この記事は別のSNSでUPしようと考えていたモノであることを断っておきます。
でないと所々でリアルでの事柄を書いていたり、言葉遣いでおかしな所があることに気が付きました。
というよりしょっぱなの書き出し紹介からでも具体的ですよね。
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この近況はわたしの個人的で強力な主観によって書くモノです。
わたしのことを知りたくない人には読んでいただきたくはありません。
家族に対して、またわたしの周りで成された不条理に対しての問題提起でもあるので人によっては不快に思われるでしょう。
その点を理解した上でお読みください。
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みんなが自由に使えるスペースが欲しいと思っていました。
家族が気分転換の出来る空間が欲しいと考えてもいました。
親族で気兼ねなく使え、集まりあえる場所が欲しいと願いました。
なぜなら、どう考えても今の家は家族で住むには狭いのはわかりきっていることであり、わたしの家族の状態、状況を知っているならば許されてしかるべきだと判断したからです。
加えて自分の「仕事場」、「Photo Studio」、そして「アトリエ」が欲しかったというのもあります。
この世はわたしの家族に対して、そのような場所を持つことを許さないようです。
あらかじめ、わたしの中で調子が良くて流れが良いときに何とかして塗装をしようと計画をしていました。
ただ調子を整え、自分自身を奮い立たせるまで待って戴けなかったのは忸怩たる思いで受け入れるしか無かったのです。
どれだけ無理をしたのか理解して貰えないことが多く、精神的体力は酷く消耗し、計画を無碍にされたことの無念さが今でも唆し蔑み貶してきます。
悲しいのは家族でさえ、そのことに「後から」気づかれるということです。
確かに他の人の必要を満たすことも重要なのはわかりきっています。
わたしはこの種の事には敏感な方なので明確に状況把握を行います。
そして優先順位を客観的に弾き出すように努めています。
家族の必要さえ賄われていないのに、他人の必要を優先するという矛盾を「後々の必要」を考慮に入れず簡単にわたしの意見は受け入れられない結論にいたり、わたしの意見を無碍にされるのは悲しいですね。
「当然のことですが,自分に属する人々,
ことに自分の家の者に必要な物を備えない人がいるなら,
その人は信仰を否認していることになり,
信仰のない人より悪いのです。」
この言葉は関わった人全てに適応されるでしょう。
主要な役割を果たした人間はこのように判断されてしかるべきですね。
ただこれはわたしに都合の良い解釈です。
また人の必要や考えを理解できない方達にとって、間違った考え方なのでしょう。
更にこのような言葉もあります。
「あなたの手に善を行なう力があるのに,
それを受けるべき人から控えてはならない。」
わたしは他の人に与えることに関してはやぶさかではありません。
可能な範囲内では寛容な類いに属すると考えられます。
ただ、わたしは聖書に忠実でありたいと願っています。
であるならば当然のこととして、まずは家族の環境をどうにかしなければならないと考えてはならないのでしょうか。
今の我が家を見ていると、人の家庭の事なんて考えていられないのは明白です。
対処療法としてしか機能しない方法で問題を対処する方達を見ていると悲しくなります。
そんなものは根本的な解決にはなりませんし、それが他人の所有物であるならば所有者の思考や論理、考え、観察力、洞察力、価値観、判断基準などを尊重するのは当然だとわたしは考えています。
即物的な人間は慢性的な必要を満たすことが出来るはずも無いのはわかりきっていることです。
対処療法で満足する即物的な人間というのは、費用を計算し計画的に生きている人間の対極側に居る人間でしょう。
基本的なライフラインを用意するのは移動するにあたっては「最初に」確保しておかねばならないことであることは人間としての常識です。
それを行わずに他人を当てにするのは無責任だと言わざるを得ません。
生活感の無い家は当然で塗装の邪魔になるから、敢えて置いていなかったのにそれを理解して貰えず、わたしの中で余りにシンプルで簡単な結論を汲んで貰えなかったのも苦しくのしかかってきます。
思考を働かせ状況を理解し、洞察力を働かせるならば結論をはじき出せるのに思考放棄をしている方が多いことに心底から哀れにも思い、そのように他の人のことを考えている自分に非常に大きな嫌悪を覚えます。
色々と考えて苦しんでいると身体が動かなくなり、寝ても疲れがとれず情けなくて仕方がありません。
動きたいのに動けないのは意外と疲れるモノです。
何かをやりたいと心が熱烈に願っても、反作用の
「何をするにしても、自分以外の人間が台無しにする」
と条件反射で猛烈に、そして苛烈に心の反面が襲いかかってきます。
わたしの生涯の多くの部分は、理解している故に、多くのことを犠牲にしてきた事によって学習してきました。
何かをしたいと願っても、わたしの本意を理解できない人たちに無駄にされるのが当たり前の人生となっています。
どれだけ有益なことを考え、どれだけ健全で建設的なことを画策しても個人や集団としてのエゴによって潰されてきました。
「三人寄れば文殊の知恵」という言葉がありますが、逆に「三人寄っても下種は下種」という言葉もあります。
