中華料理の食べ放題に行きました................................
おいらはきっちり決められている方が楽な方です。
それも早期に知らされていればいるほど楽になる方です。
それと全てのことにおいて安く済ませるという基準は明確に決まっています。
こういうことがありました。
おいらはどうせ同じ燃料代を使うのであればその燃料分の元を取ろうと考えています。
Matsuyamaまで食事に出かけたのですが出るのが6時ちょっと過ぎで到着が7時半程度になりました。
おいらはここのところ毎週のようにMatsuyamaの方に出かけています。
ということで下道で走っても高速を走ってもそれほど時間が変わらないということも解っています。
変わったとしても10~15分程度なんですよね。
そのために750円余分に払うまでの価値はありません。
おいら以外の人たちの「たまにしか行かない」というのは解りますが、それでも通い慣れている道の所要時間というのはかなりの精度で当てることが出来るようになっています。
何度かここから彼処までならどれほど掛かるかと尋ねられたことがありました。
誤差が1分程度でしたからな。
現地に到着したと言っても良いCar navigation systemの指示であれば1分も誤差はないぐらいです。
習慣というのは怖いですね。
人間の洞察力というのは訓練次第では素晴らしい精度で所要時間を割り出せることが出来ます。
勿論ですが混雑具合などを鑑みて臨機応変に掛かる時間を割り出すことになるのですがね。
おいらは他の家族たちと違い金銭的に余裕のない生活をずっとしてきました。
毎月の支払いが出来るか出来ないかの瀬戸際で1円でも安くあげる方法を追求する習慣が付いています。
そして昨日単純に明確に解ったことがあります。
それは
価値観の相違
という問題でしょうか。
おいらは外食の為だけにMatsuyamaまで車を走らせるのは考えられません。
食事というのは何かしらの序でにすることでMainとして行くというのはまずありません。
食事というのは家で食べるのが一番安上がりですし、それ以上でもそれ以下でもありません。
家族の中ではおいらだけが「団子より花」派で孤立無援です。
食事の為だけにMatsuyamaまで出るには車を2台出さなければなりません。
片道の料金を計算してみましょう。
燃費が良い軽でも行き帰りに一台500円程度の燃料が必要になります。
其れに加えて高速道路料金が発生するということは+αで500~750円程度掛かってきます。
無駄に金を掛ける余裕がないという思考もありますからな。
おいらにとっては1円でも無駄には出来ないんですよ。
何をムキになっているのか理解できないということを言っていましたけどね。
当然なんですよ。
無駄に出来ないのに其れを強いる姿勢がおいらは大嫌いなのです。
ご飯を食べる為に金を掛けるぐらいならば他に幾らでも金を掛けたい所があります。
其れを無視して家で食べると安くつく食事に大金を使うのって可笑しくないですか?というお話なんですよ。
確かに通常の食べ方で食べるよりは2000円程度は安く食べられていることは解っています。
一人1980円で6人家族ですので12000円程度となります。
そして行き帰りの交通費を加算すると15000円程度になります。
おいらは御馳走を食べるような上等な人間ではないというのもあります。
人間というのは幾ら金があっても人一人が食べられる量というのは限界があります。
昔のEuropeの貴族などは食べたモノを吐いて食事を何度も摂ったということを聞いたりしますけどね。
幾ら金があっても「意思の疎通」が取れないのであればそこに価値はあるのでしょうか?
