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もし、キリストに隠し妻ならぬ本物の伴侶がおり、子供を儲けていて、さらにその子孫が現代にもいたらどうだろう?この映画の設定ではキリストに妻がいたとなっていたので、さすがバチカンが「嘘と理不尽な中傷を拒否しよう」とボイコットを呼びかけただけある。
聖書では娼婦となっているマクダラのマリアがキリストの妻だけでなく、後継者でもあった、というのがこの映画での解釈。妻が後継者と指定されたのでは、キリスト教教義の根幹に関わるため教会はマリアを娼婦と改ざん、捏造したというのだ。私は原作未読だが、マクダラのマリアがキリストの妻とは、非クリスチャンの私でも疑問に思う。お話としては楽しいが。
映画は不可解な殺人事件で始まる。ルーブル美術館長ソニエールが銃で撃たれ、死の間際、ダ・ヴィンチの「ウィトルウィウス的人体図」を模した形で横たわり、謎の暗号を残す。この暗号を解析する主人公がトム・ハンクス扮するハーバード大学教授ラングトン。宗教象徴学者の彼は、殺害されたソニエールの孫娘ソフィーと共に事件を追う。暗号解析については時間の制限もあり、駆け足気味で展開するので、フィボナッチ数列など聞きなれない言葉も飛び出す。ただ、現代でも生存するキリストの子孫は、映画中盤から誰なのか、想像はついてしまった。
この映画で最も不気味な印象を与える悪役は、オプス・デイの修行僧シラスだろう。この「神への敵対者」の抹殺を躊躇わない狂信的暗殺者が自ら体に鞭打ち、腿に鋼鉄の帯を巻き付けるシーンを不快と感じた方も少なくないと思う。何も苦行をするのはオプス・デイだけではなく他の宗派にもみえ、キリスト教ばかりではなく、イスラムのシーア派にも苦行の儀式がある。男の信者たちが鎖や鞭で自分の背中を打ちながら行進するので、異教徒からはマゾヒストの集団行進さながらだが、スンニ派からも「気違い沙汰」呼ばわりされている。
苦行者とは信仰心が極めて薄い者の理解を越える存在だが、苦行の果てに神と一体感となる恍惚が得られるのだろうか。儒教圏ならずとも「身体髪膚、これ父母に受け継ぐ」に共感する人がほとんどだろう。
大学教授役のトム・ハンクスは、ミスキャストにしか見えなかった。終始真面目くさった顔で登場していたが、宗教象徴学者らしい品格が出ない。主人公の友人であるイギリス人宗教歴史学者に扮したのがイアン・マッケラン。『ロード・オブ・ザ・リング』で初めて彼を知ったため、思わず“ガンダルフ”と呼びたくなってしまうが、さすがにベテラン役者らしく学者役が板についていた。ヒロイン役のオドレイ・トトゥは『アメリ』と全く違う印象だが、反ってシリアスドラマが合うのかもしれない。
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聖書では娼婦となっているマクダラのマリアがキリストの妻だけでなく、後継者でもあった、というのがこの映画での解釈。妻が後継者と指定されたのでは、キリスト教教義の根幹に関わるため教会はマリアを娼婦と改ざん、捏造したというのだ。私は原作未読だが、マクダラのマリアがキリストの妻とは、非クリスチャンの私でも疑問に思う。お話としては楽しいが。
映画は不可解な殺人事件で始まる。ルーブル美術館長ソニエールが銃で撃たれ、死の間際、ダ・ヴィンチの「ウィトルウィウス的人体図」を模した形で横たわり、謎の暗号を残す。この暗号を解析する主人公がトム・ハンクス扮するハーバード大学教授ラングトン。宗教象徴学者の彼は、殺害されたソニエールの孫娘ソフィーと共に事件を追う。暗号解析については時間の制限もあり、駆け足気味で展開するので、フィボナッチ数列など聞きなれない言葉も飛び出す。ただ、現代でも生存するキリストの子孫は、映画中盤から誰なのか、想像はついてしまった。
この映画で最も不気味な印象を与える悪役は、オプス・デイの修行僧シラスだろう。この「神への敵対者」の抹殺を躊躇わない狂信的暗殺者が自ら体に鞭打ち、腿に鋼鉄の帯を巻き付けるシーンを不快と感じた方も少なくないと思う。何も苦行をするのはオプス・デイだけではなく他の宗派にもみえ、キリスト教ばかりではなく、イスラムのシーア派にも苦行の儀式がある。男の信者たちが鎖や鞭で自分の背中を打ちながら行進するので、異教徒からはマゾヒストの集団行進さながらだが、スンニ派からも「気違い沙汰」呼ばわりされている。