目先のことしか見えない人間に支配されることを甘んじて受け続ける不条理が罷り通るのが今の世の中です。
一瞬さえ良ければそれで良い人間が結局はわたしの行動に対しての責任を取ろうともせず、その尻拭いを押し付けられます。
人間の浅はかさには閉口せざるを得ません。
これが同じ人間の考えなのだろうかと不思議に思うのです。
「一寸先は闇」と言う言葉をよく知っていますし、
「地の人の道はその人に属していないことをわたしはよく知っています。
自分の歩みを導くことさえ,
歩んでいるその人に属しているのではありません。」
という言葉もあるのは良く理解しています。
ただわたしは最善を尽くしているのに
多くの発想や発見、そして行動の種を「費用を計算しない」人間によって台無しにされてきました。
「たとえば、あなた方のうちのだれが、
塔を建てようと思う場合,まず座って費用を計算し,
自分がそれを完成するだけのものを
持っているかどうかを調べないでしょうか。
そうしないなら,
その人は土台を据えてもそれを
仕上げることができないかもしれず,
それを見ている人たちはみな彼をあざけって,
『この人は建て始めはしたものの,
仕上げることができなかった』と言い始めるかもしれません。」
このような言葉があります。
わたしは基本的に、”何事も”まず費用を計算し、計画をし物事を行う人間です。
「石橋を叩いて渡る」と言う言葉がありますが、わたしは「石橋をダイナマイトで試して渡る」性格でもあるのです。
よって生活のライフラインを整えるためには徹底的に準備期間を要し、計画し、必要なモノを整え、快適な生活を送るためには労力を惜しむようなことはしません。
だからこそ
無計画な人間
行き当たりばったりな人間
その場さえ良ければ良い人間
の考え方を理解出来ないのです。
なぜ道理に適った考え方が出来ないのか
なぜ論理的に物事を考えられないのか
なぜ目的を純粋に遂行できないのか
不思議でなりません。
適切に物事を行うためには何が必要なのかを見極め、それを行うためには様々なエネルギーが必要であることは明白でしょう。
実行するためには、思い続け考え続けることが重要です。
考えはそれが「はらんだとき」に技もしくは行動を生み出すからです。
聖書には悪いことに関してのみ書かれていますが、良いことに関しても同様に作用するのです。
手段が目的よりも優先されるようなことになってはなりません。
さらに書くと目的に対しての「妥協」は最低でも「想定内」におさめる必要があります。
想定外に悪くなることは許してはならないでしょう。
想定外に悪くなると言うことは「費用を計算できていない」ということです。
それは
自分のLife Design
に悪い影響を及ぼすことは明白でしょう。
よって先手先手で物事に手を打つ必要があります。
作戦B、C、D、Fまでは考えておくべきであり、これらを考える前、「最初に」最悪の事態までを想定しておかなければなりません。
「最悪でもこれぐらいの結果になる」と考えきることで結果の効果をある程度計算できるようになり、行動の目的や意味を”本質的”に、そして”根源的に”理解しながら行動できるのです。
わたしは全ての行動に意義を見いだしたいと考える人間です。
盲目的に生きている人間は、人間として「機能不全」を起こしていると言っても過言では無いでしょう。
これはわたしは身をもって経験しました。
わたしは近しかった人間(H・T)に悪い意味で洗脳され、自分を蔑み貶むように訓練されていきました。
彼の発言を盲目的に信頼し、周りの人間の言葉を盲目的に純粋に信じ込んで生きていました。
彼の考え方は仕事に対して喜びを得てはならないという考え方だったのです。
また、わたしの周りの人間達のことを信頼していましたが、結局はわたしほど物事を深くは考えず「目先の利益」を優先する人間に囲まれていることに気が付きました。
H・Tさんの論理は、「過酷な仕事をし、細々と苦しみながら辛い思いをして生きていくことがクリスチャンなのだ」とも教えられたような気がします。
わたしの考え方は違いました。
仕事というモノは相対的ですが、「楽しんでも良いモノであるはずだ」と聖書を読めば簡単に理解できるロジックです。
現在の状況でさえ「自分の手のわざを喜」んでも良いのです。
なぜ同じ聖書を読みながらこれほどに解釈が異なるのでしょうか。
また自分に基づいた根拠の無い論理を押し付けようとするのでしょうか。
わたしはこのことに関して聖書を熱心に調べ、聖書的根拠と共に生きていました。
それを否定され続けて生きていたのです。
クリスチャンにとって聖書的根拠を否定される事は自分の人格を否定されるよりも強力な自己否定を引き起こしていきます。
わたしは何事も発言したり、行動したりするにあたってはまず最初に聖書的に分析し判断します。
その後に環境や状況やその他の膨大な量の情報を調べることで判断します。
「ゲシュタルト崩壊」が自分の中で起き、自分が猛烈に調べ上げた聖書的根拠を人間が浅い考えで簡単に否定するのですから当然の結果だと言えるでしょう。
証明することは難しくとも、否定することは簡単なのです。
これは数学のことを深く知らなくとも理解できるでしょう。
理由は簡単です。
何も考えずに、「違う」と気に入らない人間に言えば良いだけの話なのです。
ただわたしは神は現在の状態でさえ、喜ぶことを望まれているという確信をしていました。
