初めてトルコの歴史小説、しかもトルコ史上空前の60万部を超える大ベストセラーを読了した。『トルコ狂乱』(トゥルグット・オザクマン著、三一書房)がそれであり、世界初訳だそうだ。副題「オスマン帝国崩壊とアタテュルクの戦争」の通り、第一次大戦敗北後のトルコが独立を勝ち取るまでを描く、トルコ共和国建国史でもある。この本の帯には次のようなコピーがある。
-世界をほしいままにしようとした帝国列強イギリス、ロイド・ジョージ首相の“傀儡”として、トルコに攻め込んだギリシャ。トルコ人の視点は近代史を新たに照らし出す。独立を勝ち取るまでの壮絶なトルコ-ギリシャ戦争(※希土戦争)を活写した長編歴史小説。
さらに2人の学者による解説も帯にみえる。
-激動の中東にあって、トルコは、いかにして堂々たる国家を創造できたのか?欧米列強に国土を分断されるなか、決然として立ち上がったムスタファ・ケマルとトルコ国民の独立と熱い思いと苦難の道筋は、21世紀の日本に、かけがえなき国家とは何かを教えている(内藤正典・一橋大学大学院教授)。
-本書は第一次大戦敗北と共に始まったアナトリアにおける抵抗運動の後半部分、つまりアンカラに革命政権を樹立した勢力が西部戦線において反攻に転じ、進入したギリシャ軍をイズミルから追い落とすに至る、苦闘の、しかし輝かしい足跡を再現した書物である(新井政美・東京外国語大学教授 解説より)。
この本は宣伝どおり大長編であり、著者による「あとがき」が791頁で幕、さらに翻訳者や新井教授による解説、史料文献なども含めると880頁にも上る。内容の大半は戦争で、進軍や布陣を描いた地図も多く紹介されていたが、軍事には疎い私にはなかなかのみ込めず、読むのに時間がかかってしまった。ただ、小説のハイライト、サカリヤ川の戦い(1921年夏)がいかに凄惨な戦いだったのか、軍事にど素人の私でも分った。トルコが勝利したといえ辛勝であり、奇跡的に近いものだった。
直接戦火を交えたのこそトルコとギリシアだが、コピーにあるようにギリシアはイギリスの“傀儡”に過ぎず、この戦いは代理戦争のひとつでもあった。この物語ではイギリスは徹底した悪の帝国として描かれている。しかし、ただ反英感情を書き連ねているのではなく、イギリス側の資料も多数使い、バランスの取れた描き方がされている。イギリスも打倒トルコ一色ではなかったことは興味深い。希土戦争を全面的に支援したのはギリシアに肩入れする英首相ロイド・ジョージと外相カーゾンのコンビだった。
『トルコ狂乱』に見る西欧列強への憤りは凄まじいものがあり、これはトルコ一国のみならず他の植民地でも同じようなものだったと思われる。小説から一部抜粋してみたい。
「奴らは身内に対してだけ文明的で、その他の国の人間には野蛮なんだ」「そうですとも。“白い人食い人種”ですよ、奴らは」(143頁)
「彼らは事件(※ギリシア軍によるトルコ民間人への残虐行為)を隠蔽したのだ。一切は沈黙に埋もれてしまった。西洋人というのはな、こちらに向けている光った顔の裏側は真っ黒なんだ。月の裏側の見えない面のようなものさ」(195頁)
「燕尾服を着込み、エナメル靴を履いてサロンに出没しても、その本質はやくざだ。彼らにとっては正義など重要ではない。流血によってしか納得しないのだ」(297頁)
「この惨状に対して責任のある奴らは大勢いる。だが、その筆頭がイギリス人だ。奴らは世界中の国々をステーキ肉のように切り刻む。その国にも人が住んでいるとは、とんと考え付かないらしい。反抗されると、びっくりするのだからな」(444頁)
一方、あるトルコ議員の欧州への見解は実に考えさせられる。この見方は現代の日本人にも参考になるので、紹介したい。
-欧州の政治家が自分勝手で残忍である、というのは正しい。あらゆる問題を自分の利益という観点からしか、自分たちの尺度でしか、見ることが出来ない人々だ。真実を追究しては時間の無駄だと言わんばかりだ。だがしかし、西欧文化を象徴するものとは欧州の芸術、学問、思想、技術なのだよ。欧州の政治家が代表しているんじゃない。我々は欧州の政治外交と欧州文明を混同してはならない。彼らを恨むあまり、こちらが損をすることはないのだから。トルコ人は中央アジアにいた時よりこのかた、ずっと西方を見つめ続けてきたのだ…
