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欧州から善人と呼ばれたエジプト君主

2009-10-10 20:28:31 | 読書/中東史
 19世紀から第二次大戦後の革命までのエジプトは、ムハンマド・アリー朝が支配していた。名目上この王朝はオスマン帝国領であり、エジプト支配者はワーリー(総督)と呼ばれたが、実質は独立国家状態だった。中でも第4代総督サイード・パシャ(在位1854-63年)に対する西欧人の評価は高く、彼は「善人」とまで呼ばれた。しかし、彼の統治時代、エジプトは植民地化が決定付けられる。

 サイード・パシャは王朝の開祖ムハンマド・アリー晩年の男児であり、少年時代の家庭教師がスエズ運河建設で知られるレセップス。そのため親西欧趣味となり、性格も温和だった。サイードの前総督アッバース・パシャはとかく西欧人に悪評で、サイードはその悪名高い親衛隊を解雇、現物税や奴隷制度を廃止した。職務怠慢の官僚の信賞必罰を徹底、クルバシュ(鞭)を用いた行政も止める。他の改革としては、短期入営による軍の維持、私的土地所有の確立、刑務所の環境改善などがあり、黒人奴隷の取引禁止などはオスマン帝国のアブデュルメジト1世(在位1839-61年)が行った4年後にエジプトでも実現した。
 これらの功績だけを見れば、欧州の歴史家からリベラルな改革を目指した立憲君主で、善意の人間と高く評価された理由が分る。しかし、その善意は同時にサイードの短所でもあった。

 サイードの時代の国際関係は父の頃より複雑であり、一代で王朝を築いた父さえも欧州には煮え湯を飲まされている。サイードはナポレオン3世をパトロンと仰ぎ、クリミア戦争に増援兵力を送ったのも主権国家として欧州の政局に認知されたという動機があった。さらにナポレオン3世の要請に応じ、スーダン兵をわざわざメキシコまで増援している。それもエジプトの独立を果たすため、フランスの好感を買おうとしたからである。一方、ナポレオン3世はイギリス相手に北アフリカ分割構想を打診、エジプトのイギリス領有を認めていたが、サイードがこれを知っていたのかは不明。

 サイードがレセップスにスエズ運河開削工事の特許を与えたのも、フランス人の好意を取り付けるためだった。さらにサイードはスエズ運河会社に土地の全てを事実上無償で与えて、運河会社に領土的主権さえ認めた!建設に当たり、エジプト農民を無償の強制労働、つまり賦役に動員することにも同意している。1856-63年にかけ、毎年2万5千人から4万人が賦役につかされ、気候や食糧事情の悪さで運河掘削中の死者は2万人に上ったと言われる。折りしもこの時、福澤諭吉がエジプトを訪問しているが、悪い印象ばかり書き連ねていたのも当然の結果であり、それが現代まで続く日本人のイスラム世界への無関心に繋がった。

 サイードの前の総督アッバース・パシャは西欧人に酷評され、殊更彼を卑小化し類人猿に模した風刺画まであったという。確かにアッバースは医療衛生に貢献したフランス人顧問を解任したり、西欧式学校を閉鎖、ナイル堰堤(えんてい)工事を中止するなど、欧州人には反動、狂信的ムスリムとみなされる面はあった。しかし、アッバースはエジプトの富に寄生し国家を食い物にする不良外国人を追放するなど愛国的な側面もあった。強制労働の足枷から農民を出来るだけ介抱する措置も講じた他、敵対関係にあったトルコと関係改善を行っている。西欧人が彼を低評価したのも、欧州の干渉に対抗したこともあるのではないか。