だからこそ行動の一つ一つに意義を見いだせる人間でもあったのです。
物事を本質的、根源的に理解しながら行動するからこそ、無駄なことは必要以上にしなくても良いという結論に至っているのです。
では考えの浅い条件反射で否定するような、代替案を有していない人間がどうしようも無い事態に陥った際は、それは「自分が蒔いた業」なのだから、その人間がその責任を負わねばならないのです。
それなのにそれを他人に押し付ける人間のいかに多いことでしょう。
そして近しい人の必要になんと無頓着なのでしょう。
多くの人間は自分が愚かであることを理解できていません。
そればかりか「自分はとても賢くて、自分の考え方が最も正しい」と考えている事の方が多いのです。
あの自信や自尊心はどこから来るのだろうと疑問に感じることが良くあります。
これはダニング・クルーガー効果と呼ばれるモノで、自分に対して認知バイアスを掛けてしまっているからなのです。
わたしもその中の一人であることは明白でしょうし、わたしは人間の中でも最も愚かな部類の人間だと確信できます。
だからこそ猛烈に調べ上げる習慣が身についています。
このようなわたしでさえ少しロジカルに、そして聖書的に考えればこの程度の思考ができるのになぜ人は頭を使おうとしないのだろうとも感じます。
わたしは他の皆さんのように聡明な頭脳を有していませんし、頭の回転が速く、機転の利く人を尊敬の目で見ています。
それに対してわたしは頭が悪く、ポンコツで、物理的に頭の中をグチャグチャにして柔らかくしたいぐらいです。
わたしの判断基準は愚かなのですが、聖書的な観点、世間一般の常識的な観点、人としての観点で整合性を取ることでしか結論を出せないのも情けなくも思います。
その中でも「常識」という言葉を軽はずみに使う人間が「常識」を有している可能性は天文学的な数の0が小数点以下に沢山付いた後の1単位程度しか無いでしょう。
常識を持ち出す人間の常識は「自分の主観」という観点を「常識」という言葉で表現することが少なくないのです。
そして常套手段は、自分に都合の良い解釈、自分に都合の良い判断基準を持ち出します。
それが常識だと言えるでしょうか。
わたしは「常識」の判断は悪い意見も良い意見も取り入れることでしか判断できないし、「意見の数の絶対数」により判断したいとも考えています。
絶対数が多ければ多いほど良いか悪いかの判断基準は正確になっていくからです。
聖書的な判断基準は絶対的ですがね。
聖書的に考えると優先順位は揺るがされるはずもありません。
・家族
・親族
・友人のクリスチャン
・友人
・知人のクリスチャン
・知人
・クリスチャン
・他人
でしょう。
この絶対的な判断基準を軽んじるのは「人間」の特徴です。
自分や自分に近しい人間の「必要」には敏感なのに、他の人の必要や計画には無頓着になれるのは不思議でなりません。
わたしは多くのことで妥協し、自分が正しいと考えてきたことでもそれを否定されてもそれを受け入れてきました。
確かにその場だけを取り繕うためだけで有れば誰でも出来ますよね。
ただ、その行為が独善的で結局は「仮初めの善=偽善」であることが少なくありません。
わたしは偽善者にはなりたく有りませんし、わたしの意見が独善的だと取られて構いません。
わたし自身は上記に書いた判断基準から整合性を割り出し、客観的、大局的に物事を見ているからこそ的確な判断をしたいと願っています。
多くの人間は長期的な見識ではなく、超短期的で一瞬の花火のような輝きで人を評価しようとします。
人間の”内に秘める炎”というのは「花火」では無く、”LEDの小さな炎”でもずーっと光り続けるモノであるべきだとわたしは考えています。
人は花火を上げた後に大きく取り上げられ、一瞬だけスポットライトが当たりヒーローインタビューのような経験をすることがあります。
そしてそのような経験を「勘違い」をして、その栄光に縋り付こうとするようになっていきます。
花火を上げる事に関して書きましたので物事の行い方について花火を引き合いに出して書いてみます。
人間は起承転結が非常に重要です。
ではこれを「花火を打ち上げること」にたとえて考えてみましょう。
花火というのはどのようなモノでしょうか。
町で催される花火大会で考えるとより分かり易いかもしれませんね。
まず計画を立てます。
そして費用を計算しなければなりません。
予算を組むところから始まり、
具体的に購入計画が立てられ、
資材を購入します。
そして花火の作成が始まります。
花火の材料を慎重に取り扱う必要があります。
火気厳禁で乾燥させる必要がありますが静電気が発生するので気をつけねばなりません。
計画段階で色彩設計などは考えられているでしょう。
これらを踏まえて様々な色の花火の粒を大きくしていきます。
少しずつ時間を掛けて大きく出来たなら花火の型の中に配色を考えながら組み上げていきます。
一つの花火でさえ複雑な工程がありますが、花火大会というのは非常に沢山の花火を打ち上げます。
八幡浜の花火では1,000発単位で花火を打ち上げられていますよね。
よって花火の組み合わせを見応えのあるモノとするために様々な花火が作られます。
その組み合わせは「費用を計算する」時点で予め計画的に決められていなければならないのです。
打ち上げる順番は打ち上げられる仕組みをスターマインなどを使用することにより高度なセッティングが可能になり見応えのあるプログラムとすることが出来るようになっています。