太陽を追いかけ、祖国も、国家も、王朝も、宗教も、文字も、何もかも変えながら、中央アジアから小アジアへ、アナトリアにやって来て、やっとここに落ち着くことが出来たのだ。我々は“西トルコ人”だ。連合国の強欲、野望、セーヴル条約、ギリシャ人の蛮行、一部の同胞の感傷的な東洋至上主義、狭量な宗教関係者の保守主義、どれをもってしてもこの二千年にも亘る歴史の流れを反対向きにすることは出来ない。逆行しようとする人々は歴史の重みに頭をぶつけることになろう…(178-79頁)
その②に続く
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-世界をほしいままにしようとした帝国列強イギリス、ロイド・ジョージ首相の“傀儡”として、トルコに攻め込んだギリシャ。トルコ人の視点は近代史を新たに照らし出す。独立を勝ち取るまでの壮絶なトルコ-ギリシャ戦争(※希土戦争)を活写した長編歴史小説。
さらに2人の学者による解説も帯にみえる。
-激動の中東にあって、トルコは、いかにして堂々たる国家を創造できたのか?欧米列強に国土を分断されるなか、決然として立ち上がったムスタファ・ケマルとトルコ国民の独立と熱い思いと苦難の道筋は、21世紀の日本に、かけがえなき国家とは何かを教えている(内藤正典・一橋大学大学院教授)。
-本書は第一次大戦敗北と共に始まったアナトリアにおける抵抗運動の後半部分、つまりアンカラに革命政権を樹立した勢力が西部戦線において反攻に転じ、進入したギリシャ軍をイズミルから追い落とすに至る、苦闘の、しかし輝かしい足跡を再現した書物である(新井政美・東京外国語大学教授 解説より)。
この本は宣伝どおり大長編であり、著者による「あとがき」が791頁で幕、さらに翻訳者や新井教授による解説、史料文献なども含めると880頁にも上る。内容の大半は戦争で、進軍や布陣を描いた地図も多く紹介されていたが、軍事には疎い私にはなかなかのみ込めず、読むのに時間がかかってしまった。ただ、小説のハイライト、サカリヤ川の戦い(1921年夏)がいかに凄惨な戦いだったのか、軍事にど素人の私でも分った。トルコが勝利したといえ辛勝であり、奇跡的に近いものだった。
直接戦火を交えたのこそトルコとギリシアだが、コピーにあるようにギリシアはイギリスの“傀儡”に過ぎず、この戦いは代理戦争のひとつでもあった。この物語ではイギリスは徹底した悪の帝国として描かれている。しかし、ただ反英感情を書き連ねているのではなく、イギリス側の資料も多数使い、バランスの取れた描き方がされている。イギリスも打倒トルコ一色ではなかったことは興味深い。希土戦争を全面的に支援したのはギリシアに肩入れする英首相ロイド・ジョージと外相カーゾンのコンビだった。
『トルコ狂乱』に見る西欧列強への憤りは凄まじいものがあり、これはトルコ一国のみならず他の植民地でも同じようなものだったと思われる。小説から一部抜粋してみたい。
「奴らは身内に対してだけ文明的で、その他の国の人間には野蛮なんだ」「そうですとも。“白い人食い人種”ですよ、奴らは」(143頁)
「彼らは事件(※ギリシア軍によるトルコ民間人への残虐行為)を隠蔽したのだ。一切は沈黙に埋もれてしまった。西洋人というのはな、こちらに向けている光った顔の裏側は真っ黒なんだ。月の裏側の見えない面のようなものさ」(195頁)
「燕尾服を着込み、エナメル靴を履いてサロンに出没しても、その本質はやくざだ。彼らにとっては正義など重要ではない。流血によってしか納得しないのだ」(297頁)
「この惨状に対して責任のある奴らは大勢いる。だが、その筆頭がイギリス人だ。奴らは世界中の国々をステーキ肉のように切り刻む。その国にも人が住んでいるとは、とんと考え付かないらしい。反抗されると、びっくりするのだからな」(444頁)
一方、あるトルコ議員の欧州への見解は実に考えさせられる。この見方は現代の日本人にも参考になるので、紹介したい。
-欧州の政治家が自分勝手で残忍である、というのは正しい。あらゆる問題を自分の利益という観点からしか、自分たちの尺度でしか、見ることが出来ない人々だ。真実を追究しては時間の無駄だと言わんばかりだ。だがしかし、西欧文化を象徴するものとは欧州の芸術、学問、思想、技術なのだよ。欧州の政治家が代表しているんじゃない。我々は欧州の政治外交と欧州文明を混同してはならない。彼らを恨むあまり、こちらが損をすることはないのだから。トルコ人は中央アジアにいた時よりこのかた、ずっと西方を見つめ続けてきたのだ…