 初代ムハンマド・アリーやアッバースは、経済を通した欧州列強による支配の可能性を見抜いており、彼らが運河計画を許可しなかったのもこの点にある。だが、サイードには欧州諸国への警戒感が根本的に欠けており、欧州人が彼を「善人」と呼んだ由縁である。サイードほど取り巻きの欧州人の進言に唯々諾々と従った中東の君主もなく、さぞ好人物だったろう。肖像画を見ただけで、いかにも育ちが知れる品のよさと温和さが分るが、品格があっても頭と度胸のない指導者は無能なだけなのだ。国民の食と安全、国家財政を守ることが名君の条件であり、そこから見ればサイードはむしろ暗君だろう。

 さて、現代の某国にも殊更他国との友愛や信頼を得ようとするお坊ちゃまが首相となっている。日本人はとかく外国人、特に欧米人に褒められると有頂天になりがちだが、「国家間に友人はいない」のが国際政治の鉄則であり、外国人にカモにされたサイードの二の舞にならぬことを祈るばかりである。
■参考:『世界の歴史20巻-近代イスラームの挑戦』山内昌之著、中央公論社

◆関連記事:「四海は兄弟なり
 「福沢諭吉たちの見たエジプト

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17 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
お坊ちゃま (室長)
2009-10-10 23:32:51
 ムハンマド・アリーの晩年の子息サイードのお話、興味深く読ませていただきました。確かに、我が国の新首相に似ているようで、国民としては「はらはら」と心配になるような、危うい外交政策を展開していて、小生も最近は憂鬱です!米国という日本の国防を左右する同盟国には、厳しい口ぶりをするし、他方でアジアには甘い顔を見せる、そういう外交スタンスが危険だと思う。

 ところで、小生が今日述べたいことは、昔現在のギリシャ北東部(オスマン帝国時代は、オスマン領「トラキア」地方。Wikiには、「マケドニア」地方とあるけど、これは現在のギリシャ国内として、マケドニア地方の中に分類しているかも知れないけれど、バルカンの歴史では必ず、トラキア地方に分類すべき場所で、ギリシャでも、やはり本当はトラキア地方といっているはずと思うのです。Wiki著者の勘違いでは?因みに、マケドニア地方は、テッサロニキ市がほぼ最東端)に所在するカヴァーラ市(カイロから真北のエーゲ海沿岸の港町)のこと。
 たぶん、1978年頃、小生は家族づれで、ソフィア→クラタ→カヴァーラ→タソス島と旅したのですが、カヴァーラの町に1泊して、市内の海沿いの高台にあるオスマン時代の城砦を観光した覚えがあります。
 ギリシャ人の案内人によると、この城はモハメット・アリーの居城で、この部屋がハーレムで、数多くの女が共同生活していたところ・・・などと説明されました。ところが、Wikiの説明では、アリーは、カヴァーラ時代は、市長官の部下の、非正規部隊司令官どまりという。まあ、この城砦が非正規部隊の兵営だったとすると、アリーが司令官だったので、自分のハーレムを持っていた可能性もなきにしもあらずといえるけど、見た部屋も狭かったし、せいぜい女を囲っていたとしても2人程度と思う。それに、当時は未だ若くて、市長官が上にいたのだから、それほど偉そうな振る舞いはあり得なかったはずで、今となってWiki記述に照らすと、「ハーレム」云々は、観光ガイドの作り話に思える。
 Wikiによると、カヴァーラ市長官主導のアルバニア人非正規部隊300名の副司令官としてエジプトに派遣され、徐々に現地のオスマン軍部隊のトップにのし上がったという。アリーがカヴァーラ市在住のアルバニア系で、父親が同じカ市非正規部隊の司令官だったということは、面白い。ともかく、トラキア地方、マケドニア地方では、ムスリムとしてのアルバニア系住民が地主、軍人、商人、その他社会の上層部にいる場合が多く、オスマン時代に、アルバニア系は、クリスチャンのギリシャ人、ブルガリア人などよりも上にいたという事例が多いようです。
 
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Re:お坊ちゃま (mugi)
2009-10-11 20:17:42
>室長さん