これも費用を計算する時点で予算にも組まれているでしょうし、順番なども計画段階で決まっていなければ可笑しいでしょう。
打ち上げ時はどうでしょうか。
花火というのは天候に左右されます。
よって予備日が設けられたり、天候不順であれば雨天中止になることも覚悟しなければなりません。
雨天中止になれば今までの作業は無駄だったのでしょうか。
そのような訳はありませんよね。
目的を持って活動をしてきて結果は打ち上げられませんでした。
しかし打ち上げられる段階まで準備が出来たのです。
Professionalならば、打ち上げられなくて残念であっても仕事なのですから、その時点で納得出来るのです。
物事の意義を理解している人間にとってプロセスが仕事なのです。
そして仕事を行っていく個々の過程を納得し、満足して喜びながら仕事をしているのですから、打ち上がろうが打ち上がらなろうが、そこまでの仕事に満足するのです。
では打ち上げられた場合はどうでしょうか。
それは花火師にとって晴れの舞台となります。
順調に打ち上げられ終わろうとも、多少なりともアクシデントは付きものです。
そのようなアクシデントをも含めて「花火大会」であることを花火師の方達は理解しています。
多少は打ち上げてちゃんと爆発しなくても複数同時に打ち上げることでフォローをするのも折り込み済みでしょう。
重要なのは計画としての流れを途切れさせないことです。
「全ての花火を打ち上げることが出来たとき=花火大会が終わった」時に花火師の仕事が終わるのでしょうか
そうではありませんね。
ただ単に打ち上げただけでは花火師としては失格でしょう。
打ち上げたあとの道具やゴミを回収し、綺麗にして無事に家に帰った時点でやっと
「仕事が終わった」
と言えるのです。
殆どの人は花火は「打ち上がったとき」にしか関心がありません。
多くの人は自分が花火をする際に火を付けて「綺麗な花火を楽しむ」だけが「花火」なのです。
そうであってはなりませんよね。
費用を用意し買うことから始まり、ゴミを持ち帰りゴミ収集車に載せるまでが花火なんです。
「そして次の仕事が始まります。」
「晴れの舞台」が有ったとしても、それは一時的で相対的なモノであり、人間というのは忘れていくモノです。
特に人間が持ち上げてくれることほど信用のならないモノは無いでしょう。
一瞬の輝きで多くの人に知られても、それを見た次の瞬間から人は関心の無い事に対しては恐ろしいほどに忘れていくのです。
過去の栄光に如何ほどの価値があるのでしょうか。
わたしは美味しいとこ取りをする人間は嫌いなのですよ。
わたしが評価するのは裏方の人です。
また、何をするにしても「楽しければ良い」という考え方にも賛同出来ません。
何も費用を計算し、計画を立てておらず楽しんでいる方が居るのであれば陰で計画し、準備して下さっている方が絶対に居るのです。
口を開けて待っている人間にはなりたくないモノです。
生活を送る上での”高等技術”として「毎日を楽しむ」ことがありますね。
毎日を楽しむためには上記でも書きましたが、
「計画を立て費用を計算し整然と物事を徹底して行う」
ということが重要なのです。
わたしは以前、自尊心と言う概念を持ち合わせていませんでした。
自分をこの世の生物の中で最も下等なモノだと考えるまでに至った事があります。
結局はわたしに「助言」というエゴを騙った人間が間違っていたことをわたしの精神が壊れるまで尽くして彼の言うとおりに行ったことで証明しました。
わたしの考え方が正しかったことをあのような形で証明するまでも無かったと、今から考えると痛感します。
わたしは「理想」という人間の生活と乖離した憧れを抱く種類の人間ではありません。
逆に現実的な「目的」へコツコツと積み上げることで構築する人間です。
変化というのは華やかなモノではありません。
より現実的に物事を行い続け、他の人に迷惑を掛けることなく、他人を軽んじることなく、自分も軽んじることなく物事を整然と行っていくことにより成長していきたいと願い実行するたぐいの人間であるとも言えます。
わたしは聖書を学んでいるので神様の存在は揺るぎる事なく、そして神のご意志によって生きていられるとも考えています。
しかし軽はずみに頼ることはしたくはありません。
最善を尽くし、自分にできることを徹底的に調べ、試み、多少の無理をしてでも行動して自分の活動でどうしようもない事態にまで至って始めて
「全てを神に委ねる」
と言うプロセスに至ります。
当然、行動している間も神様に
最善を尽くして行動できるように力付けてください
良い結果になるように導いてください
万事、全ての人間の関係が良くなるようにしてください
と祈ることは欠かせません。
神のご意志によって物事が導かれる際には、人間の行動の結果ではあり得ないほどの調和が見られます。
これは余りに調和が取られ過ぎていて恐怖を感じるほどの結果になる事が少なくないほどです。
逆にそうでは無い場合は、クリスチャンといえども間違った方法で物事を行っていると言うことの結果と言えるでしょう。
誰か一人でも感情を害するということは明らかに明確な間違いであると言うことですね。
洞察力を働かせたくも無いのに勝手に働き、人の思考を読み取ろうとします。
深く考えもせず生きている方達を見ると、とても羨ましくて「そうなりたい」と心奥から願ってしまうんですね。
わたしがここまで考えているとは夢にも思っていないでしょう。
