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馬明心―乾隆帝時代の回族反乱者

2006-03-14 21:11:21 | 読書/東アジア・他史
 乾隆帝統治時代の末期は綱紀が緩み、またしても白蓮教の乱が起きている。反乱を起したのは漢族がほとんどの白蓮教徒だけでなく、回族も宗教指導者の下で反旗を翻す。その指導者であり、官吏に殺害され殉教したのが馬明心だった。

 回族といえ決して一枚岩ではなく、彼らの間でも宗教改革の動きがあった。回族の間で目立ったのは、ナクシュバンディー教団によるイスラム改革運動の影響だった。ナクシュバンディーとは、ボスニアからカフカース、インドから中国にいたるユーラシアに広がったイスラム神秘主義教団である。中国本土で回族人口が多かったのは陝西・甘粛・青海・雲南諸省だったが、1750年代に清朝の東トルキスタン支配が始まると兵士や農民として移住したり、商人として往来する回族も出てくる。
  この回族の間で特に甘粛省を中心としてイスラム改革思想を教えたのが馬明心だった。彼はカシュガル、ヤルカンドなどで学んだ後、1761年頃から清朝で 「新教」と呼ばれる改革思想を説き始める。「新教」は中国の儒教社会と混交する中で、異教徒漢族の風習に染まった「旧教」を批判して、宗教慣例の簡素化、 純化を呼びかけた。馬明心はメッカ巡礼に出かけ、帰国後は布教を一段と強める。

 イスラムに限らないが、宗教改革は旧来の勢力との激しい 対立を引き起こす。馬明心の改革は「旧教」との武力闘争に発展し、ついに清朝の介入を招く。馬明心の「新教」は特にサラール回族(トルコ系、現在サラール 民族と認められる)で支持され、「新教」徒はついに反乱を起す。騒乱で清朝政府は「新教」指導者が馬明心なのを知り、彼の本籍である甘粛省で馬を捕え同省 の蘭州に連行する。「新教」徒たちは彼らの教祖が囚われの身となったので、命懸けで蘭州城に向かった。回族「新教」徒の攻撃に慌てた官吏は馬を城塞に立た せるが、回族たちは馬を見ると皆跪いて泣きながら彼らの宗教導師を呼ぶ。この光景に恐れた官吏は馬明心を蘭州城上で殺害し、中国体制による初めての回族宗 教指導者の殉教となった。1781年の事である。

 馬の殉教後、反徒たちは蘭州城外に立て篭もり政府軍と3ケ月の激しい戦いを経て、彼ら 全員も犠牲となる。蘭州の他の場所では「新教」の女たち5百人も全員殉教した。政府は反乱に関係のあった人々全て処刑し、サラール人が住む「新教」遺族を 流罪にし、彼らの墓も掘り返した。

 清朝の「新教」禁教政策は過酷を極め、サラール人遺族は「男は南、女は西」 へと強制連行、移住させる。馬明心には二人の妻がいた。彼が捕われた時、サラール人の妻は自害したが、もう一人の妻の張夫人は娘たちと共に新疆イリに送ら れる。官軍に連行された女たちがどんな悲惨な目にあったか想像に難くない。馬の2人(一説には3人)の娘は侮辱に耐え切れず途中で死に、従った信者の若い 女も途中の湖に身を投げる。張夫人だけは我慢してイリに辿り着き、従ってきた回族の女たちもこの地に住むようになる。
 イリに住んでから翌年の大晦日の夜、張夫人は豚肉を料理させた官吏の家族十数人を殺した後、役場に向かい自首する。復讐の為と自白した彼女に役人も感嘆したといわれる。処刑の時、現場で彼女を見ていた一人の回教聖職者に向かい、「何を待っているのか」と叫んだ。聖職者は涙を流しながら、彼女のために最後の儀式を行ない祈りを捧げた。

  馬明心の息子たちも容赦なく雲南に流された。清の流罪とは日本のような離れ島に流すのではなく、住みにくい僻地に罪人を移住させることを指す。馬の三男は 8歳の身で牛車に閉じ込められ、流刑地に着く前に死亡した。しかし、流罪は常に布教に変わる。流刑地で彼らは伝道所を開いたので、布教活動拠点が移動した だけだった。
 馬明心や張夫人が殉教した地にはゴンバイ(聖徒墓)が建てられ、今日でも多数の回族がその地を詣でるという。

 回族の反乱は容赦なく鎮圧した乾隆帝だが、彼には人種的偏見はなかった。乾隆前の雍正帝も回教禁止を主張する役人を厳しく叱責している。乾隆帝は乱に関してこのような詩を作った。
「彼ら回民は元々わが民、顧みて差別感もなし。突然この乱に当たる、まことに運というべし。縁も帰化もなお薄く、恥ずかしく己を責める」

 チベット仏教徒や法輪功信徒への弾圧も、18世紀とほとんど変わらなかっただろう。

■参考『世界の歴史20巻-近代イスラームの挑戦』中央公論社、『回教から見た中国』中公新書、張承志 著

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