 私もサイードと我国の新首相が重なって見えましたので、この記事を書きました。そして外国人の評価というのも、決して当てにすることは出来ません。欧米、アジア問わず己の都合によって批評するのですから、彼らの都合の悪い人物に厳しいのは当然なのです。それでもお体裁屋が多い日本では指導者の育ちや品格を重視する人も少なくないようですね。

 私も含めて一般に日本人はバルカン情勢に無知なので、トラキアとマケドニアの違いも分らないでしょうし、Wikiでは見られなかった正しい情報を教えて頂き、有難うございました!どうも観光ガイドの話が眉唾物なのは、何処も変わらないようですね。ことにハーレムの話は男性に好まれるので、サービス精神なのか、自分もハーレムを持ちたかったとの願望の表れなのか、この手の話をするガイドが多いようで。ガイド氏はトルコが多数の美女をさらったとでも言いたかったのかもしれませんね。

 アルバニア系ムスリムでオスマン帝国のエリートになった人は多いように思えます。あのケマル・パシャも生まれはテッサロニキ、金髪碧眼の容貌から、政敵エンヴェル・パシャがケマルはアルバニア系ではないか、と揶揄したとか。もっとも、オスマン帝国時代は人種的な血筋は問題にされなかったし、トルコ人もかなり混血しているので白皙碧眼の人も珍しくありませんでした。
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ケマル (室長)
2009-10-12 10:43:25
 mugiさん、面白い回答をありがとう。
 もちろん、外国人の批評とか、評論とか、そういうものは大して当てにはなりません。日本人の多くが陥る落とし穴は、外国人の評価を気にしすぎることと、外国での事例を集めたがること。ブル人も、外国人にすぐ「ブルガリアをどう思うか?」とまず質問しました。要するに、自分自身に自信がないと、そういう態度になってしまう!!自己中心で尊大な側面もあるフランス人、ドイツ人は、まずそういう質問はしないし、他国に学ぼうとはあまりしない!!

 ところで、ケマルがテッサロニキ生まれとは知りませんでした。金髪碧眼というと、もちろんアルバニア系、ブルガリア系、ギリシャ系などの血液が入っていた可能性を感じますね。他方で、小生ブログで話題にしたトルコ系政党党首のアフメト・ドガンも、本当はタタール系の血筋と疑われています。しかし、トルコ系政治家の中には他にも、有名になってから「どうもあいつは、本当はポマックだ」と言われ始めた人物もいます。元来、ムスリムなら血筋は関係なかったオスマン的伝統もあり、エスニック的には色々な人が「トルコ系」として、トルコ共和国に移住している場合もある(トルコは、難民が多数ブルガリアとの国境に押し寄せて、困ると、一部を「ジプシーだ、トルコ人ではない」といって入国拒否したことが、1945年以降何度もある!)。

 テ市は、スラヴ系はソルン(太陽=Slqntseスルンツェから来た名称)と呼ぶけど、実はオスマン朝がスペインからの亡命ユダヤ人を歓迎したとき、まずイスタンブールに居住させ、次いでテッサロニキに大勢のユダヤ人を受け容れたのです。シオニズム運動が始まった頃も、テ市のユダヤ人はこの運動にあまり関心がなかったようです。バルカン半島という民族のるつぼの中、テ市ではユダヤ系が特に繁栄を極めたし、ユダヤ系も色々の系列(スペイン出身、ポルトガル出身、ユダヤ教諸宗派、など)に分かれて、全体としてあまりまとまらなかったようだし、ともかく現状に満足していたからだと思う。結局ナチスドイツに連行され、ポーランドの「最終解決施設」で虐殺され、テ市のユダヤ系の豊かな文化、伝統は消滅しました。本当に残念なことです。