苦行者とは信仰心が極めて薄い者の理解を越える存在だが、苦行の果てに神と一体感となる恍惚が得られるのだろうか。儒教圏ならずとも「身体髪膚、これ父母に受け継ぐ」に共感する人がほとんどだろう。
大学教授役のトム・ハンクスは、ミスキャストにしか見えなかった。終始真面目くさった顔で登場していたが、宗教象徴学者らしい品格が出ない。主人公の友人であるイギリス人宗教歴史学者に扮したのがイアン・マッケラン。『ロード・オブ・ザ・リング』で初めて彼を知ったため、思わず“ガンダルフ”と呼びたくなってしまうが、さすがにベテラン役者らしく学者役が板についていた。ヒロイン役のオドレイ・トトゥは『アメリ』と全く違う印象だが、反ってシリアスドラマが合うのかもしれない。
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たまたまテレビをつけると「ロード・オブ・ザ・リング」をやっていたので、びっくりしました。
イアン・マッケランはガンダルフのイメージが強烈に残っているので、いつ魔法を使うのかと思ってしまいます。
ブッダもそうでしたけど、苦行をする宗教というのはどうも抵抗がありますよね・・・
「ダ・ヴィンチ・コード」は結構楽しく読めました。
意外に陰謀のスケールが小さかったのには吃驚でした。
もはやトム・ハンクスには食傷気味なので、DVDになった時にでも鑑賞しようと考えています。
「マリア娼婦説」は、1969年にヴァチカンが秘めやかに撤回を表明したらしいです(「ダ・ヴィンチ・コードの謎を解く」PHP文庫)。本当でしょうか?
1945年に発見されたナグ・ハマディ文書に「マリヤによる福音書」というのがあり、ペテロがマリヤに「姉妹よ、救い主が他の女性達にまさってあなたを愛したことを、私達は知っています。あなたの思い起こす救い主の言葉を私達に話してください、あなたが知っていて私たちの知らない、私達が聞いたこともないそれらの言葉を」と要請しています。
イエスとマグダラのマリヤの関係は、昔から人々の興味を掻き立てるテーマなのかもしれませんね。
「磔刑」、「埋葬」、そして「復活」と、イエスの重要な場面に登場しているからなのでしょう。
イアン・リー教授は今回も“魔法”を使いましたね。友人や側近を騙し続けて、正体が実は・・・だったから。途中から少し怪しい感じがしてきましたけど。
苦行せず楽に悟りを…などと考えていたら、宗教に向き合う資格がないですよね。
「ダ・ヴィンチ・コード」は図書館に予約待ちなので、読めるのは少なくとも一ヶ月は先になりそうです。
もっと大きな宗教陰謀モノかと想像してましたが、読んでからのお楽しみですね。
私もkossyさんのブログで「マリア娼婦説」撤廃を知りましたが、映画『パッション』では定説のままだったような・・・
「マリヤによる福音書」は初耳です。情報、ありがとうございました。どうしても宗教が教団として発展していくなら、男性優位主義となっていきますよね。
イエスとマグダラのマリヤを描いた映画が昔あったような気がします。確か復活したイエスがマリヤと愛し合い、宗教団体が猛烈に抗議したのを憶えています。
私のように歴史にも宗教にも疎い者から見れば、バチカンのいう、「嘘と理不尽な中傷」とは何なのでしょう?キリストに子供がいるという事でしょうか?それとも、後の弟子達が、搾取と殺戮を欲しいままにした事なのでしょうか?本当に、「嘘と理不尽な中傷」であれば、もう少し、理性的な対応すればよかったのですが(いらぬ、誤解を与えかねませんね)。
また、マ○的なシラスですが、他人を殺めても、神や、天使の名を上げる事にも、不快感を感じました。また、その後のコメントで、「神は人を殺すことを許していない」というものもありましたが、十字軍・魔女狩りといい、その後のキリスト教国家による、植民地支配・搾取といい、非常に説得力がないように思えました。
しかし、最後にありましたが、それでも信じるかどうかは、結局は個人の問題だと思います。こういう娯楽映画で信仰心を失うようであれば、その者の信仰心はそれ位のものだと思えますし、それに目くじらを立てるバチカンは、その狭量を示しただけのように思えます。
トム・ハンクスは途中からは影が薄くなりましたね。また、イアン・マッケラン、オドレイ・トトゥ(物凄く、美人で若い、という訳ではないですね)、最近、悪役(?)も板につきつつあるジャン・レノといい、それなりに、楽しめました。