おいらははなはだ疑問を感じます。
それに金があるのだから使えばいいというStanceには付いていけません。
金は有意義に使うモノであってあるならば無駄に使って良いという事にはならないでしょう。
確かに人生で無駄なモノに金を掛けるということをしてしまうことも少なからずあります。
他の人にとっては自分という一個人が価値を見いだしている事柄に対しての価値というのは解り合えること自体が少ないでしょう。
人間というのは多種多様な価値観によってIdentityが構築されていますし、それぞれが価値観が違うのです。
その中でもおいらは緻密な計算の上に成り立つ計算方法で割り出した結果じゃないと納得できません。
過程も重要ですし、結果も重要です。
ただ単に結果だけを求める昨今の状況には納得できませんし、短絡的な行動というのは論外です。
おいらの物事の見方というのは
大きく大勢を見ると共に自分との関わりがある細かな所まで見る
ことによって良いかどうかを判断するというStanceなのですが、どうもおいらの見方が他の人との見方とは乖離しているみたいなんですよね。
「この人は何を言っているのだろう」という見方をされることが少なくありません。
これは思い返せば家族内でも非常に多いということが判明しつつあります。
愛媛に来たこと自体は意味があったとしても、おいら個人としてはこちらに来たことによって精神的に不安定になり情緒不安定から鬱病にまで発展しました。
これは社会的価値観や一般常識という概念から乖離している宗教的概念も強烈に作用していると思われます。
確かに間違ったことは書かれてはいませんが、手に職を持つ事が間違いだという考え方には同意しかねます。
大学の教育制度が無益で価値のないモノだいう見解が示されていますが、それは個人が決めれば良いだけの話であってそれを強制するというのは領分を弁えていない出過ぎたことに映ってしまいます。
余計な知識、必要のない知識というのは社会的に非常に多いのは事実です。
実際に小中学校、高校での学習も結局は無駄なモノです。
極論を書くと、人間というのは生活を成立させることが出来るようになればそれ以外の知識というのは結局は必要ありません。
では高校まで行かなければならない根拠はなんでしょうか?
それは就職率に響くからです。
では就職率が中卒でも100パーセントで直ぐに仕事でお金を貰える仕事があり、更にそこで高校教育並びに大学教育並の教育を受けられる施設があるのであれば間違いなく其方に行った方が有益でしょう。
実際に有能なChristianを見ていると勉強の効率化というのを図っていて仕事や教育を受け止める骨格というのは出来ていることが少なくありません。
更に仕事上の「悩み」というモノは縁のないモノとなっていきます。
そもそも全てのことを神に委ねるならば物事というのは上手く廻るようになっていくことを確信しているChristianほど強い人は居ないでしょう。
聖書は「全てを神に委ねる」事を進めています。
しかし個人的な努力というのは絶対に必要だとも書かれています。
これは矛盾しているといわれることがありますが、全く矛盾していません。
個人的に努力することにより最も良い質のモノを追求するというのは人間が想像されてから定められていることだと思いますしね。
「費用を計算しなさい」という観点からおいらは自分自身の費用では外食する価値のない人間だと割り出している訳です。
つまりおいらの定めている価値基準というのは自己努力であり、自分の費用で賄えない所まで責任を取れないというのは事実ですし、細かい所まで計算し少しでも安くあげる方法を追求する姿勢というのは当然なんですよね。
おいらの言っていることに対しての妹君の返答は「考えすぎ」だとか「疲れているのではないか」ということでした。
おいらの観点からすると全く疲れていませんし、これぐらい考えるのは当然のことです。
ただいろいろなことが「適当に」しか報告されず、適当にしか物事が運ばれないことには非常に大きな違和感を感じて苛立っていたことは事実です。
ただ単に「相違」がある点が3点あっただけなのです。
・計画的に物事を進める
・高速道路に乗らなくても思ったより時間は掛からない事実をより深く把握している
・少しでも金銭的出費を少なくする
というおいらの傾向と
・行き当たりばったりで良い
・高速道路に乗った方が30分以上は早く着くという認識
