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この頃生活の中での会話やメモに取っている内容を考慮すると「薄い」と考えています.........................
これは空気中の酸素濃度と同じですな。
いろいろと文具のことを書いていますが、自分自身が書いている内容を見ていると物足りないという感情が常について回るんですな。
他の方の文具の記事を見ていると「上手いこと書くな~」とか「素晴らしい紹介文だ」と感心しています。
おいらが文具の記事を書くに当たっては他の人みたいに上手いことかけないんですよね。
文具は大好きですが、表現方法というのは解りませんし、語彙も少ないんですよ。
ところで筆記している内容に関しても物足りないという気持ちが少なくありません。
特に学ぶことの内容に関しては半端じゃなくて周りのレベルと合わせることに苦痛を感じているぐらいなんですよ。
もっと濃い内容のモノが「欲しい」という欲求から「必要不可欠だ」という感情に変化して来つつあるぐらいです。
何事も表面的な説明というのは簡単に行えます。
使い始めて得たモノの情報というのは喜びがありますし、使っていて楽しいのですからレビューなどは書くというモチベーションがとても高いのは容易に想像できます。
でも通り一遍の表面的な内容ではなくメーカーの制作意図、歴史、制作過程に至るまでを知り道具を使いたいと考えるようにまでなっているんですよね。
これは一個人の欲求としては100パーセント以上で無理です。
メーカの歴史などは雑誌やCatalog、メーカ紹介の書かれた本などで読めて、一度それを知ると他の紹介というのは似通ったモノになってしまうことは仕方がありません。
おいらはそこに「+α」を求めるようになっている訳です。
メーカというのはもっとコンスタントにモノを作り続けることの苦労というのを伝えて貰いたいと思いますし、Userというのはそれを知って使用していかねばならないでしょう。
何事も続けることは苦労が伴います。
それも一方ならぬ苦労であることが少なくないでしょう。
指示されるには理由があり、ロングセラーモデルを維持するのは当然難しいのです。
欲求不満の占有率の多くは聖書の勉強に関してなんですけどね。
相当欲求不満が募っていていてもたってもいられない状態になりつつあります。
「もっと、もっと」という心の叫びにも似た要求に応えられるだけの研究時間というのが確保するのが難しく、納得できるまで行えた記事というのは無い状態です。
納得できるまで行うにはまずは聖書全巻の把握を行わねばならず、全巻の把握というのは人間の一生では無理なのです。
ただ単に表面的な言葉を読むだけならば本を読める人なら誰でも出来ますし、子供でも可能なんですよね。
しかし関連している聖書の言葉を調べると一つの言葉から「蜘蛛の巣状」に広がり莫大な量になってしまいます。
関連が薄いと感じている言葉が次の関連聖句を調べるととても重要な意味がともなっていることが少なくありません。
聖句というのは何かしらの形でほとんどが繋がっているのですから、やはり聖書全巻を把握することに”まず”取り組まなければならないのだと解ってはいます。
もちろんですが、聖句を調べる際にRHODIAのBLOCとAdvanced Notebook、Reverse Notebookは必要不可欠でお互いが連携するように使用するようにしています。
よって上記のような複数の筆記用MemoおよびNoteを同時進行で使用している訳です。
まあ日常生活用とToDo用、Memo用といった使用方法もありますし、Advanced Notebookは「講演用」と指定してあります。
ではどうやって関連付けるのかというと、Advanced Notebookで取ったメモを元に再度調べ直すんですな。
こうすることによってより内容に精通することが出来ています。
調べる事というのは聖句の関連だけではなく、辞書での定義などもありますし、個々の言葉が示している意味などもあります。
気になった言葉というのは書店で本を読んでいると少なからずあります。
また気になった漫画家やIllustrator、Artistなど書いていけばきりがありません。
当然ながらこの頃の書店というのは店内でMemoを取ることはNGです。
よって記憶したことを車の中で思い出してMemoに取るようにしています。
家に帰るまで覚えておけばいいと思われるかも知れませんが、車の運転中というのはおいらは黙想をする機会なんですよね。