バチカンが「嘘と理不尽な中傷」と批判するのは、聖書に書かれていないこと、つまりキリストが結婚していた事、妻が実は後継者だった、を指しているはずです。聖書に書かれてないばかりか、逸脱する解釈は許さないのがバチカンの基本姿勢だから。
シラスに限りませんが、狂信者が神の名を唱えながら殺人を行うのは珍しくもありません。「アッラー・アクバル(神は偉大なり)」を何度も繰り返しながら、イラクで人質になった異教徒を殺害する映像はネットでも出回ってます。
あと、聖書を見れば「神は人を殺すことを許していない」は解せませんね。神に背いた人間は容赦なく殺せと記されてますが、自己都合解釈がすごいのも狂信者の特徴です。 ((((;゜Д゜)))ガクガクブルブル~~~
この映画を見て信仰心を失うとは思えないのですが、バチカンの呼びかけに応じた信者も少なからずいました。バチカンの狭量さは筋金入りですが、逆にこれだけ結束する宗教組織も珍しい。
今回ジャン・レノは少し影が薄かったですね。『レオン』はよかったです。
ご覧になったかもしれませんが、女子修道院の様子などは、「尼僧物語」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BC%E5%83%A7%E7%89%A9%E8%AA%9E
をご覧になると面白くわかると思います。キャサリン、オードリー、ダブルヘプバーンが出演しています。
それと、おそらくこの映画から着想を得て書かれたのだと思われる小説、曽野綾子の「不在の部屋」というのもあります。
http://www.amazon.co.jp/%E4%B8%8D%E5%9C%A8%E3%81%AE%E9%83%A8%E5%B1%8B-%E6%96%87%E6%98%A5%E6%96%87%E5%BA%AB-133%E2%80%9014-%E6%9B%BD%E9%87%8E-%E7%B6%BE%E5%AD%90/dp/4167133148
映画は全くの予備知識なしで見たためか、私も結構面白いと思いました。主人公よりも敵役のシラスの方が不気味で、存在感がありました。
「尼僧物語」はまだ未見です。リンク先のwikiを見たら、何と最後にヒロインは還俗するのですね。確かにこのようなタイプでは尼僧は向かないでしょう。
そして曽野綾子の小説は未だに読んだことがありません。どうもカトリックということで、敬遠しているのです。リンク先の『不在の部屋』には、「戒律の民主化は修道女たちの魂にとめどない荒廃をもたらした。修道院は優雅で懶惰な女の下宿屋のようになりついに聖堂からも神が消え…」とありました。厳しい戒律も中世なら効果的でしたが、現代では難しい。
主人公が修道院するときに、お父さんが、修道院の鐘を音を聞いて、「あれは神の声だ、これからはあの音に従って生活することになるのだよ」と諭した(嘆いた)ことが印象深く残っています。
不在の部屋は、元々聖堂にも修道院にも神はいなかったのだ、古めかしい宗教儀式や戒律の中だけに神の雰囲気があっただけだ、ということを言っていると思いました。
曽野氏はカトリックですが、どうも無神論的カトリック信者のように思います。2ちゃんねるでも結構叩かれているようです。
繰り返しになりますが、『尼僧物語』『不在の部屋』は共に未見なので論評は出来ません。高名な医師の娘が尼僧を目指した理由も不明だし、「修道院が期待している様な尼僧」とはどんな尼僧なのでしょうか?修道院長にひたすら仕える人?昔なら食べるために修道院に身を寄せた女性も多かったでしょうけど、選択肢が広がっている今では魅力に乏しい職業です。
曽野綾子への批判なら、拙ブログでもありました。一人は私と同じくアンチキリストですが、もう一人は自称カトリックです。前者が異教徒日本人に対するキリスト教優位思想を責めるのは当然ですが、カトリックからも評判がよくなかったのは意外でした。
「そんななかでそこそこ良識?あるカトリック信者は三浦朱門も曾野綾子も嫌っています。曾野綾子は日本に逃げたフジモリペルー元大統領の救援運動の先頭に立ち、北朝鮮から日本に逃げている人々には目もくれていません」とコメントしていました。
「日本のキリスト教徒は、北朝鮮に拉致された日本人には目もくれなかったのではないでしょうか?」と、私は逆ねじを食わせましたが、やはり返答はありませんでした。