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おいらはどうやら勘違いされやすい性格のようです。
人と話す場合はそのひとがおいらのことをどのように感じているのかが良くわかります。
はっきり言って全く関係ないのですが「嫌悪感」を示される場合があります。
外見で人を判断する人はおいらの見地からすると「愚か者」にあたります。
おいらは太っており、おしゃれなんかとは無縁な生活になっています。
たしかに「身なりはその人を表す」と思いますし、マナーなんかも大切だと思いますよ。
しかし人間の本質とは日常生活の中にあらわれると思うんです。
だからありのままの自分で良いし、気取ったりかっこつけたりしなくても良いんです。
今日もUCHIKOのクリスチャンのご夫婦が来られました。
この奥さんから今日は「嫌悪感」を示されました。
本人は普通にしているんでしょうが、自然と出てくる雰囲気でわかるんですよね。
ご主人の立場を考えると奥さんは人に「嫌悪感」を悟られるような性格はなおしていかなくてはならないことです。
でもおいらは最近はお人好しはしないようにしています。
注意するならその人に嫌われるのかもしれませんし、方々でいろいろ言われるでしょう。
しかしおいらは最近そんなことを気にしませんし、関係ないと思っています。
ただ単に本人が困るだけだし、そんな義理は奥さんの方にはないから伝えないだけです。
それと一番の理由は「めんどくさい」ということです。
昔だったら大歓迎して話を合わして心地よく家にいて欲しいと思っていました。
しかし最近は人にあわすことが疲れるので機嫌を取ったりしないようにしています。
一度機嫌を取るとずっと機嫌を取り続けることが当たり前だと思われるからです。
それが一生続くと思うと今の自分には耐えられません。
めんどくさいんですよね。
勘違いついでに書いておきましょう。
おいらは写真を撮るんですが、人を撮るときにその人の自然な雰囲気を撮りたいと思って撮ります。
写真を撮る人は大概おいらが「親しい」と感じている人ばかりです。
よって撮るときは遠目から本人が知らない間に撮ることがほとんどでした。
しかし最近は人間関係がややこしくめんどくさいので、ほとんどの人間関係をリセットしようと思っています。
たくさんの人と関わっていると、その人数分自分を提供しなくてはなりません。
自分で自分が生きていることにも納得できていないのに「他の人」がおいらに対して「感謝の言葉」や「肯定するような言葉」をいわれることにものすごく違和感を感じるんです。
どうせならおいらの存在を否定してダメなところを指摘してもらえるとうれしいぐらいです。
大人の世界では「注意する」ことはホントにその人のことを思っていないと出来ないことです。
話がずれましたね。
写真の話に戻りましょう。
人にリクエストされて「あの人を撮って欲しい」と言われると撮ることがあります。
昔は自主的に見境なく撮っていましたが、ここ数年は頼まれた分しか撮っていません。
例としてクリスチャンの大会で、ある兄弟(男性の献身した人)がかわいい姉妹(女性の献身した人)を誰でも良いから撮って欲しいと言われたことがありました。
このような場合どうしたら良いのでしょうか?
美的感覚というのは人によって異なります。
だからおいらの美的感覚では「かわいい」と思えなくても、その兄弟が「かわいい」と思っているだろう人を撮ることにしました。(失礼な書き方かもしれませんが.....)
この写真も本人が知らない間に撮ります。
そして撮ったものを兄弟だけにmailで送りました。
でもこんなことをしなければ良かったな~と後悔しています。
撮った姉妹がこのことを知ったのでしょう。
嫌われたようです。
もうあまり気にしていないんですけどね。
撮った写真について
おいらの基準では写真を撮った場合は撮った写真を必ず渡す必要はないと思っています。
作り手が納得できないものを渡すことはその人に対して「失礼」だと考えているからです。
しかしこのことを気にする人が多く驚いています。
カメラを持っていったのはおいらです。
それにプリントする価値がないと判断する権利はおいらの方にあります。
良い写真なら喜んでプリントして渡しますが、納得できない写真をプリントしたり、mailで送るのなら手間賃としてお金をいただきたいと思っています。
納得できない写真をさらすのですから、それはおいらの「恥をさらす」のと一緒なのです。
自分の恥ずかしいことをわざわざ晒す人っているでしょうか?
