I am a Rationalism...................................................
人というのは物事の目的さえちゃんと持っていれば誰しも合理主義者(rationalist)となっていくものだと思われます。
しかし簡単に思える「目的」を逸することが多いのはどうしてなのでしょう。
単純に人と待ち合わせするという簡単なことをうまく行えないというのは非常に疑問が残ります。
今週の月曜日に他人に冷たい反応をしてしまったんですがね。
その前日の日曜日からおいらの価値観と他人の価値観との間に大きな溝があることに気がつきました。
「おいらの予定だけならばまだ良い」と考えていました。
でも幾人も居る中で予定を合わせたり、優先順位を持ち出したりすると良く知っていないと不快に感じることがあります。
おいらは意味のない行動というのは嫌う傾向があります。
こうした行動をしていると本当に痛感することとしては「言うは易し」という事実でしょう。
ただ単に非建設的なことをずーっと行うというのはおいらにとっては苦痛でしかありません。
自己中心的な思考は時にLeadershipをとるのに向いているのかもしれませんがね。
何時でも何処でも自己中心的な人間というのは多くの場合に他人に迷惑をかける事の方が多いでしょう。
簡単なことでも難しくしてしまったり、ややこしくしてしまうと言うことも多々起こりえますよね。
人間の行動の基準というのは人を巻き込むのであれば責任をもって行動することが求められます。
「言い出しっぺ」は特に責任が重大でしょう。
提案者には責任の大半を課されるべきだとも思われます。
ところがこの責任の所在を提案者が認識していないことが多いんですよね。
提案する人間の責任としては巻き込んだ人間を快適にさせる責任が発生するでしょう。
しかし殆どの人間は自分と自分に最も近い人間さえ良ければ良いと言う思考の人間が多いのは問題があるでしょう。
最近の傾向としては「最も近しい人間」にもう一つ付け加える言葉があります。
「行動を共にする」という言葉です。
つまり長いSpanでではなく一時的、つまり数日、数時間、数分を共にする人間の予定を優先してしまうと言うことです。
おいらの中での定義としては「一緒に行動する」というのはそんな刹那的な浅はかな行動基準ではなく長いSpanでの行動を考えているわけですよ。
これには人の評価も伴います。
人と行動を共にする場合に
「如何にその人が人のために行動することを基準としているか」
ということです。
行動というのは単純ではありません。
すべての人は個々の流れ(Flow of Force)の中で生活を送っています。
自分がその流れ(Flow of Force)を作り出しているという意識はないのかもしれませんがね。
流れ(Flow of Force)というのは個人の意思決定、行動、発言、予定などによって自ずと発生するものです。
このことに関してはもっと詳しく書きたいな~とか考えています。
おいらは隔週で予定を立てて時間を取り分けて月曜日にMatsuyamaに運転をしていきます。
これは前もって予定を取り分けているんですよね。
しかし最近の傾向としてこの予定を軽んじられるようになってきました。
前もって予定を変更されるならば構わないんですけどね。
少なくとも一週間程度前には予定変更の旨を伝えてもらいたいんですよね。
それが前日であったり、2日前であったりするわけです。
2日前であればまだ良いんですけどね。
こういう変更というのはおいらからするとかなり精神的に揺さぶられることに成ります。
これだけならばおいらは声を荒らげることはなかったのかもしれません。
通院以外にMatsuyamaに行く予定があったからです。
別々に行動する予定で行くつもりだったんですよね。
よって「私たちもMatsuyamaに行く予定があるんだよ。」と伝えました。
すると向こうで「食事でもしよう」とあちら側が言い出した訳です。
別々に行動するのであれば食事をする必要性が全くありません。
しょっちゅう行動を共にしていますのでね。
この子の思考というのはよくわかっています。
よく書けば「優しい」、悪く書けば「優柔不断」な子です。
優柔不断な人間の傾向としては「目的を逸すること」が多いということでしょうね。
例えば鳩山由紀夫前首相なんかがいい例なのかもしれません。
あのような人間を「国のTopにする」はもとより「Topに据え続ける」というのは問題があったように思います。
意見がコロコロ変わるのですからな。
「信頼はもとより人間としてどうなのよ」と言われてもおかしくはないような気もします。
よく政権を取れたな~と思えますね。