それが悲しくもあり、哀れにも思います。
でないと所々でリアルでの事柄を書いていたり、言葉遣いでおかしな所があることに気が付きました。
というよりしょっぱなの書き出し紹介からでも具体的ですよね。
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この近況はわたしの個人的で強力な主観によって書くモノです。
わたしのことを知りたくない人には読んでいただきたくはありません。
家族に対して、またわたしの周りで成された不条理に対しての問題提起でもあるので人によっては不快に思われるでしょう。
その点を理解した上でお読みください。
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みんなが自由に使えるスペースが欲しいと思っていました。
家族が気分転換の出来る空間が欲しいと考えてもいました。
親族で気兼ねなく使え、集まりあえる場所が欲しいと願いました。
なぜなら、どう考えても今の家は家族で住むには狭いのはわかりきっていることであり、わたしの家族の状態、状況を知っているならば許されてしかるべきだと判断したからです。
加えて自分の「仕事場」、「Photo Studio」、そして「アトリエ」が欲しかったというのもあります。
この世はわたしの家族に対して、そのような場所を持つことを許さないようです。
あらかじめ、わたしの中で調子が良くて流れが良いときに何とかして塗装をしようと計画をしていました。
ただ調子を整え、自分自身を奮い立たせるまで待って戴けなかったのは忸怩たる思いで受け入れるしか無かったのです。
どれだけ無理をしたのか理解して貰えないことが多く、精神的体力は酷く消耗し、計画を無碍にされたことの無念さが今でも唆し蔑み貶してきます。
悲しいのは家族でさえ、そのことに「後から」気づかれるということです。
確かに他の人の必要を満たすことも重要なのはわかりきっています。
わたしはこの種の事には敏感な方なので明確に状況把握を行います。
そして優先順位を客観的に弾き出すように努めています。
家族の必要さえ賄われていないのに、他人の必要を優先するという矛盾を「後々の必要」を考慮に入れず簡単にわたしの意見は受け入れられない結論にいたり、わたしの意見を無碍にされるのは悲しいですね。
「当然のことですが,自分に属する人々,
ことに自分の家の者に必要な物を備えない人がいるなら,
その人は信仰を否認していることになり,
信仰のない人より悪いのです。」
この言葉は関わった人全てに適応されるでしょう。
主要な役割を果たした人間はこのように判断されてしかるべきですね。
ただこれはわたしに都合の良い解釈です。
また人の必要や考えを理解できない方達にとって、間違った考え方なのでしょう。
更にこのような言葉もあります。
「あなたの手に善を行なう力があるのに,
それを受けるべき人から控えてはならない。」
わたしは他の人に与えることに関してはやぶさかではありません。
可能な範囲内では寛容な類いに属すると考えられます。
ただ、わたしは聖書に忠実でありたいと願っています。
であるならば当然のこととして、まずは家族の環境をどうにかしなければならないと考えてはならないのでしょうか。
今の我が家を見ていると、人の家庭の事なんて考えていられないのは明白です。
対処療法としてしか機能しない方法で問題を対処する方達を見ていると悲しくなります。
そんなものは根本的な解決にはなりませんし、それが他人の所有物であるならば所有者の思考や論理、考え、観察力、洞察力、価値観、判断基準などを尊重するのは当然だとわたしは考えています。
即物的な人間は慢性的な必要を満たすことが出来るはずも無いのはわかりきっていることです。
対処療法で満足する即物的な人間というのは、費用を計算し計画的に生きている人間の対極側に居る人間でしょう。
基本的なライフラインを用意するのは移動するにあたっては「最初に」確保しておかねばならないことであることは人間としての常識です。
それを行わずに他人を当てにするのは無責任だと言わざるを得ません。
生活感の無い家は当然で塗装の邪魔になるから、敢えて置いていなかったのにそれを理解して貰えず、わたしの中で余りにシンプルで簡単な結論を汲んで貰えなかったのも苦しくのしかかってきます。
思考を働かせ状況を理解し、洞察力を働かせるならば結論をはじき出せるのに思考放棄をしている方が多いことに心底から哀れにも思い、そのように他の人のことを考えている自分に非常に大きな嫌悪を覚えます。
色々と考えて苦しんでいると身体が動かなくなり、寝ても疲れがとれず情けなくて仕方がありません。
動きたいのに動けないのは意外と疲れるモノです。
何かをやりたいと心が熱烈に願っても、反作用の
「何をするにしても、自分以外の人間が台無しにする」
と条件反射で猛烈に、そして苛烈に心の反面が襲いかかってきます。
わたしの生涯の多くの部分は、理解している故に、多くのことを犠牲にしてきた事によって学習してきました。
何かをしたいと願っても、わたしの本意を理解できない人たちに無駄にされるのが当たり前の人生となっています。
どれだけ有益なことを考え、どれだけ健全で建設的なことを画策しても個人や集団としてのエゴによって潰されてきました。
「三人寄れば文殊の知恵」という言葉がありますが、逆に「三人寄っても下種は下種」という言葉もあります。