だからいろいろなことを頭の中で考え思いめぐらす訳です。
すると忘れていることと言うのが少なくないんですよね。
車を運転するだけではないんですな。
もっと「深く」て「濃厚」で「納得」できるように学び続けていきたいモノです。
最近は集まりに出席しても扱われる話の内容は把握の範囲内であったり想定の範囲内であったりして非常に「薄い」内容でしか討論されたり話されたりしません。
それでも益を得ることが出来ますが、一度濃い内容で研究して学ぶことを週間にしたならば扱われる内容では「息苦しい」と感じてもしかたがありません。
酸素を求めて呼吸の回数を多くしても呼吸する回数で酸素の取り入れ量というのは変わりません。
実際の人体で、物理的な酸素量を肺から取り入れる量というのは増えることは解りきっていることなんですが、学ぶことでは別なのです。
薄いところにいたならば薄なりにしか取り入れることが出来ずに呼吸の回数は関係がないのです。
呼吸と書いていますが、「呼吸=読む回数や話す回数」と考えていただければ解るでしょうかね。
表面的なところで話をするというのはこの呼吸でも「薄い空気」の中でも酸素濃度が非常に低いモノだと考えても良いでしょう。
形式的な挨拶というのはおいらは余り好きではありません。
「悪い交わりは有益な週間を損ないます」し、「賢い者たちと共に歩んでいる者は賢くなり、愚鈍な者たちと交渉を持つ者は苦しい目に遭う」ことは明白です。
おいらはひねくれクリスチャンですので「賢い」部類の人たちと話しができるような立場にはありません。
断っておきたいのですが、世間一般で認知されている高等教育というのは知識を増やす点では役には立ちますが、聖書の観点ではゴミと一緒の程度の価値しかありません。
一人の聖書筆者の言葉を借りると「一切のモノを損と考えた」とあり、その「一切」の中に世間一般の知恵があるんですな。
ただ単に知識を詰め込んでも意味がありませんし、それを有効に使えなければ勉強すればするだけ損をするという意味でもあります。
このことを最近になって本当の意味で理解できるようになったのは良かったですな。
今までは知恵を追い求めていましたが、その労力というのは価値がないことにも気づきましたし、そのエネルギーのベクトルを正しい方向に向ける方法にも気づくことが出来ました。
まあ出来ているかは別として気づいたなら、適正に矯正していく努力を惜しまないようにしていきたいモノです。
これは空気中の酸素濃度と同じですな。
いろいろと文具のことを書いていますが、自分自身が書いている内容を見ていると物足りないという感情が常について回るんですな。
他の方の文具の記事を見ていると「上手いこと書くな~」とか「素晴らしい紹介文だ」と感心しています。
おいらが文具の記事を書くに当たっては他の人みたいに上手いことかけないんですよね。
文具は大好きですが、表現方法というのは解りませんし、語彙も少ないんですよ。
ところで筆記している内容に関しても物足りないという気持ちが少なくありません。
特に学ぶことの内容に関しては半端じゃなくて周りのレベルと合わせることに苦痛を感じているぐらいなんですよ。
もっと濃い内容のモノが「欲しい」という欲求から「必要不可欠だ」という感情に変化して来つつあるぐらいです。
何事も表面的な説明というのは簡単に行えます。
使い始めて得たモノの情報というのは喜びがありますし、使っていて楽しいのですからレビューなどは書くというモチベーションがとても高いのは容易に想像できます。
でも通り一遍の表面的な内容ではなくメーカーの制作意図、歴史、制作過程に至るまでを知り道具を使いたいと考えるようにまでなっているんですよね。
これは一個人の欲求としては100パーセント以上で無理です。
メーカの歴史などは雑誌やCatalog、メーカ紹介の書かれた本などで読めて、一度それを知ると他の紹介というのは似通ったモノになってしまうことは仕方がありません。
おいらはそこに「+α」を求めるようになっている訳です。
メーカというのはもっとコンスタントにモノを作り続けることの苦労というのを伝えて貰いたいと思いますし、Userというのはそれを知って使用していかねばならないでしょう。
何事も続けることは苦労が伴います。
それも一方ならぬ苦労であることが少なくないでしょう。
指示されるには理由があり、ロングセラーモデルを維持するのは当然難しいのです。
欲求不満の占有率の多くは聖書の勉強に関してなんですけどね。
相当欲求不満が募っていていてもたってもいられない状態になりつつあります。