政治の話はいいんです。
おいらもそうだったのでなんなんですが、優柔不断な人間はたくさんの人間との関わりを持つのが難しいのかもしれません。
自分の意思が弱い人間の場合は特に「意見がすぐに変わってしまう」からなんですよね。
また正当化するのもいろいろと巧いように思いますな。
おいらは筋が通っていないと納得しない人間です。
優柔不断でも頑固で良いと思ったことは曲げない方だったと思われます。
根っこではですけどね。
それと合理的なのは変わってい無いことを感じますな。
仕事でもPrivateでもおいらの行動の基準というのは
「一連の流れを考えて組む」
というのが習慣となっています。
これは取りも直さず前後左右の関係性を考え、「前々から後々まで」「広く長く」の項目をClearして使用したり、効果が及ぶようにすることが前提になっています。
そういえば、効率を追求することを悪とする風潮があります。
これは合理主義を批判することにつながっているのですがね。
ところが芸術的にも学術的にも結局は「美しければ善」となることが少なくありません。
それに「勝ったものが善、負けたものが悪」という事実もありますがね。
これらはまた別の話ですな。
個々人の人間の場合には追求すべきこととして取り組むべきことは
・目的を定める
・目的を果たす方法を考える
・考えた方法を実行する
といったところでしょうか。
実行した時点で「目的というのは果たされたも同然である」ことを考えると「達成」という項目は必要ないでしょう。
しかし目的を掲げたものの、その方法を見つける気もなく漫然と生活を送っている人間が多いのはどうしてなのだろうと思えてきます。
目的というのはそれを果たすために設定するものです。
それを適当で場当たり的に、時にはノリで提案するのはおいらは大嫌いなんですよね。
他人の予定をかろんじる人間の多くは瞬間的に思いついたことを実行することに集中していることが少なくありません。
おいらはこういう人間とは相いれません。
確かにおいらも場当たり的に発想が生まれることが少なくありませんし、それを発言したりしますがね。
発したならばそこには責任が生じるのですから、言うのは「=尻を持つ」という覚悟をしてからでしか言いません。
勿論ですが、目的を果たすためには少なくとも幾通りもPatternを考えますし、その中で効率のいい方法を用いることに最善を尽くすことは定められています。
言い出しっぺは「可能な限り巻き込んだすべての人間の福祉を最優先する」というのは当然のことでしょう。
ここに問題があります。
おいらが怒った点としての論点は幾つかあります。
それらを項目として並べてみましょうかね。
・あちら側からの食事を一緒にしないかという提案
・「こちらは一緒に食事をしなくてもいい」と断ったこと
・こちらは既にMatsuyamaで待っている状態だったこと
・あちらから電話があり合流するために移動を始めていたこと
・それなのにあちらは集合場所も定めずShopping Centerの電気屋さんでうろうろしていたこと
ということです。
こちらはしなくても良いと断っておきながら、あちらが食事をすることをこちらに取り付けました。
よってこちらはMatsuyamaでも病院に近いところで時間を潰していたんですよね。
それは電話であちら側に伝えてありました。
電話があった際にはすぐにこちらは移動をするために車に乗り込み、向かいました。
しかしどこで待つとも連絡がなく病院に向かい始めたのですがね。
一応連絡を取っておかなければならないと同行者に連絡を頼むとジョープラという店のデオデオに寄っていると言うではありませんか。
流石に腹がたってしまいました。
お腹が空いていると短気になるというのは確かでかなり空腹だったのもあるのですがね。
それを差し引いても、Naturalなおいらでさえ苛立ってしまう扱いですな。
これはこの子との関係を再考する必要性があるようです。
3年半程度の期間、隔週で病院に行かねばならないということで運転していったんですがね。
結構な労力だとは思うのですが、優先順位としてはかなり低いところにあるようなので労力を割くべきではないようです。
妥当な扱いならば別に構わないのですが、最近はおいらの行動を考えるにあたって周りの人間にも影響があるということを理解出来ています。
つまりおいらが精神的な調子が悪いと周りの人間に迷惑をかけるということから、おいら自身の価値を再考して調整しています。
「切り捨てる」事も考えていかねばならないでしょうな。
こちらは別に切ってもなんの被害もありませんし、Matsuyamaに行くならば自分で行けばいいのですからな。
事はそう単純なことではありません。
