、まして女なら想像がつく。それを踏まえた上で、日下氏は以下のように父としての毛沢東像を書く。
-社会主義国中国で事実上の皇帝であった毛沢東は「大食堂」をつくり、個人のかまどを公のものに統一した。社会全体が一つの大家族となることが彼の理想だったのであろう。もちろん、その大家族の家長として偉大な父親である彼自身が君臨するわけである。巨大な擬似家庭の中の家父長というわけだ。「毛沢東の良い子になろう」、これが少年先鋒隊のスローガンであった。日本で子供になるということは、あらゆる愛情と世話を受けるという意味が強い。しかし、中国で子供になるということは、絶対的な支配を受け入れ、無条件で相手に服従するという意味の方が強い…
中国人は女ばかりでなく男も大家族の中で安らぎを得、その代わり家長の管理を受けて暮らすことを好むらしい。無法者でさえ“兄弟”同士となり、彼ら社会の中で擬似家族を結成する。『水滸伝』の梁山泊はあたかも一つの大家族であるかのように。“一家”となった彼らの結束は極めて固く、日本のヤクザとは様相が異なる。さすらいの一匹狼など、中国では冗談のようなものだ。中国の特有の人間関係 「幇(パン)」についてのブログ記事も興味深い。
本国のみならず、国外に出た留学生さえまずは互いに連絡を取り合い、情報交換し、助け合う。その結果彼らは何処に行けどもその国の中で別な小中国社会をつくり、そこで暮らそうとする。ある中国人留学生は日下氏にこう言ったそうだ。「中国人は自由を望みますが、また一方で自由が怖いんです。こういう気持はお分かりにならないのでしょうけれど」。
管理を逃れ外国に来るも、誰も「管」(※中国語の“管”には管理する、の他に面倒を見る、世話するの意味もあり)してくれないと激しい疎外感を感じ、人間関係の濃厚な関係社会で安らぎを得る生き方を選ぶらしい。
海外に出た移民たちは民族問わず同民族と結束したがるものだが、とりわけ中国人はその傾向が強く、自分たちだけの群れをつくり、現地にとけ合わない。朝鮮半島を除き世界中に中華街があるのも、その排他的民族性を如実に示している。移民先で独立した個人として生きる中国人など、想像もつかない。こうした民族が移住先で敵対集団となっていくのに、それほど時間はかからないのは書くまでもなく、周囲を蔑視し続ける中華思想は絶対に消えない。
その③に続く
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新書『金瓶梅』の中で、私が最も興味深いと感じたのが第6章「お父様と呼ぶ女たち」。この章は小説の夫婦関係も扱っているが、中国社会の人間関係の分析も面白い。
金瓶梅の西門慶の妻たち皆、夫を「お父様」と呼ぶのだ。たとえ子供がいなくとも「お父様」と言い、夫が「お母さん」と呼びかけることはしない。新婚時代は愛称で呼び合っても、子供が誕生した後、「お父さん」「お母さん」の表現に変わる現代日本の庶民とは感覚が異なる。結婚後の女性は個人差もあるが概ね日本人なら“母”となり、中国人の場合は“娘”となると日下氏は指摘する。
儒教圏は基本的に父権主義であり、それに対し日本は母性尊重の母権主義的な価値観と文化の国だとするのは、韓国人の呉善花氏も著書『スカートの風』で書いていたそうだ。日本の男は妻に甘える傾向が強いが、韓国の女は夫に父性を求めたがるという。中国も数千年の封建主義家父長制の国であり、共産主義国家になっても事情は同じなのだ。中国では今なお女は社会の娘であり、一人前の人格を持った人間とは見なされておらず、父親の保護から夫の保護者へ、これが多くの中国女の平均的な生き方だと日下氏は主張する。
家事を手伝い、料理を作る中国の男は珍しくないそうだが、別の顔を日下氏は挙げる。慈愛に満ちた保護者の面と、残酷な支配者の面という父の両面を指摘する。保護を受けるとはその管理下に収まり、支配される意味がある。男すら一人前の人格を持った人間とは扱われぬのだから、まして女なら想像がつく。それを踏まえた上で、日下氏は以下のように父としての毛沢東像を書く。