「もっと、もっと」という心の叫びにも似た要求に応えられるだけの研究時間というのが確保するのが難しく、納得できるまで行えた記事というのは無い状態です。
納得できるまで行うにはまずは聖書全巻の把握を行わねばならず、全巻の把握というのは人間の一生では無理なのです。
ただ単に表面的な言葉を読むだけならば本を読める人なら誰でも出来ますし、子供でも可能なんですよね。
しかし関連している聖書の言葉を調べると一つの言葉から「蜘蛛の巣状」に広がり莫大な量になってしまいます。
関連が薄いと感じている言葉が次の関連聖句を調べるととても重要な意味がともなっていることが少なくありません。
聖句というのは何かしらの形でほとんどが繋がっているのですから、やはり聖書全巻を把握することに”まず”取り組まなければならないのだと解ってはいます。
もちろんですが、聖句を調べる際にRHODIAのBLOCとAdvanced Notebook、Reverse Notebookは必要不可欠でお互いが連携するように使用するようにしています。
よって上記のような複数の筆記用MemoおよびNoteを同時進行で使用している訳です。
まあ日常生活用とToDo用、Memo用といった使用方法もありますし、Advanced Notebookは「講演用」と指定してあります。
ではどうやって関連付けるのかというと、Advanced Notebookで取ったメモを元に再度調べ直すんですな。
こうすることによってより内容に精通することが出来ています。
調べる事というのは聖句の関連だけではなく、辞書での定義などもありますし、個々の言葉が示している意味などもあります。
気になった言葉というのは書店で本を読んでいると少なからずあります。
また気になった漫画家やIllustrator、Artistなど書いていけばきりがありません。
当然ながらこの頃の書店というのは店内でMemoを取ることはNGです。
よって記憶したことを車の中で思い出してMemoに取るようにしています。
家に帰るまで覚えておけばいいと思われるかも知れませんが、車の運転中というのはおいらは黙想をする機会なんですよね。
だからいろいろなことを頭の中で考え思いめぐらす訳です。
すると忘れていることと言うのが少なくないんですよね。
車を運転するだけではないんですな。
もっと「深く」て「濃厚」で「納得」できるように学び続けていきたいモノです。
最近は集まりに出席しても扱われる話の内容は把握の範囲内であったり想定の範囲内であったりして非常に「薄い」内容でしか討論されたり話されたりしません。
それでも益を得ることが出来ますが、一度濃い内容で研究して学ぶことを週間にしたならば扱われる内容では「息苦しい」と感じてもしかたがありません。
酸素を求めて呼吸の回数を多くしても呼吸する回数で酸素の取り入れ量というのは変わりません。
実際の人体で、物理的な酸素量を肺から取り入れる量というのは増えることは解りきっていることなんですが、学ぶことでは別なのです。
薄いところにいたならば薄なりにしか取り入れることが出来ずに呼吸の回数は関係がないのです。
呼吸と書いていますが、「呼吸=読む回数や話す回数」と考えていただければ解るでしょうかね。
表面的なところで話をするというのはこの呼吸でも「薄い空気」の中でも酸素濃度が非常に低いモノだと考えても良いでしょう。
形式的な挨拶というのはおいらは余り好きではありません。
「悪い交わりは有益な週間を損ないます」し、「賢い者たちと共に歩んでいる者は賢くなり、愚鈍な者たちと交渉を持つ者は苦しい目に遭う」ことは明白です。
おいらはひねくれクリスチャンですので「賢い」部類の人たちと話しができるような立場にはありません。
断っておきたいのですが、世間一般で認知されている高等教育というのは知識を増やす点では役には立ちますが、聖書の観点ではゴミと一緒の程度の価値しかありません。
一人の聖書筆者の言葉を借りると「一切のモノを損と考えた」とあり、その「一切」の中に世間一般の知恵があるんですな。
ただ単に知識を詰め込んでも意味がありませんし、それを有効に使えなければ勉強すればするだけ損をするという意味でもあります。
このことを最近になって本当の意味で理解できるようになったのは良かったですな。
今までは知恵を追い求めていましたが、その労力というのは価値がないことにも気づきましたし、そのエネルギーのベクトルを正しい方向に向ける方法にも気づくことが出来ました。
まあ出来ているかは別として気づいたなら、適正に矯正していく努力を惜しまないようにしていきたいモノです。