・ちょっとぐらいなら多少金を出しても良い
という傾向の違いでしょうか。
おいらは今の金銭状況では後者には相容れません。
店に入るつもりもなく他所で食べるつもりで車を運転して送って行きましたが、
「食べて来て」と何度も何度も言ったのですが、我が家以外に同行者がいましたので迷惑を掛けると思い仕方が無く店に入って食べはしましたがね。
家族だけであれば絶対に食べなかったでしょう。
他人に家族の醜態を晒すことは恥ずかしいことですからな。
言い訳ととって貰ってもけっこうです。
しかしおいらは一度決めたならば他人がいないならば余り意見を変えることはありません。
当然ながら間違っているならば間違いは認めますし、変えることもあるでしょう。
おいらはきっちり決められている方が楽な方です。
それも早期に知らされていればいるほど楽になる方です。
それと全てのことにおいて安く済ませるという基準は明確に決まっています。
こういうことがありました。
おいらはどうせ同じ燃料代を使うのであればその燃料分の元を取ろうと考えています。
Matsuyamaまで食事に出かけたのですが出るのが6時ちょっと過ぎで到着が7時半程度になりました。
おいらはここのところ毎週のようにMatsuyamaの方に出かけています。
ということで下道で走っても高速を走ってもそれほど時間が変わらないということも解っています。
変わったとしても10~15分程度なんですよね。
そのために750円余分に払うまでの価値はありません。
おいら以外の人たちの「たまにしか行かない」というのは解りますが、それでも通い慣れている道の所要時間というのはかなりの精度で当てることが出来るようになっています。
何度かここから彼処までならどれほど掛かるかと尋ねられたことがありました。
誤差が1分程度でしたからな。
現地に到着したと言っても良いCar navigation systemの指示であれば1分も誤差はないぐらいです。
習慣というのは怖いですね。
人間の洞察力というのは訓練次第では素晴らしい精度で所要時間を割り出せることが出来ます。
勿論ですが混雑具合などを鑑みて臨機応変に掛かる時間を割り出すことになるのですがね。
おいらは他の家族たちと違い金銭的に余裕のない生活をずっとしてきました。
毎月の支払いが出来るか出来ないかの瀬戸際で1円でも安くあげる方法を追求する習慣が付いています。
そして昨日単純に明確に解ったことがあります。
それは
価値観の相違
という問題でしょうか。
おいらは外食の為だけにMatsuyamaまで車を走らせるのは考えられません。
食事というのは何かしらの序でにすることでMainとして行くというのはまずありません。
食事というのは家で食べるのが一番安上がりですし、それ以上でもそれ以下でもありません。
家族の中ではおいらだけが「団子より花」派で孤立無援です。
食事の為だけにMatsuyamaまで出るには車を2台出さなければなりません。
片道の料金を計算してみましょう。
燃費が良い軽でも行き帰りに一台500円程度の燃料が必要になります。
其れに加えて高速道路料金が発生するということは+αで500~750円程度掛かってきます。
無駄に金を掛ける余裕がないという思考もありますからな。
おいらにとっては1円でも無駄には出来ないんですよ。
何をムキになっているのか理解できないということを言っていましたけどね。
当然なんですよ。
無駄に出来ないのに其れを強いる姿勢がおいらは大嫌いなのです。
ご飯を食べる為に金を掛けるぐらいならば他に幾らでも金を掛けたい所があります。
其れを無視して家で食べると安くつく食事に大金を使うのって可笑しくないですか?というお話なんですよ。
確かに通常の食べ方で食べるよりは2000円程度は安く食べられていることは解っています。
一人1980円で6人家族ですので12000円程度となります。
そして行き帰りの交通費を加算すると15000円程度になります。
おいらは御馳走を食べるような上等な人間ではないというのもあります。
人間というのは幾ら金があっても人一人が食べられる量というのは限界があります。
昔のEuropeの貴族などは食べたモノを吐いて食事を何度も摂ったということを聞いたりしますけどね。
幾ら金があっても「意思の疎通」が取れないのであればそこに価値はあるのでしょうか?