個人情報を晒す人がいるでしょうか?
人と話す場合はそのひとがおいらのことをどのように感じているのかが良くわかります。
はっきり言って全く関係ないのですが「嫌悪感」を示される場合があります。
外見で人を判断する人はおいらの見地からすると「愚か者」にあたります。
おいらは太っており、おしゃれなんかとは無縁な生活になっています。
たしかに「身なりはその人を表す」と思いますし、マナーなんかも大切だと思いますよ。
しかし人間の本質とは日常生活の中にあらわれると思うんです。
だからありのままの自分で良いし、気取ったりかっこつけたりしなくても良いんです。
今日もUCHIKOのクリスチャンのご夫婦が来られました。
この奥さんから今日は「嫌悪感」を示されました。
本人は普通にしているんでしょうが、自然と出てくる雰囲気でわかるんですよね。
ご主人の立場を考えると奥さんは人に「嫌悪感」を悟られるような性格はなおしていかなくてはならないことです。
でもおいらは最近はお人好しはしないようにしています。
注意するならその人に嫌われるのかもしれませんし、方々でいろいろ言われるでしょう。
しかしおいらは最近そんなことを気にしませんし、関係ないと思っています。
ただ単に本人が困るだけだし、そんな義理は奥さんの方にはないから伝えないだけです。
それと一番の理由は「めんどくさい」ということです。
昔だったら大歓迎して話を合わして心地よく家にいて欲しいと思っていました。
しかし最近は人にあわすことが疲れるので機嫌を取ったりしないようにしています。
一度機嫌を取るとずっと機嫌を取り続けることが当たり前だと思われるからです。
それが一生続くと思うと今の自分には耐えられません。
めんどくさいんですよね。
勘違いついでに書いておきましょう。
おいらは写真を撮るんですが、人を撮るときにその人の自然な雰囲気を撮りたいと思って撮ります。
写真を撮る人は大概おいらが「親しい」と感じている人ばかりです。
よって撮るときは遠目から本人が知らない間に撮ることがほとんどでした。
しかし最近は人間関係がややこしくめんどくさいので、ほとんどの人間関係をリセットしようと思っています。
たくさんの人と関わっていると、その人数分自分を提供しなくてはなりません。
自分で自分が生きていることにも納得できていないのに「他の人」がおいらに対して「感謝の言葉」や「肯定するような言葉」をいわれることにものすごく違和感を感じるんです。
どうせならおいらの存在を否定してダメなところを指摘してもらえるとうれしいぐらいです。
大人の世界では「注意する」ことはホントにその人のことを思っていないと出来ないことです。
話がずれましたね。
写真の話に戻りましょう。
人にリクエストされて「あの人を撮って欲しい」と言われると撮ることがあります。
昔は自主的に見境なく撮っていましたが、ここ数年は頼まれた分しか撮っていません。
例としてクリスチャンの大会で、ある兄弟(男性の献身した人)がかわいい姉妹(女性の献身した人)を誰でも良いから撮って欲しいと言われたことがありました。
このような場合どうしたら良いのでしょうか?
美的感覚というのは人によって異なります。
だからおいらの美的感覚では「かわいい」と思えなくても、その兄弟が「かわいい」と思っているだろう人を撮ることにしました。(失礼な書き方かもしれませんが.....)
この写真も本人が知らない間に撮ります。
そして撮ったものを兄弟だけにmailで送りました。
でもこんなことをしなければ良かったな~と後悔しています。
撮った姉妹がこのことを知ったのでしょう。
嫌われたようです。
もうあまり気にしていないんですけどね。
撮った写真について
おいらの基準では写真を撮った場合は撮った写真を必ず渡す必要はないと思っています。
作り手が納得できないものを渡すことはその人に対して「失礼」だと考えているからです。
しかしこのことを気にする人が多く驚いています。
カメラを持っていったのはおいらです。
それにプリントする価値がないと判断する権利はおいらの方にあります。
良い写真なら喜んでプリントして渡しますが、納得できない写真をプリントしたり、mailで送るのなら手間賃としてお金をいただきたいと思っています。
納得できない写真をさらすのですから、それはおいらの「恥をさらす」のと一緒なのです。
自分の恥ずかしいことをわざわざ晒す人っているでしょうか?
個人情報を晒す人がいるでしょうか?