目先のことしか見えない人間に支配されることを甘んじて受け続ける不条理が罷り通るのが今の世の中です。
一瞬さえ良ければそれで良い人間が結局はわたしの行動に対しての責任を取ろうともせず、その尻拭いを押し付けられます。
人間の浅はかさには閉口せざるを得ません。
これが同じ人間の考えなのだろうかと不思議に思うのです。
「一寸先は闇」と言う言葉をよく知っていますし、
「地の人の道はその人に属していないことをわたしはよく知っています。
自分の歩みを導くことさえ,
歩んでいるその人に属しているのではありません。」
という言葉もあるのは良く理解しています。
ただわたしは最善を尽くしているのに
多くの発想や発見、そして行動の種を「費用を計算しない」人間によって台無しにされてきました。
「たとえば、あなた方のうちのだれが、
塔を建てようと思う場合,まず座って費用を計算し,
自分がそれを完成するだけのものを
持っているかどうかを調べないでしょうか。
そうしないなら,
その人は土台を据えてもそれを
仕上げることができないかもしれず,
それを見ている人たちはみな彼をあざけって,
『この人は建て始めはしたものの,
仕上げることができなかった』と言い始めるかもしれません。」
このような言葉があります。
わたしは基本的に、”何事も”まず費用を計算し、計画をし物事を行う人間です。
「石橋を叩いて渡る」と言う言葉がありますが、わたしは「石橋をダイナマイトで試して渡る」性格でもあるのです。
よって生活のライフラインを整えるためには徹底的に準備期間を要し、計画し、必要なモノを整え、快適な生活を送るためには労力を惜しむようなことはしません。
だからこそ
無計画な人間
行き当たりばったりな人間
その場さえ良ければ良い人間
の考え方を理解出来ないのです。
なぜ道理に適った考え方が出来ないのか
なぜ論理的に物事を考えられないのか
なぜ目的を純粋に遂行できないのか
不思議でなりません。
適切に物事を行うためには何が必要なのかを見極め、それを行うためには様々なエネルギーが必要であることは明白でしょう。
実行するためには、思い続け考え続けることが重要です。
考えはそれが「はらんだとき」に技もしくは行動を生み出すからです。
聖書には悪いことに関してのみ書かれていますが、良いことに関しても同様に作用するのです。
手段が目的よりも優先されるようなことになってはなりません。
さらに書くと目的に対しての「妥協」は最低でも「想定内」におさめる必要があります。
想定外に悪くなることは許してはならないでしょう。
想定外に悪くなると言うことは「費用を計算できていない」ということです。
それは
自分のLife Design
に悪い影響を及ぼすことは明白でしょう。
よって先手先手で物事に手を打つ必要があります。
作戦B、C、D、Fまでは考えておくべきであり、これらを考える前、「最初に」最悪の事態までを想定しておかなければなりません。
「最悪でもこれぐらいの結果になる」と考えきることで結果の効果をある程度計算できるようになり、行動の目的や意味を”本質的”に、そして”根源的に”理解しながら行動できるのです。
わたしは全ての行動に意義を見いだしたいと考える人間です。
盲目的に生きている人間は、人間として「機能不全」を起こしていると言っても過言では無いでしょう。
これはわたしは身をもって経験しました。
わたしは近しかった人間(H・T)に悪い意味で洗脳され、自分を蔑み貶むように訓練されていきました。
彼の発言を盲目的に信頼し、周りの人間の言葉を盲目的に純粋に信じ込んで生きていました。
彼の考え方は仕事に対して喜びを得てはならないという考え方だったのです。
また、わたしの周りの人間達のことを信頼していましたが、結局はわたしほど物事を深くは考えず「目先の利益」を優先する人間に囲まれていることに気が付きました。
H・Tさんの論理は、「過酷な仕事をし、細々と苦しみながら辛い思いをして生きていくことがクリスチャンなのだ」とも教えられたような気がします。
わたしの考え方は違いました。
仕事というモノは相対的ですが、「楽しんでも良いモノであるはずだ」と聖書を読めば簡単に理解できるロジックです。
現在の状況でさえ「自分の手のわざを喜」んでも良いのです。
なぜ同じ聖書を読みながらこれほどに解釈が異なるのでしょうか。
また自分に基づいた根拠の無い論理を押し付けようとするのでしょうか。
わたしはこのことに関して聖書を熱心に調べ、聖書的根拠と共に生きていました。
それを否定され続けて生きていたのです。
クリスチャンにとって聖書的根拠を否定される事は自分の人格を否定されるよりも強力な自己否定を引き起こしていきます。
わたしは何事も発言したり、行動したりするにあたってはまず最初に聖書的に分析し判断します。
その後に環境や状況やその他の膨大な量の情報を調べることで判断します。
「ゲシュタルト崩壊」が自分の中で起き、自分が猛烈に調べ上げた聖書的根拠を人間が浅い考えで簡単に否定するのですから当然の結果だと言えるでしょう。
証明することは難しくとも、否定することは簡単なのです。
これは数学のことを深く知らなくとも理解できるでしょう。
理由は簡単です。
何も考えずに、「違う」と気に入らない人間に言えば良いだけの話なのです。
ただわたしは神は現在の状態でさえ、喜ぶことを望まれているという確信をしていました。
だからこそ行動の一つ一つに意義を見いだせる人間でもあったのです。