おいらははなはだ疑問を感じます。
それに金があるのだから使えばいいというStanceには付いていけません。
金は有意義に使うモノであってあるならば無駄に使って良いという事にはならないでしょう。
確かに人生で無駄なモノに金を掛けるということをしてしまうことも少なからずあります。
他の人にとっては自分という一個人が価値を見いだしている事柄に対しての価値というのは解り合えること自体が少ないでしょう。
人間というのは多種多様な価値観によってIdentityが構築されていますし、それぞれが価値観が違うのです。
その中でもおいらは緻密な計算の上に成り立つ計算方法で割り出した結果じゃないと納得できません。
過程も重要ですし、結果も重要です。
ただ単に結果だけを求める昨今の状況には納得できませんし、短絡的な行動というのは論外です。
おいらの物事の見方というのは
大きく大勢を見ると共に自分との関わりがある細かな所まで見る
ことによって良いかどうかを判断するというStanceなのですが、どうもおいらの見方が他の人との見方とは乖離しているみたいなんですよね。
「この人は何を言っているのだろう」という見方をされることが少なくありません。
これは思い返せば家族内でも非常に多いということが判明しつつあります。
愛媛に来たこと自体は意味があったとしても、おいら個人としてはこちらに来たことによって精神的に不安定になり情緒不安定から鬱病にまで発展しました。
これは社会的価値観や一般常識という概念から乖離している宗教的概念も強烈に作用していると思われます。
確かに間違ったことは書かれてはいませんが、手に職を持つ事が間違いだという考え方には同意しかねます。
大学の教育制度が無益で価値のないモノだいう見解が示されていますが、それは個人が決めれば良いだけの話であってそれを強制するというのは領分を弁えていない出過ぎたことに映ってしまいます。
余計な知識、必要のない知識というのは社会的に非常に多いのは事実です。
実際に小中学校、高校での学習も結局は無駄なモノです。
極論を書くと、人間というのは生活を成立させることが出来るようになればそれ以外の知識というのは結局は必要ありません。
では高校まで行かなければならない根拠はなんでしょうか?
それは就職率に響くからです。
では就職率が中卒でも100パーセントで直ぐに仕事でお金を貰える仕事があり、更にそこで高校教育並びに大学教育並の教育を受けられる施設があるのであれば間違いなく其方に行った方が有益でしょう。
実際に有能なChristianを見ていると勉強の効率化というのを図っていて仕事や教育を受け止める骨格というのは出来ていることが少なくありません。
更に仕事上の「悩み」というモノは縁のないモノとなっていきます。
そもそも全てのことを神に委ねるならば物事というのは上手く廻るようになっていくことを確信しているChristianほど強い人は居ないでしょう。
聖書は「全てを神に委ねる」事を進めています。
しかし個人的な努力というのは絶対に必要だとも書かれています。
これは矛盾しているといわれることがありますが、全く矛盾していません。
個人的に努力することにより最も良い質のモノを追求するというのは人間が想像されてから定められていることだと思いますしね。
「費用を計算しなさい」という観点からおいらは自分自身の費用では外食する価値のない人間だと割り出している訳です。
つまりおいらの定めている価値基準というのは自己努力であり、自分の費用で賄えない所まで責任を取れないというのは事実ですし、細かい所まで計算し少しでも安くあげる方法を追求する姿勢というのは当然なんですよね。
おいらの言っていることに対しての妹君の返答は「考えすぎ」だとか「疲れているのではないか」ということでした。
おいらの観点からすると全く疲れていませんし、これぐらい考えるのは当然のことです。
ただいろいろなことが「適当に」しか報告されず、適当にしか物事が運ばれないことには非常に大きな違和感を感じて苛立っていたことは事実です。
ただ単に「相違」がある点が3点あっただけなのです。
・計画的に物事を進める
・高速道路に乗らなくても思ったより時間は掛からない事実をより深く把握している
・少しでも金銭的出費を少なくする
というおいらの傾向と
・行き当たりばったりで良い
・高速道路に乗った方が30分以上は早く着くという認識
・ちょっとぐらいなら多少金を出しても良い
という傾向の違いでしょうか。
おいらは今の金銭状況では後者には相容れません。
店に入るつもりもなく他所で食べるつもりで車を運転して送って行きましたが、
「食べて来て」と何度も何度も言ったのですが、我が家以外に同行者がいましたので迷惑を掛けると思い仕方が無く店に入って食べはしましたがね。
家族だけであれば絶対に食べなかったでしょう。
他人に家族の醜態を晒すことは恥ずかしいことですからな。
言い訳ととって貰ってもけっこうです。
しかしおいらは一度決めたならば他人がいないならば余り意見を変えることはありません。
当然ながら間違っているならば間違いは認めますし、変えることもあるでしょう。