いつも日々おいらが自分に問いかける言葉です.............
この延長線上の自問に
「最善を尽くしているか?」
というのがあります。
しかしおいらの今の状態では「最善を尽くしているか?」という問いは愚問でしかありません。
絶対に出来ていない事に自信がありますし、不可能なのは誰の目から見ても明らかだからです。
よっておいらは自分に甘くなりました。
この時点でおいらは自分が許せないのですが、理想を追い求めるより出来ることを一つ一つしていくことの方が現実的だということを理解出来るようになりました。
昔のおいらは最善を追い求めて自分に失望し、出来ないことを嘆いては、そのことで落ち込み自虐的に生きていました。
「失敗」や「恥」というのは人間を成長させる最大の糧です。
でも若かったおいらは失敗してしまうと必要以上に落ち込み、そこからは害しかないものになっていましたな......
今思うと失敗したことはおいらのゴミみたいな人生で最も重要な財産ですし、もっと失敗していく必要を感じているぐらいです。
確かに失敗をしないに越したことはないですよ。
でも心に残っている事というのは
「ネガティブな要素」
があって、その後に努力した経験によって記憶により鮮明に残り、そのことによってポジティブになれたはずなのです。
このごろは少し精神的に調子が悪いので酷いことばかり書いているな~......
でも引きこもっていた頃と比べるとだんちで今の方が良いのでまあいいか....
「自分の出来ることをしているか?」という問いに関しては出来る限り「YES」と答えるようにしています。
出来ないことまで首を突っ込んで苦しむことをしないというのは自虐的なおいらにしてみれば辛いこととなってきました。
おいらの学んでいる事の中には「自分の分を知る」事の重要性が書かれている部分があります。
「自分の分以上のことをするのは僭越な人間のすることだ」とも定義されていますので従うようになったんですな。
まあ今でも出来ないことが多いのですがね。
自分の「出来る分」(キャパシティ)を考慮して分をわきまえるようにする傾向を培うというのは非常に難しいな~と感じます。
おいらは愚か者なので何も考えずに引き受けることが多かったのですが、自分が出来る事というのは知れていて自分の家族にさえ何も出来ないことの方が多いぐらいだという事実を受け入れるのは骨が折れました。
家族にさえ出来ないのによそ様に目を向けれるほど人間というのはゆとりがないことを理解するにあたり、他の人の目を気にすることの愚かさも解ってきました。
確かに人間というのは他の人に認めて貰いたいと願う生き物です。
一例としておいらが「出来ない事」を少し書こうと思います。
自分が出来ると解っていることがあるとします。
それは「必ず出来る」事がわかっているとしますよね。
それをするにあたって体には必ず負担がかかります。
体の負担というのは寝たらある程度は回復しますよね~。
しかし心の負担というのはどうなのでしょうか?
もしそのことをして精神的に疲れ切ってしまい、他のことがおろそかになる事があった場合にそれは「出来る」内にはいるのでしょうか?
おいらは「これは出来た内には入らない」と考えています。
達成感があり充実しているというのは良いのかもしれません。
でもこれらというのは一時的な事の場合が多いのです。
というよりむしろ「瞬間的」とか「刹那的」といっても良いぐらいに短いものです。
永続的な業の場合は永久に達成感を味わうことが出来ますが、人間が行う業のほとんどは瞬く間に過ぎていく事象ばかりです。
よって振り返ってみた際にそれから得られる益というのを考えるようになりました。
これは事象の「因果関係」からもたらされるもののことを意味します。
ここで書いておかなければならないことがあります。
人間というのは
「行動する生き物」
だと言うことです。
よって行動によってからしか何も得られず、必要なものを得るためには精神的に「出来ない」事もしなければならないことが多いのです。
人間という生き物はこの「出来ない事」を「出来ること」に変えていくことが出来るのも事実です。
人間というのは「臨機応変」という言葉を使うぐらいに「慣れ」とか「対応」することが出来るようになるのです。
「慣れ」というのは2、3回繰り返すことで少しは解りますが、実際に「慣れ」と定義されているのは人がその事象を使えるようになったり、負担の度合いが減ってその事象を心が容認できるようになった事を意味しているように思います。
まあおいらの個人的な見解ですので間違っている可能性の方が大きいのですが、あらかたこんなもんでしょう。
これは喜びを見いだせることでは容易に可能になります。
しかしその事象が嫌でも慣れると何とも無くなり、むしろ好きになったりすることもあります。
これは「嫌」だという気持ちの度合いが強ければ強いほどにその反動は強くてぞっこんになり得るんですな。(笑)
これは「失敗」と「成功」の関係によく似ています。
・失敗すればするほど成功したときの喜びというのは大きい
というのはよく知られていますよね。
これとよく似ていて嫌悪感を持って見ている事象をよく知れば知るほど注目を集める傾向にあり、もっと知っておかなければならないという心理的な圧力がかかるものです。
おいらの場合で言うとこれは
写真
にあたります。
仕事で嫌々はじめたので大嫌いだったんですな。(笑)
人が写真を撮るということは「=おいらの仕事が増える」と考えていましたから.......