 なお、トルコ系が多数派をしめるカルジャリ県(ブル南部)には、ユダヤ系住民も多かったのですが、第二次大戦後、この地方のユダヤ人は多くがイスラエルに亡命したので、ユダヤ人は少なくなっています。ただ、老後を故郷でという、少数のユダヤ人が最近、カルジャリ県に戻る動きがあるとブル紙で報道されたこともあります。カ県は山がちで、平野も畑も少ないですが、多数のトルコ系がいるので、集落数がブル国内では異常に多く、地図内に文字がいっぱいある(村落数が多いので)ので、小生としては驚きつつ、現地地図を見ています。少数民族は、群れてすみたがるのです!!
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Re:ケマル (mugi)
2009-10-12 20:52:53
>室長さん

 欧米留学または在留した日本人の中には劣等感の塊になり、不適応の果て日本に舞い戻ったくせに、帰国後も現地を持ち上げる“出羽の守”に陥る類もいますね。そのようなブロガーもいたし、彼らは貴方が以前仰ったように、ダメな人は何処の世界でもダメでしょう。自己中心、尊大な性格の方が外国人と渡り合えるのかも。それにしても、ブル人も外国人の評価を気にするとは意外でした。

 一般にトルコ本国の人は黒髪黒目が多いのではないでしょうか?もちろんトルコ人もかなり混血をしているので、アラブ人よりはずっと色白だし、中央アジアのテュルク系民族はモンゴロイドの風貌で日本人と似ています。貴方のブログでアフメト・ドガンのことを拝読させて頂きましたが、凄い人物ですね。17歳の美人モデルの愛人を伴って人前に登場するのだから、この点は享楽的な地中海社会風です。これってトルコ本国はもちろん、イギリスやドイツなら考えられないことでしょう。

 ドガンはタタール系だとしても、確かタタール系はテュルク、モンゴルやツングース系まで含めた民族だったはず。しかし先日読了したトルコの小説に、オスマン朝の始祖がタタール人の子孫と呼ばれたことに憤慨する場面がありました。タタールの定義も複雑ですが、この民族に対するトルコの思いも複雑のようです。この小説にはケマルのアンカラ政府に協力する人々の中にポマックもでて来ます。

 テッサロニキにいた多くのユダヤ系市民が、先の戦争の「最終解決施設」で虐殺対象となったことは知りませんでした。シオニズム運動にあまり熱意が無かったのも、この町では暮らしよかったこともあるのでしょうね。ブル南部のカルジャリ県でユダヤ系住民がトルコ系と暮らしていた歴史も面白いです。キリスト教徒住民とは食をめぐるタブーもあり、一緒に暮らしにくかったのやら。ブルに限らず少数民族は群れてすみたがりますが、食をめぐり禁忌もあったりするので、文化を共有する者同士が暮らすようになるのかもしれません。
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まったり (室長)
2009-10-13 10:53:09
 まず、タタールについて。ブル百科事典によるとTatari(複数形、単数形はtatarin)=元バイカル湖畔にいたアルタイ語系民族。12世紀末に、モンゴール高原、北部満州に移住。13世紀~14世紀、チンギス・ハーン統治下にボルガ川流域、ロシア、ウクライナ、クリミア半島を征服、更に西方としてはハンガリーまで到達。ハンガリーから退却する際にブルガリアに侵攻し、ブルを支配下の服属国とした(1242--1300年)。ブル王Todor- Svetoslavが、タタールを追い出した。となっています。
 要するに、モンゴル帝国のロシア、東欧にまで侵攻した人々の子孫が「タタール」と呼ばれるようです。基本的には、モンゴル族と、トルコ族、その他中央アジアの遊牧民などとも混血している可能性があるけど、基本はモンゴル系ということ。