太陽を追いかけ、祖国も、国家も、王朝も、宗教も、文字も、何もかも変えながら、中央アジアから小アジアへ、アナトリアにやって来て、やっとここに落ち着くことが出来たのだ。我々は“西トルコ人”だ。連合国の強欲、野望、セーヴル条約、ギリシャ人の蛮行、一部の同胞の感傷的な東洋至上主義、狭量な宗教関係者の保守主義、どれをもってしてもこの二千年にも亘る歴史の流れを反対向きにすることは出来ない。逆行しようとする人々は歴史の重みに頭をぶつけることになろう…(178-79頁)
その②に続く
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>>だがしかし、西欧文化を象徴するものとは欧州の芸術、学問、思想、技術なのだよ。欧州の政治家が代表しているんじゃない。
日本の出羽の守は丁度逆のベクトルですね。どんなに相手の国や人間がおかしくても持ち上げる。都合の悪い事は見ない。自分の基準がないのかといいたくなります。国家を懸命に守ろうとした明治の政治家は人間と文化を分けていたと思うのですが…。
トルコに限らず他のアジア諸国もまた、欧米の宗主国に対する「片思い」は続いているように思えます。欧米留学帰りはエリートコースだし。トルコ民族が中央アジアにいた時、シナに憧れた部族もいたはずですが、そのような部族はシナに同化されていったのかもしれません。シナには北方遊牧民が盛んに侵攻してきましたが、同化しなかったのはモンゴルくらいだったはず。
日本でも差別的扱いされ、コケにされても、結局欧州に対する「片思い」はずっと続いているのではないでしょうか?出羽の守が蔓延るのも、そのような社会風土が背景にあり、明治の政治家にも森有礼のように西欧人との結婚を奨励、人種改造論をぶった者もいました。この小説にも、とにかく欧米人がおかしくても持ち上げ、都合の悪い事は見ない知識人がゾロゾロ登場します。特にその類はオスマン皇帝周辺に多かった。
もっとも日本の隣国と同様、トルコもアラブに深入りしたらマイナスになったのは確実です。戦後、ケマルにカリフ就任を要請したアラブ人もいたそうですが、「トルコを堕落させたのはアラブだ」とケマルは言っていました。
この文章だとトルコも植民地だったように聞こえますが、トルコは一時的に占領されていただけで、歴史的に植民地ではないと思いますが・・
他のコメントの文章もまるでトルコも欧米の植民地だったかのようなものが見受けられます。
これで完全な独立国家だったでしょうか?これはトルコ一国だけでなく、日本も含め他のアジア諸国も同じような状態だった。「まるでトルコも欧米の植民地だったかのよう」とあなたは書いていますが、現代とは状況が異なることさえ分からないのですか?トルコはなすすべもなく、広大な領土も次々と列強に切り取られていった。20世紀はじめの清の役人さえ、トルコを弱国と呼んでいたほど。
実話を元にした米映画『ミッドナイト・エクスプレス』(1978年制作)がありますが、20世紀はじめなら麻薬所持・密輸でも欧米人は罪に問われなかったはず。ツッコミを入れるなら、もう少し歴史を調べてからになさい。
オスマン帝国末期、トルコが帝政ロシアの膨張や南下に苦しめられ、列強から「瀕死の重病人」と呼ばれ、各国から干渉を受けていたのは高校世界史レベルですが、貴方の書込みからはその水準も怪しい(※「瀕死の重病人」論は最近では反論もあり)。
十字軍、治外法権、関税自主権の有無、半植民地化など中学世界史レベルの内容だし、貴方の文章からは世界史の基礎レベルの知識もないように見受けられます。これでは学歴も想像が付く。
闘いですね。
兵力差は3対4だけど砲や機関銃 飛行機など装備では後れを取ってる上にトルコ西部の有力都市との連絡が取れない状態。負ければアンカラ陥落もあり得たでしょうね。ww1のガリポリといいケマルという優秀な軍事指導者がいたのはトルコにとって幸いだったと思います。
イスラム主義が台頭する現代トルコでは、ケマルへの批判も見られるようになりました。それでも「救国の英雄」という評価は揺るがないようです。