物事を本質的、根源的に理解しながら行動するからこそ、無駄なことは必要以上にしなくても良いという結論に至っているのです。
では考えの浅い条件反射で否定するような、代替案を有していない人間がどうしようも無い事態に陥った際は、それは「自分が蒔いた業」なのだから、その人間がその責任を負わねばならないのです。
それなのにそれを他人に押し付ける人間のいかに多いことでしょう。
そして近しい人の必要になんと無頓着なのでしょう。
多くの人間は自分が愚かであることを理解できていません。
そればかりか「自分はとても賢くて、自分の考え方が最も正しい」と考えている事の方が多いのです。
あの自信や自尊心はどこから来るのだろうと疑問に感じることが良くあります。
これはダニング・クルーガー効果と呼ばれるモノで、自分に対して認知バイアスを掛けてしまっているからなのです。
わたしもその中の一人であることは明白でしょうし、わたしは人間の中でも最も愚かな部類の人間だと確信できます。
だからこそ猛烈に調べ上げる習慣が身についています。
このようなわたしでさえ少しロジカルに、そして聖書的に考えればこの程度の思考ができるのになぜ人は頭を使おうとしないのだろうとも感じます。
わたしは他の皆さんのように聡明な頭脳を有していませんし、頭の回転が速く、機転の利く人を尊敬の目で見ています。
それに対してわたしは頭が悪く、ポンコツで、物理的に頭の中をグチャグチャにして柔らかくしたいぐらいです。
わたしの判断基準は愚かなのですが、聖書的な観点、世間一般の常識的な観点、人としての観点で整合性を取ることでしか結論を出せないのも情けなくも思います。
その中でも「常識」という言葉を軽はずみに使う人間が「常識」を有している可能性は天文学的な数の0が小数点以下に沢山付いた後の1単位程度しか無いでしょう。
常識を持ち出す人間の常識は「自分の主観」という観点を「常識」という言葉で表現することが少なくないのです。
そして常套手段は、自分に都合の良い解釈、自分に都合の良い判断基準を持ち出します。
それが常識だと言えるでしょうか。
わたしは「常識」の判断は悪い意見も良い意見も取り入れることでしか判断できないし、「意見の数の絶対数」により判断したいとも考えています。
絶対数が多ければ多いほど良いか悪いかの判断基準は正確になっていくからです。
聖書的な判断基準は絶対的ですがね。
聖書的に考えると優先順位は揺るがされるはずもありません。
・家族
・親族
・友人のクリスチャン
・友人
・知人のクリスチャン
・知人
・クリスチャン
・他人
でしょう。
この絶対的な判断基準を軽んじるのは「人間」の特徴です。
自分や自分に近しい人間の「必要」には敏感なのに、他の人の必要や計画には無頓着になれるのは不思議でなりません。
わたしは多くのことで妥協し、自分が正しいと考えてきたことでもそれを否定されてもそれを受け入れてきました。
確かにその場だけを取り繕うためだけで有れば誰でも出来ますよね。
ただ、その行為が独善的で結局は「仮初めの善=偽善」であることが少なくありません。
わたしは偽善者にはなりたく有りませんし、わたしの意見が独善的だと取られて構いません。
わたし自身は上記に書いた判断基準から整合性を割り出し、客観的、大局的に物事を見ているからこそ的確な判断をしたいと願っています。
多くの人間は長期的な見識ではなく、超短期的で一瞬の花火のような輝きで人を評価しようとします。
人間の”内に秘める炎”というのは「花火」では無く、”LEDの小さな炎”でもずーっと光り続けるモノであるべきだとわたしは考えています。
人は花火を上げた後に大きく取り上げられ、一瞬だけスポットライトが当たりヒーローインタビューのような経験をすることがあります。
そしてそのような経験を「勘違い」をして、その栄光に縋り付こうとするようになっていきます。
花火を上げる事に関して書きましたので物事の行い方について花火を引き合いに出して書いてみます。
人間は起承転結が非常に重要です。
ではこれを「花火を打ち上げること」にたとえて考えてみましょう。
花火というのはどのようなモノでしょうか。
町で催される花火大会で考えるとより分かり易いかもしれませんね。
まず計画を立てます。
そして費用を計算しなければなりません。
予算を組むところから始まり、
具体的に購入計画が立てられ、
資材を購入します。
そして花火の作成が始まります。
花火の材料を慎重に取り扱う必要があります。
火気厳禁で乾燥させる必要がありますが静電気が発生するので気をつけねばなりません。
計画段階で色彩設計などは考えられているでしょう。
これらを踏まえて様々な色の花火の粒を大きくしていきます。
少しずつ時間を掛けて大きく出来たなら花火の型の中に配色を考えながら組み上げていきます。
一つの花火でさえ複雑な工程がありますが、花火大会というのは非常に沢山の花火を打ち上げます。
八幡浜の花火では1,000発単位で花火を打ち上げられていますよね。
よって花火の組み合わせを見応えのあるモノとするために様々な花火が作られます。
その組み合わせは「費用を計算する」時点で予め計画的に決められていなければならないのです。
打ち上げる順番は打ち上げられる仕組みをスターマインなどを使用することにより高度なセッティングが可能になり見応えのあるプログラムとすることが出来るようになっています。