付き合い自体をしないようにすることも考えなければならないでしょう。
それぐらいに腹がたっています。
人というのは物事の目的さえちゃんと持っていれば誰しも合理主義者(rationalist)となっていくものだと思われます。
しかし簡単に思える「目的」を逸することが多いのはどうしてなのでしょう。
単純に人と待ち合わせするという簡単なことをうまく行えないというのは非常に疑問が残ります。
今週の月曜日に他人に冷たい反応をしてしまったんですがね。
その前日の日曜日からおいらの価値観と他人の価値観との間に大きな溝があることに気がつきました。
「おいらの予定だけならばまだ良い」と考えていました。
でも幾人も居る中で予定を合わせたり、優先順位を持ち出したりすると良く知っていないと不快に感じることがあります。
おいらは意味のない行動というのは嫌う傾向があります。
こうした行動をしていると本当に痛感することとしては「言うは易し」という事実でしょう。
ただ単に非建設的なことをずーっと行うというのはおいらにとっては苦痛でしかありません。
自己中心的な思考は時にLeadershipをとるのに向いているのかもしれませんがね。
何時でも何処でも自己中心的な人間というのは多くの場合に他人に迷惑をかける事の方が多いでしょう。
簡単なことでも難しくしてしまったり、ややこしくしてしまうと言うことも多々起こりえますよね。
人間の行動の基準というのは人を巻き込むのであれば責任をもって行動することが求められます。
「言い出しっぺ」は特に責任が重大でしょう。
提案者には責任の大半を課されるべきだとも思われます。
ところがこの責任の所在を提案者が認識していないことが多いんですよね。
提案する人間の責任としては巻き込んだ人間を快適にさせる責任が発生するでしょう。
しかし殆どの人間は自分と自分に最も近い人間さえ良ければ良いと言う思考の人間が多いのは問題があるでしょう。
最近の傾向としては「最も近しい人間」にもう一つ付け加える言葉があります。
「行動を共にする」という言葉です。
つまり長いSpanでではなく一時的、つまり数日、数時間、数分を共にする人間の予定を優先してしまうと言うことです。
おいらの中での定義としては「一緒に行動する」というのはそんな刹那的な浅はかな行動基準ではなく長いSpanでの行動を考えているわけですよ。
これには人の評価も伴います。
人と行動を共にする場合に
「如何にその人が人のために行動することを基準としているか」
ということです。
行動というのは単純ではありません。
すべての人は個々の流れ(Flow of Force)の中で生活を送っています。
自分がその流れ(Flow of Force)を作り出しているという意識はないのかもしれませんがね。
流れ(Flow of Force)というのは個人の意思決定、行動、発言、予定などによって自ずと発生するものです。
このことに関してはもっと詳しく書きたいな~とか考えています。
おいらは隔週で予定を立てて時間を取り分けて月曜日にMatsuyamaに運転をしていきます。
これは前もって予定を取り分けているんですよね。
しかし最近の傾向としてこの予定を軽んじられるようになってきました。
前もって予定を変更されるならば構わないんですけどね。
少なくとも一週間程度前には予定変更の旨を伝えてもらいたいんですよね。
それが前日であったり、2日前であったりするわけです。
2日前であればまだ良いんですけどね。
こういう変更というのはおいらからするとかなり精神的に揺さぶられることに成ります。
これだけならばおいらは声を荒らげることはなかったのかもしれません。
通院以外にMatsuyamaに行く予定があったからです。
別々に行動する予定で行くつもりだったんですよね。
よって「私たちもMatsuyamaに行く予定があるんだよ。」と伝えました。
すると向こうで「食事でもしよう」とあちら側が言い出した訳です。
別々に行動するのであれば食事をする必要性が全くありません。
しょっちゅう行動を共にしていますのでね。
この子の思考というのはよくわかっています。
よく書けば「優しい」、悪く書けば「優柔不断」な子です。
優柔不断な人間の傾向としては「目的を逸すること」が多いということでしょうね。
例えば鳩山由紀夫前首相なんかがいい例なのかもしれません。
あのような人間を「国のTopにする」はもとより「Topに据え続ける」というのは問題があったように思います。
意見がコロコロ変わるのですからな。
「信頼はもとより人間としてどうなのよ」と言われてもおかしくはないような気もします。
よく政権を取れたな~と思えますね。
政治の話はいいんです。
