その一、その二の続き
ロンメルの自由な発想は、軍人貴族ならざる中産階級の家系に由来する才能から来ていた。父も祖父も軍人ではなく数学者として知られている。
しかしドイツ国防軍のように、代々の貴族階級が将校団の中核を形成する閉鎖的サークルでは、ユンカーでもなければ参謀教育を受けなかった将軍は「もぐり」に過ぎなかった。実績よりも毛並み、能力よりも経歴、破天荒な天才よりも堅実な秀才であることを要求されたのだった。
貴族たちのロンメル評価は、「病的な野心」をもち、「性格上の欠点」を覆い隠せない成り上がり、というものだった。「ボヘミアの伍長」が恣意で任命した元帥の風下に立つ将軍たちにとって、ロンメルは「典型的なナチの子分」に外ならない。
国防軍将軍からは「典型的なナチの子分」と見られていたロンメルだが、実はヒトラーやナチスの心酔者ではなかった。wikiの逸話にはこんな話が載っている。
「ある戦いでユダヤ人部隊を捕虜にした際、ベルリンの司令部から全員を虐殺せよとの命令が下ったが、ロンメルはその命令書を焼き捨てた。彼は、最後までナチス党に入党することはなく、あくまで一人の軍人として戦い続けた。」
「長男マンフレートがアーリア民族の人種的優越の話をしていると「私の前でそういう馬鹿げたことを喋るな」と叱責したといわれる。また、マンフレートは武装親衛隊への入隊を希望していたものの、それを禁じたという。」
戦局の悪化に伴い、ロンメルは貴族出身の将軍たちと同じく、あるいはそれ以上にヒトラーの思い付きに懐疑的になっていく。彼は愛する祖国ドイツを消滅させかねないヒトラーの戦争指導に、疑問を呈したこともあったらしい。ついに信頼関係のあった2人には隙間風が吹くようになっていく。
1944年7月20日、ヒトラー暗殺未遂事件が発生し、実際は無関係だったらしいがロンメルも関与を疑われ、「名誉ある自決」を賜ることになる。ドイツ国民の英雄であるロンメルの刑死はヒトラーにとっても打撃になる。家族にも犠牲を出しながら刑死するのか、それとも国葬に値する名誉ある自決を選ぶのか、選択はロンメルに委ねられた。ロンメルが選択したのは後者だった。
自分を引き出した支配者から「名誉ある自決」を賜るのは悲劇としか言いようがない。後年のヒトラーは国民的英雄であるロンメルを疎むようになったという説もあるが、ロンメルは自決により、ヒトラーに重用された「ナチの子分」としてニュルンベルク裁判で告発される屈辱から逃れることができた。もし刑死であれば酷い拷問の果て、ピアノ線を首に巻き付けられての絞首刑と、家族も強制収容所送りは確実だった。
ちなみにロンメルを「気が狂った将軍」と痛罵したフランツ・ハルダーは、ヒトラーとの意見対立により1942年9月24日に参謀総長を更迭され、暗殺未遂事件にも関っていると見なされ、妻子共々強制収容所に送られている。
チャールズ・ゴードンと言っても、一般に日本人にはなじみが薄い人物だろう。しかし20世紀のアラビアのロレンスと共に、英国人の心を最も揺さぶった英雄である。民兵組織の常勝軍の指導者として清で起きた太平天国の乱を鎮圧した人物でもあった。この功績でゴードンは清朝宮廷でも信頼されるようになるが、最後はスーダンのハルツームで孤立無援のまま、壮絶な戦死を遂げる。
ゴードンを死に追いやった原因を巡り、英国内外ですぐに大きな論争が起きた。ゴードン将軍をひとりで危険な土地に送ったのは誰なのか。誰が彼を孤立へ追いやり、誰が救援を防げたのか。また、悪意ある人間は誰であり、ゴードンの名声に嫉妬したのは誰だったのか。平たく言えばこういうことになる。
「事の背後で糸を操り、ゴードンを破滅に追いやったのは一体誰の手だったのか」。
英雄を死に追いやったと見なされているのがイヴリン・ベアリング、後に初代クローマー伯爵に叙された辣腕官僚である。英国は将来のスーダンをエジプトから切り離して独立国家とし、「民族政府」を作り統治にすることを考えていた。その青写真を描いたのこそベアリングだった。
確かに彼こそがゴードンを派遣し、スーダンからエジプト軍や外国人を、マフディーの反乱が及ばない安全な地域まで撤退させようとした立役者でもあった。
官僚と軍人はそりが合わないことが多いが、ゴードンとベアリングも相容れない仲だった。2人が初めて出会ったのは1878年のことだったが、ゴードンが「この尊大で、気取った、横柄な処がある」ベアリングを生理的に嫌いになるまで、さして時間はかからなかった。
ベアリングはゴードンより8最年少だが、官僚中の官僚だった上、本国と植民地を結びつけるエスタブリッシュメントに属していた。用心に用心を重ね、安全な消極性を金科玉条とするのが官僚の世界なのだ。中国やスーダンを股にかけて活躍したゴードンとは、端から住む世界が端から違っていたのだ。
その四に続く