これも費用を計算する時点で予算にも組まれているでしょうし、順番なども計画段階で決まっていなければ可笑しいでしょう。
打ち上げ時はどうでしょうか。
花火というのは天候に左右されます。
よって予備日が設けられたり、天候不順であれば雨天中止になることも覚悟しなければなりません。
雨天中止になれば今までの作業は無駄だったのでしょうか。
そのような訳はありませんよね。
目的を持って活動をしてきて結果は打ち上げられませんでした。
しかし打ち上げられる段階まで準備が出来たのです。
Professionalならば、打ち上げられなくて残念であっても仕事なのですから、その時点で納得出来るのです。
物事の意義を理解している人間にとってプロセスが仕事なのです。
そして仕事を行っていく個々の過程を納得し、満足して喜びながら仕事をしているのですから、打ち上がろうが打ち上がらなろうが、そこまでの仕事に満足するのです。
では打ち上げられた場合はどうでしょうか。
それは花火師にとって晴れの舞台となります。
順調に打ち上げられ終わろうとも、多少なりともアクシデントは付きものです。
そのようなアクシデントをも含めて「花火大会」であることを花火師の方達は理解しています。
多少は打ち上げてちゃんと爆発しなくても複数同時に打ち上げることでフォローをするのも折り込み済みでしょう。
重要なのは計画としての流れを途切れさせないことです。
「全ての花火を打ち上げることが出来たとき=花火大会が終わった」時に花火師の仕事が終わるのでしょうか
そうではありませんね。
ただ単に打ち上げただけでは花火師としては失格でしょう。
打ち上げたあとの道具やゴミを回収し、綺麗にして無事に家に帰った時点でやっと
「仕事が終わった」
と言えるのです。
殆どの人は花火は「打ち上がったとき」にしか関心がありません。
多くの人は自分が花火をする際に火を付けて「綺麗な花火を楽しむ」だけが「花火」なのです。
そうであってはなりませんよね。
費用を用意し買うことから始まり、ゴミを持ち帰りゴミ収集車に載せるまでが花火なんです。
「そして次の仕事が始まります。」
「晴れの舞台」が有ったとしても、それは一時的で相対的なモノであり、人間というのは忘れていくモノです。
特に人間が持ち上げてくれることほど信用のならないモノは無いでしょう。
一瞬の輝きで多くの人に知られても、それを見た次の瞬間から人は関心の無い事に対しては恐ろしいほどに忘れていくのです。
過去の栄光に如何ほどの価値があるのでしょうか。
わたしは美味しいとこ取りをする人間は嫌いなのですよ。
わたしが評価するのは裏方の人です。
また、何をするにしても「楽しければ良い」という考え方にも賛同出来ません。
何も費用を計算し、計画を立てておらず楽しんでいる方が居るのであれば陰で計画し、準備して下さっている方が絶対に居るのです。
口を開けて待っている人間にはなりたくないモノです。
生活を送る上での”高等技術”として「毎日を楽しむ」ことがありますね。
毎日を楽しむためには上記でも書きましたが、
「計画を立て費用を計算し整然と物事を徹底して行う」
ということが重要なのです。
わたしは以前、自尊心と言う概念を持ち合わせていませんでした。
自分をこの世の生物の中で最も下等なモノだと考えるまでに至った事があります。
結局はわたしに「助言」というエゴを騙った人間が間違っていたことをわたしの精神が壊れるまで尽くして彼の言うとおりに行ったことで証明しました。
わたしの考え方が正しかったことをあのような形で証明するまでも無かったと、今から考えると痛感します。
わたしは「理想」という人間の生活と乖離した憧れを抱く種類の人間ではありません。
逆に現実的な「目的」へコツコツと積み上げることで構築する人間です。
変化というのは華やかなモノではありません。
より現実的に物事を行い続け、他の人に迷惑を掛けることなく、他人を軽んじることなく、自分も軽んじることなく物事を整然と行っていくことにより成長していきたいと願い実行するたぐいの人間であるとも言えます。
わたしは聖書を学んでいるので神様の存在は揺るぎる事なく、そして神のご意志によって生きていられるとも考えています。
しかし軽はずみに頼ることはしたくはありません。
最善を尽くし、自分にできることを徹底的に調べ、試み、多少の無理をしてでも行動して自分の活動でどうしようもない事態にまで至って始めて
「全てを神に委ねる」
と言うプロセスに至ります。
当然、行動している間も神様に
最善を尽くして行動できるように力付けてください
良い結果になるように導いてください
万事、全ての人間の関係が良くなるようにしてください
と祈ることは欠かせません。
神のご意志によって物事が導かれる際には、人間の行動の結果ではあり得ないほどの調和が見られます。
これは余りに調和が取られ過ぎていて恐怖を感じるほどの結果になる事が少なくないほどです。
逆にそうでは無い場合は、クリスチャンといえども間違った方法で物事を行っていると言うことの結果と言えるでしょう。
誰か一人でも感情を害するということは明らかに明確な間違いであると言うことですね。
洞察力を働かせたくも無いのに勝手に働き、人の思考を読み取ろうとします。
深く考えもせず生きている方達を見ると、とても羨ましくて「そうなりたい」と心奥から願ってしまうんですね。
わたしがここまで考えているとは夢にも思っていないでしょう。
それが悲しくもあり、哀れにも思います。