扇風機の羽の真ん中をおさえるひねくれ者の日記

思うままに....
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JW1.5世の自分が生きてるのを不思議に思う、ひねくれ者の日記です。

手紙と写真の関係 2008.06.20

2008-06-20 04:10:24 | Weblog
おいらは写真を撮ります................................

これは高校を卒業してからずっとですので今年で13年目になります。
その間においら自身は「クズ写真」しか撮れなくて申し訳ない気持ちでいっぱいの写真生活を送ってきました。

「なぜもっと上手く撮れないのだろう」
「なぜこんな写真しか撮れないのだ」

と常に自己嫌悪に陥ってきました。
撮った先からおいらの見地ではゴミを量産してきたと考えて生きてきたんですな。
おいらが撮ったからといってどうということはない、

もしおいらが撮らなくても誰かが撮っただろう
同じ道具を使うのであれば絶対に他の人の方が上手く撮る

他の人からは物好きが散在しているとしか映らなかったとも自分自身で考えています。
またこの世にゴミを金を掛けて現像しプリントしているという意識があって自分の身を傷つけているような感覚に陥る事も少なくありませんでした。

でもたまにお礼の手紙を頂くことがありました。
そういった手紙をおいらはスクラップブックにまとめてありました。
部屋を掃除している途中で本棚のレイアウトを変えようとした際においらは手にしたわけです。
おいらは相当なひねくれ者ですからね。
純粋に他の人をおいらが写真に撮ってプリントアウトし本人に渡しても喜んで貰えるわけがないと確信して憚らない性格です。
また「このような手紙はお礼のための形式的な作業に過ぎない」とも考えていました。
まあ手紙は写真に対するお礼だけではないんですけどね。

おいらは自分自身を認めようとはしてこなかったんですよ。
今でも認めようとはしていません。
しかしある程度の評価はしなければならないと考えています。
最低でも自分が行えたことを自覚し、そこから自分自身がどんな人間なのかを理解しなければならないと思うんです。
今から見返すと少なくとも自分の行動は少しは他の人から喜んで貰える事だったのだと認めることが手紙を見返して解ることが出来ました。
また昔のおいらは「愛」というモノを持っていたこと、少しの「自己犠牲的な精神」を持っていたこと、写真を撮る時に被写体に対しての「愛情」を持っていたことを感じました。

今のおいらからは考えられない精神態度をいくつも持っていたようです。
加えて頂いた手紙が決して形式的な手紙ではなかったということも解りました。
そして何度も何度も手紙を頂いたのに写真を撮ることでしかお礼を出来なかった事にはたと気がつき後悔の念が押し寄せてきています。
手紙が頂きたいから写真を撮ってきたわけでは決してありません。
喜んでもらいたいと願って写真を撮ってきたんです。
でも写真を撮られることを押しつけているような気がずっとしていました。

若かったんですね。
若い頃というのは実際に目に見えるところで喜んでもらわないと実感が湧かないモノです。
見えるところで判断していたんですよね。
しかし人と接することにおいて見えるところだけで判断することほど薄っぺらい判断基準はありません。
でもこれは今でこそやっと解ることなんですよね.................
聖書にはこのようなことが沢山書かれているのに、若い頃というのは気がつかなかったんだな~と痛感しました。

ここまでは見つけた手紙の話です。
ここからはこのスクラップブックの隣にあった一冊のアルバムについて書こうと思います。

このアルバムに収められていた写真達はおいらが鬱病になる前に撮られたモノばかりでした。
2000年までに撮られたモノがほとんどのようです。
今から7年以上前の写真が多くておいらがどんな感じだったのかは写真を見ると一目瞭然でした。
更に書いておくとおいらの家族と親族の写真しか入れられていないアルバムというのもポイントですな。
今撮る写真と比べると家族はいつもにこやかで楽しそうな雰囲気が伝わってきます。
また写真を撮った瞬間やその前後の状況も多少は思い出せました。

あの頃も家族に迷惑を掛けていましたが、今のように大きな負担ではなかった事を感じます。
そう思うと泣けてきて嗚咽を漏らしてしまいました。
家族に多大な迷惑を現在進行形で掛けていることが不甲斐ないことが情けなくて、悔しくて、悲しくて........
一枚一枚をこんなに愛おしいと思える写真を撮っていた自分が居たなんて信じられず、確かに自分で撮った写真なのに記憶のない写真や撮った記憶はあるのに自分の身体で他の人が撮ったような感覚に陥ります。

別の自分がそこにいました。

確かにおいら自身なのに自分自身ではない他の何者かが撮った感覚に陥ったんです。
今のおいら自身の状況をから考えると「当時のおいら自身」が今のおいらの見地からすると「素晴らしい人格を有していた全く別の人格」というか「人間」のように思えてきたんですな。
まるで「夢」のようで世迷い言の類ではないかと懐疑的に見てしまう自分が居るんです。
自分の記憶の中には確かに今の自分自身からは考えられないような、おいら自身の中での「理想的な人物像」を演じている自分が居ました。
そしてそれが自然で当たり前のことだと当時は考えていました。

でも人格が崩壊して今の自分にいたって居るんですな。
当たり前に出来ていたことが今は全く出来ていないのですから、「人格が本当に一度は崩壊してしまったんだな」と自覚できました。
おいらは過去からは「学ぶことしか出来ない」とこの二冊の記録を見るまでは考えていました。
しかしそうではなかったようです。
この二冊の本を見て「最初に抱いていた愛」を見つけることが出来ましたし、「友」と呼ぶことが出来た人たちが居たたしかな過去を認識できました。
また家族に対する愛が今よりも深く大きいモノだったことも理解し、そして家族が健康な時からずっと....いや病気になってから更に愛してくれてきたことを理解することが出来ました。

だから泣けてきたんです。

そう考えると「今の自分は何をしているのだろう」と考えてしまいます。
少し変わろうとここ最近は努力してきましたが、この二冊の記録を見てもっと強く願うようになりました。
「最初に抱いた愛」を再度得て友を得ること、そして何より愛してくれている家族に絶対に返せない愛を「雀の涙」しか返せなくても少しずつ返していこうと思います。

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