パリ祭が近いから、という訳ではないが、『フランス革命の女たち』(とんぼの本/新潮社)を先日久しぶりに読み返した。作者はあのベルばらの池田理代子氏。タイトル通り、フランス革命期を生きた11人の人物が登場する。黒一点のエオン・ド・ボーモンを除き、10人の女たちの生涯が描かれている。
今回再読して最も印象的だったのはリュシル・デュプレシ、カミーユ・デムーランの妻だった。時代と個性の強い性格もあってか、波乱万丈の人生を送った他の女たちに対し、夫に尽くし抜く良妻賢母そのものの女性なのだ。池田氏いわく「平凡で愛情深く優しい」女性にも関らず、夫と同じく断頭台で処刑された。
1790年12月29日、デムーランとリュシルは7年間の交際を経て結婚しているが、2人が初めて出会った時、後者はまだ12歳の少女だったという。リュシルより十歳年長のデムーランはその時まだ貧しい学生だったが、リュシルが母とよく散歩していたリュクサンブール公園で彼女を見染めた。大蔵省高官の裕福な家に生まれた令嬢に相応しく典雅な立ち居振る舞い、天真爛漫な笑顔にすっかり魅了され、リュシルの遊ぶ様子に見入ってしまう。
現代では12歳の少女に目をつける若者は早々にロリコンか変質者扱いされるが、18世紀後半と21世紀初頭の12歳では社会の見る目も違っていたはず。当時の12歳なら現代の14~15歳くらいに近かったと思う。それでも少女なのは同じだが。
デムーランはリュシル見たさにリュクサンブール公園に足を運ぶようになり、そしてある日、ついに思い切って少女の母親に声をかけた。母親は思いの外優しく親切な態度を返す。身なりは貧しくとも態度が上品で、人を引き付ける十分な魅力があり、知的で育ちの良さを思わせる言葉遣いの出来た若い学生だったため、デムーランは母娘共に気に入られたのだ。この母娘は大変仲睦まじかったという。そうしてデムーランはデュプレシ家への出入りが許された。
問題なのは父親だった。父親もデムーランには好意を持ち娘との交際は許したものの、地位も財産もない若者は結婚相手としては論外だった。弁護士の資格を取った時、デムーランはリュシルとの結婚の許可を父親に申し出たが、父はそれを許さなかったほど。
弁護士を開業してもさして流行らず生活は貧しいまま、三部会に議員として立候補するもあえなく落選。一方、ジャーナリストとして活動は軌道に乗り、次第に名を知られるようになった。
1789年7月12日、デムーランはパレ・ロワイヤルの広場で熱狂した数千の群衆を前にピストルを振りかざし、大声で「武器を取れ!」と煽動的な演説を行う。これがバスティーユ襲撃のきっかけとなり、デムーランの名が歴史に残ることになる。
7月14日以降、デムーランはバスティーユの英雄であり、ジャーナリスト兼革命家として知られる。リュシルの父は不安定なジャーナリストという職業に不満だったにせよ、娘との交際はもう7年以上も続いている現実を認めない訳にはいかなかった。
デムーランは1789年11月に「フランスとブラバンの革命」と題した新聞を自ら刊行、これが高い人気を呼び、出版活動の成功でかつての貧困生活は解消された。リュシルの父が2人の結婚をついに認めたのは、1790年12月11日のことである。同日、デムーランはその喜びを故郷の父親にこう書き送っている。
「きょう12月11日、とうとう僕の最大の願いは叶えられました。幸福の女神はこの僕を長いこと待たせましたが、ついにやってきたのです。今僕は、この地上で味わえる限りの幸福を味わっています」
約2週間後、デムーランとリュシルはサン・シュルピス教会で豪華な結婚式をあげた。莫大な資産家でもあった父親は娘に十万フランもの持参金をつけており、式には翌年11月にパリ市長となるペティオンやロベスピエール、ブリッソー等の著名人が立ち会っている。
娘夫婦のために義父母のデュプレシ夫妻は、立派な調度や食器類まで揃えた快適な住まいを用意しており、若い夫婦は待ち焦がれた結婚生活を満喫する。それが結婚式の立会人により、僅か3年余りで破滅するとは2人とも想像もつかなかっただろう。
その②に続く
http://military38.com/archives/52228523.html
安倍首相のパリ祭参加+自衛隊行進を観光目的と言って批判している人をネットで見ましたが、このような事を「目論んで」いるとは思わなかったのでしょうね。
何時もは自衛隊の海外派遣に喧しいマスコミなのに、パリ祭に自衛隊が参加して行進したことはあまり報じませんよね。本当はこちらが目的だったにせよ、首相を非難する連中は何をしてもケチをつけるでしょう。
フランスって中国べったりの国のイメージがありましたが、最近は違ってきたようですね。コメント欄を見たら、フランスの領土が中国人に買われまくってるそうで、おそらく他の欧州諸国の土地も爆買していると思います。