 ドガンが生まれたドブルジャ地方は、オスマン時代にはトルコ系、タタール系、ジプシー系、ブルガリア人、ルーマニア人などが混在した大平野で、今でも穀倉地帯と言われているし、近世にもルーマニア支配下に入ったこともあったりします。ヨルダン・ヨフコフという、19世紀ロマン主義のブル人作家が書いた、ドブルジャに関する優れた名作・小説があるのですが、当時ドブルジャで使用されていた特殊な方言(トルコ語の影響が大)が使用されていたりして、小生も簡単に理解できないところも出てくるのですが、静かで、平穏で、「まったり」とした、進歩とか、発展とかとは無縁の安定したオスマン時代以来の雰囲気がにじみ出ていて、ロマンチックな農村生活を描き出しています。

 つまり、近代、現代の波とは関係のない、平穏な農村、それこそ伝統と、文化の中にどっぷりつかった一種の理想郷です。

 他方で、ドガンが経験したのは、共産党の独裁者ジフコフの晩年。ジフコフがゴルバチョフの「新思考、ペレストロイカ」政策に反発を強め、国内を引き締めるためにも採用した、トルコ系、或いはポマック達に対する徹底した「同化政策」(反対するものは、トルコに追い出す)という、「民族再生=改名、同化政策運動」でした。これに対する反対運動を、ヴァルナ市(同地にもトルコ系は多い)で組織したわけですが、投獄され3年間の苦難を経験。

 トルコ系の政治指導者として、かなり独裁者的地位を盤石にしたドガンは、清濁合わせて飲み込める、東洋的な指導者となり、トルコ系に対して、経済的利益を引き出すと同時に、ブルガリア国家の安定にも寄与するという、複雑な対応を取り、一部ブル人からも高く評価されています。自分自身、汚職まみれではあるのですが、それでも女性を含めて多くの支持者を確保していて、まさに大物政治家です。
 
 ともかく、バルカン半島では、オスマン時代に多民族協和という、満州国の理想のようなものが、実現されていたので、その当時の雰囲気のある田舎都市とかでも、まったりとした空気が楽しめます。音楽も、アラブ音楽、トルコ音楽、ギリシャ音楽、ブルの現代のギリシャ系音楽をまねた音楽など、全ての基調は、「退廃的で、進歩とは無関係」な、まったりした音楽だということ。

 多民族で、多文化、それでもそれなりに親しい関係など、バルカンの文化の多様性は、近代以降の「民族国家理念」(フランス革命の産物)で、相当被害を受けたと思う。小生としては、オスマン的調和がなんとなく懐かしい気持ちです。まあ、ブル国民の意識とは、少しかけ離れた、傍観者の意見となってしまうのですが。
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Re:まったり (mugi)
2009-10-13 21:55:15
>室長さん

 タタールといえば、モンゴルを連想していましたが、wikiにはモンゴルの他にトルコやツングース系など、様々な放牧民の血筋も引いているとありました。トルコとモンゴルは元は同系の民族だし、定住農耕民に較べ遊牧民は異民族との混血を嫌がりませんよね。基本はモンゴル系でも、現代のバルカンのタタール人は混血の結果、完全な白人風の容貌になっている?金髪碧眼の“トルコ人”もいるから、紅毛碧眼のタタール人もいるのでしょう。

 何処も隣国は不仲な傾向がありますが、トルコ本国ではブルガリアでのトルコ系住民への差別に反発、憤慨する世論が強いと聞いたことがあります。でも、トルコでの人権問題をワイワイ言いたがる西欧は、この件は無視しがち。逆にクルド人問題を突きつけたり、第一次大戦時のアルメニア人虐殺を未だに蒸し返しています。これって完全なダブルスタンダードですよ。キリスト教徒には甘く、異教徒のアジア人には差別をするようで。

 トルコの音楽といえば、有名なのは「ジェッディン・デデン Ceddin Deden 」(祖父も父も)。これはNHKドラマ「阿修羅の如く」のOPで使われました。本当にまったりした音楽で、このスローテンポの曲が軍楽とは信じられませんでした。希土戦争時、ケマルのアンカラ政府軍は少年達に愛国歌を作って教えていたそうです。