おいらもそうだったのでなんなんですが、優柔不断な人間はたくさんの人間との関わりを持つのが難しいのかもしれません。
自分の意思が弱い人間の場合は特に「意見がすぐに変わってしまう」からなんですよね。
また正当化するのもいろいろと巧いように思いますな。
おいらは筋が通っていないと納得しない人間です。
優柔不断でも頑固で良いと思ったことは曲げない方だったと思われます。
根っこではですけどね。
それと合理的なのは変わってい無いことを感じますな。
仕事でもPrivateでもおいらの行動の基準というのは
「一連の流れを考えて組む」
というのが習慣となっています。
これは取りも直さず前後左右の関係性を考え、「前々から後々まで」「広く長く」の項目をClearして使用したり、効果が及ぶようにすることが前提になっています。
そういえば、効率を追求することを悪とする風潮があります。
これは合理主義を批判することにつながっているのですがね。
ところが芸術的にも学術的にも結局は「美しければ善」となることが少なくありません。
それに「勝ったものが善、負けたものが悪」という事実もありますがね。
これらはまた別の話ですな。
個々人の人間の場合には追求すべきこととして取り組むべきことは
・目的を定める
・目的を果たす方法を考える
・考えた方法を実行する
といったところでしょうか。
実行した時点で「目的というのは果たされたも同然である」ことを考えると「達成」という項目は必要ないでしょう。
しかし目的を掲げたものの、その方法を見つける気もなく漫然と生活を送っている人間が多いのはどうしてなのだろうと思えてきます。
目的というのはそれを果たすために設定するものです。
それを適当で場当たり的に、時にはノリで提案するのはおいらは大嫌いなんですよね。
他人の予定をかろんじる人間の多くは瞬間的に思いついたことを実行することに集中していることが少なくありません。
おいらはこういう人間とは相いれません。
確かにおいらも場当たり的に発想が生まれることが少なくありませんし、それを発言したりしますがね。
発したならばそこには責任が生じるのですから、言うのは「=尻を持つ」という覚悟をしてからでしか言いません。
勿論ですが、目的を果たすためには少なくとも幾通りもPatternを考えますし、その中で効率のいい方法を用いることに最善を尽くすことは定められています。
言い出しっぺは「可能な限り巻き込んだすべての人間の福祉を最優先する」というのは当然のことでしょう。
ここに問題があります。
おいらが怒った点としての論点は幾つかあります。
それらを項目として並べてみましょうかね。
・あちら側からの食事を一緒にしないかという提案
・「こちらは一緒に食事をしなくてもいい」と断ったこと
・こちらは既にMatsuyamaで待っている状態だったこと
・あちらから電話があり合流するために移動を始めていたこと
・それなのにあちらは集合場所も定めずShopping Centerの電気屋さんでうろうろしていたこと
ということです。
こちらはしなくても良いと断っておきながら、あちらが食事をすることをこちらに取り付けました。
よってこちらはMatsuyamaでも病院に近いところで時間を潰していたんですよね。
それは電話であちら側に伝えてありました。
電話があった際にはすぐにこちらは移動をするために車に乗り込み、向かいました。
しかしどこで待つとも連絡がなく病院に向かい始めたのですがね。
一応連絡を取っておかなければならないと同行者に連絡を頼むとジョープラという店のデオデオに寄っていると言うではありませんか。
流石に腹がたってしまいました。
お腹が空いていると短気になるというのは確かでかなり空腹だったのもあるのですがね。
それを差し引いても、Naturalなおいらでさえ苛立ってしまう扱いですな。
これはこの子との関係を再考する必要性があるようです。
3年半程度の期間、隔週で病院に行かねばならないということで運転していったんですがね。
結構な労力だとは思うのですが、優先順位としてはかなり低いところにあるようなので労力を割くべきではないようです。
妥当な扱いならば別に構わないのですが、最近はおいらの行動を考えるにあたって周りの人間にも影響があるということを理解出来ています。
つまりおいらが精神的な調子が悪いと周りの人間に迷惑をかけるということから、おいら自身の価値を再考して調整しています。
「切り捨てる」事も考えていかねばならないでしょうな。
こちらは別に切ってもなんの被害もありませんし、Matsuyamaに行くならば自分で行けばいいのですからな。
事はそう単純なことではありません。
付き合い自体をしないようにすることも考えなければならないでしょう。
それぐらいに腹がたっています。