-社会主義国中国で事実上の皇帝であった毛沢東は「大食堂」をつくり、個人のかまどを公のものに統一した。社会全体が一つの大家族となることが彼の理想だったのであろう。もちろん、その大家族の家長として偉大な父親である彼自身が君臨するわけである。巨大な擬似家庭の中の家父長というわけだ。「毛沢東の良い子になろう」、これが少年先鋒隊のスローガンであった。日本で子供になるということは、あらゆる愛情と世話を受けるという意味が強い。しかし、中国で子供になるということは、絶対的な支配を受け入れ、無条件で相手に服従するという意味の方が強い…
中国人は女ばかりでなく男も大家族の中で安らぎを得、その代わり家長の管理を受けて暮らすことを好むらしい。無法者でさえ“兄弟”同士となり、彼ら社会の中で擬似家族を結成する。『水滸伝』の梁山泊はあたかも一つの大家族であるかのように。“一家”となった彼らの結束は極めて固く、日本のヤクザとは様相が異なる。さすらいの一匹狼など、中国では冗談のようなものだ。中国の特有の人間関係 「幇(パン)」についてのブログ記事も興味深い。
本国のみならず、国外に出た留学生さえまずは互いに連絡を取り合い、情報交換し、助け合う。その結果彼らは何処に行けどもその国の中で別な小中国社会をつくり、そこで暮らそうとする。ある中国人留学生は日下氏にこう言ったそうだ。「中国人は自由を望みますが、また一方で自由が怖いんです。こういう気持はお分かりにならないのでしょうけれど」。
管理を逃れ外国に来るも、誰も「管」(※中国語の“管”には管理する、の他に面倒を見る、世話するの意味もあり)してくれないと激しい疎外感を感じ、人間関係の濃厚な関係社会で安らぎを得る生き方を選ぶらしい。
海外に出た移民たちは民族問わず同民族と結束したがるものだが、とりわけ中国人はその傾向が強く、自分たちだけの群れをつくり、現地にとけ合わない。朝鮮半島を除き世界中に中華街があるのも、その排他的民族性を如実に示している。移民先で独立した個人として生きる中国人など、想像もつかない。こうした民族が移住先で敵対集団となっていくのに、それほど時間はかからないのは書くまでもなく、周囲を蔑視し続ける中華思想は絶対に消えない。
その③に続く
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水滸伝の世界は、まあ男同士の義兄弟の世界で、女達は飾りですが、こういうのは、昔、ミッキー・ロークとジョン・ローンでやってた、「イヤーオブザドラゴン」思い出しましたね。
あれって、ニューヨークで暮らしているのに、アメリカ人がいると英語で会話していて、いなくなると、突然、中国語に切り替えてしまう、あの場面。彼らは二重構造で生きているのだ~と納得したスゴイ場面でしたね。葬式も、喪服は白のスーツなのですから、すごい。白喪服は中国の伝統じゃあありませんか。洋服にしたてなおしてまで、白にこだわるすごさ! 驚きましたよ。原作では、後半は香港まで行くのだけれど、映画ではニューヨークだけで終わりましたが、そのほうがかえって凄みを感じました。
『イヤーオブザドラゴン』! またしても懐かしい~~
私はあの映画はTVで見ただけですが、原作はもっと奥が深そうですね。ミッキー・ロークはカムバックしましたが、ジョン・ローン、最近はどうしているのでしょうね。『ラストエンペラー』以降、振るわないようで。香港映画も「黒社会」を扱ったものが多いです。
中根千枝氏も著書「タテ社会の人間関係」の中で、同じ米国の大学にいた中国人留学生同士は彼女がそばを通る際、会話を中国語から英語に切り替えたと書いていました。中根氏は中国人の適応力の高さとして挙げていたのですが、仰るとおり二重構造の精神なのですね。民族の言語と現地語を巧みに切り替える移民は、もしかすると中国系くらいかも。