 それにしても、バルカンの歴史は奥が深いです。私はこれまでトルコといえば、アラブやイランといった中東との繋がりしか見ていなかったことを、つくづく思い知らされました。バルカンとトルコの関係を調べると、また違うトルコ史が見えてきますね。西欧人史家はどうも、トルコの統治を低評価しがちだし、圧制と残虐行為をここぞとばかり強調しているように感じられるのは、トルコ贔屓の勘ぐりでしょうか?
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容貌 (室長)
2009-10-13 23:39:10
 mugiさん、
 バルカン半島の場合混血が進んでいるので、ドガンの場合も、鼻は高いし、モンゴル系の名残は少ないです。背が低い(160cmくらいか?)のですが、背の高さは少年時代までの栄養素にタンパク質をどの程度摂取し得たか、という貧富の問題が関わるので、ブル人にも背が低い人は結構いるし、英国などでも昔は相当背が低かったという。

 タタール人という定義は、元来モンゴル系の血液が主となったということですが、当然モンゴル帝国の領域拡大で、各地の血液を混血させたし、ロシア在住のタタール人は、その後ロシア人、ウクライナ人などの血液も入っている。ブルの場合も、タタール人と言っても、ブル人、ルーマニア人、ハンガリー人など、多くの血液混入があり得るし、トルコ人の血液も混じっていてもおかしくはない。碧眼紅毛とか、そういう可能性もある。

 イスタンブールに、昔行ったときも、欧州系の容貌も多く、アラブ風の容貌もあるし、そういう欧州+アラブという感じは、バルカンとよく似ていた。すなわち、純粋にトルコ系と言う感じは少ない。しかし、褐色系で、少し背が低く、黒髪という男性などもいる。この褐色、黒髪という容貌は、実はアルメニア人も多くて、小生はベラルーシで見たアルメニア系男性数名が、容貌的にはトルコ系と区別がつかなかった。

 バルカン半島では、60年代、70年代にブルからユーゴのベオグラードに行くと、急に背が高い人が多く、肌も色白となるのでびっくりした経験がある。女性も、やたらに長身が目立って、同じバルカンでもずいぶん違う感じがしたけど、よーく観察すると、長身は上流階級が多く、下の階層はあまりブルと変わらないと気づいた。その後、長身は、経済的に上だったスロベニア系、クロアチア系が多く、セルビア系、マケドニア系は、さほどブルと変わらないことが分かってきた。

 アルメニア人虐殺問題は、欧米である程度支持があるにしても、必ずしも対トルコ非難ばかりではないし(ロシアと組む傾向の強いアルメニア人への警戒心から、それに冷戦時は、トルコが対ソ連の前線として重要だったから)、クルド問題は、EUに本当はトルコを加盟させたくないから、口実として使える道具です。西欧は、或いは米国は、いつも外交の際に、自分達はどういう論理で相手を牽制しうるか、その道具立てを用意して、論争に備えます。アルメニア問題、クルド問題、両方とも、都合良くトルコ相手に使える道具なのです。しかし、トルコを利用する価値が高いときには、二つの問題は無視します。当然の戦術です。決して欧米は汚いとか、ダブルスタンダードだとか、単純に非難すべきではなく、欧米の論理学、雄弁術など、そういう手法を教えているわけで、外交とはそういうもの。

 日本もそういう風に考えて、色々使える道具立てを日頃から用意しておくべきです。歴史問題、教科書問題、慰安婦問題、全て日本が繁栄し、自分たちが劣勢にあった当時、中国、韓国が編み出した「道具立て」です。対日牽制、非難の道具立てとして、有効な手段を練った、それに日本の一部のバカが乗っかったのが悲しい!!靖国神社参拝などは、宗教問題として、国論を統一できれば、断固無視できたはず。新興宗教、キリスト教などが同調して国益を害した!!

 トルコの音楽で、小生がすぐ想起するのは、ウシュクダラ・ギデリケン・・・です。一時日本でも流行ったのですが、mugiさんの世代では、知らないのでしょう。エジプトの音楽もやはりそうで、まったりと退廃的ですね。ああいう音楽に浸っているようでは、強い軍隊は生まれそうにもないのに、オスマン帝国は欧州深く侵攻した!もっとも、ジェッディン・デデンは、それなりに欧州人を恐怖のそこに落とすほど、欧州人には気味の悪い旋律だったのではないでしょうか?
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善人はほめことばではない (madi)
2009-10-14 10:54:13
 文脈にもよりますが「おひとよし」「おきらく」という意味でほめているわけではありません。善王とよばれるフランスの王は英仏100年戦争でフランス側最大の敗戦をくらい自分まで人質になり、身代金が一部支払で解放されたものの残額がおくれたらまた自ら人質になったひとです。民衆としてはいい迷惑だったことでしょう。小説ですが佐藤賢一「双頭の鷲」新潮文庫などででてきます。その息子は賢王として知られています。日本人なら狡猾と評価するかもしれません。
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Re:容貌 (mugi)
2009-10-14 22:19:57
>室長さん

 複雑な民族構成のバルカンですが、身長の差は遺伝子もあるでしょうけど、幼少時代の栄養に左右されるようですね。英国の貴族と下層階級は同じ民族でも体格が違うと聞いたことがあるし、ゾロアスター教徒もイランとインドでは身長が違うのが映像からも分りました。共に同教徒とだけ結婚しているにも係らず、イランの教徒は日本人とあまり変わりないのに対し、インドのパールシーは総じて長身です。元から長身のアーリア系であり、生活が豊かという背景もあるはず。
 中央アジアのトルコ系民族も、容貌はトルコ共和国よりずっとモンゴルの人々に近い。元来トルコ系はモンゴロイドのはずだし、イランの中世の文学にも「細い目」とトルコ人を描写していました。

 貴方の仰られた外交戦術、とても参考にさせて頂きました。何しろ私は海外生活体験皆無の東北の田舎者、己のことは棚に上げ、他を責める欧米式ダブルスタンダードにとても不快だったのですが、外交というのはそのような手段を駆使するものだったのですね。雄弁術、論理学や「道具立て」を駆使、あらゆる方法で外交に臨むのが理想ですが、悲しいことに日本は誠意、友好を重んじる人々が多すぎる。誠心誠意があれば心が通じると説く大馬鹿者の出羽の守までいます。こいつらは本当にサイテーです。
 新興宗教、キリスト教徒などは大半が国益を害することに熱心な反日分子ですから、この類にはどう対処すべきか、「道具立て」を常に考えていた方がよいでしょうね。

 ウシュクダラは名だけは聞いたことがあります。あるトルコ史研究者はこの歌は完全に日本風味付けであり、オリジナルは哀愁を帯びて節をつけて歌うもので、似ても似つかぬものだ、と書いていました。
 オスマン帝国の精鋭イェニチェリは元来欧州人キリスト教徒の子弟からなっていました。レパントの海戦に勝利しても、依然としてトルコの脅威は欧州にとって悪夢だったでしょう。
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Re:善人はほめことばではない (mugi)
2009-10-14 22:22:06
>madiさん

 個人間では善人は褒め言葉かもしれませんが、国の支配者となれば愚かや無能の意味が含まれるのではないでしょうか。「ナイーブ」というのも一般に日本人は褒め言葉と取る傾向がありますが、欧米では軽蔑的なニュアンスもあるそうです。私は佐藤賢一「双頭の鷲」は未読ですけど、件のフランス王は敗戦の挙句、身代金をしこたま取られたにも係らず、善王とはブラックジョークですね。

「人と人との信頼が大切だ」と欧米人に言われると、コロッと信じる「おひとよし」日本人も少なくないようです。新大陸先住民がどのような憂き目にあったのか、書くまでもないでしょうに。
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