だから「子供の行事」や「祭り」、「祭日」が大嫌いでした。
でも写真を撮るようになって見方が180度変わって写真というのはおいらの中では記録すること以上のことになっています。
人から見れば写真を撮るという作業は「記録」以外の何者でもありませんし、そこにそれ以上の意義を見いだすことは少ないでしょう。
人間というのは実際に経験しないと信用しないものです。
だから自分が熱中していることを他の人に理解してもらえると考えるのは浅はかな事です。
しかし魅力を語り人にその事象の意義を伝えることが出来るのは会話の出来る事によってもたらされる益と言えます。
また1回で理解してもらえることは有り得ないこと、100パーセントの魅力を味わえないことも知っておくといろんな事に興味が出てくるというものです。
昔は排他的な生活をしていて自分の見ている世界が全てでした。
でも今は違います。
世界は広く、まだ見ぬ景色が無限にあることを考えるとわくわくしてきます。
実際の風景だけではなくて、「勉強」することや「運動」すること、「楽しむ」ことや「悲しむ」ことなど人間が出来る事象で多くのことを経験してしか見えない視界もあるということを感じるんです。
価値観の違いもありますし、考え方の違いもあります。
双子で同じ環境で育ったとしても考え方が違うことを良く聴きます。
ほとんど同じ状況で育った人間でさえ視点が違うのに他人に同じ価値観を共有するように強要するのは酷い「僭越」ですね。
昔はこの僭越さを他の人に強要していたおいらがいます。
よって少なくとも少し成長し知識と理解力をちょっと増やした「今は」他の人がこのように感じないように「自分に出来ることをしているか?」と考えるんですな。
これは家族に対してでもあり、他の人に対してでもあります。
まあおいらにとって重要なのはおいらの家族なので特に意識しているのは家族に対しての言葉に気をつけています。
この延長線上の自問に
「最善を尽くしているか?」
というのがあります。
しかしおいらの今の状態では「最善を尽くしているか?」という問いは愚問でしかありません。
絶対に出来ていない事に自信がありますし、不可能なのは誰の目から見ても明らかだからです。
よっておいらは自分に甘くなりました。
この時点でおいらは自分が許せないのですが、理想を追い求めるより出来ることを一つ一つしていくことの方が現実的だということを理解出来るようになりました。
昔のおいらは最善を追い求めて自分に失望し、出来ないことを嘆いては、そのことで落ち込み自虐的に生きていました。
「失敗」や「恥」というのは人間を成長させる最大の糧です。
でも若かったおいらは失敗してしまうと必要以上に落ち込み、そこからは害しかないものになっていましたな......
今思うと失敗したことはおいらのゴミみたいな人生で最も重要な財産ですし、もっと失敗していく必要を感じているぐらいです。
確かに失敗をしないに越したことはないですよ。
でも心に残っている事というのは
「ネガティブな要素」
があって、その後に努力した経験によって記憶により鮮明に残り、そのことによってポジティブになれたはずなのです。
このごろは少し精神的に調子が悪いので酷いことばかり書いているな~......
でも引きこもっていた頃と比べるとだんちで今の方が良いのでまあいいか....
「自分の出来ることをしているか?」という問いに関しては出来る限り「YES」と答えるようにしています。
出来ないことまで首を突っ込んで苦しむことをしないというのは自虐的なおいらにしてみれば辛いこととなってきました。
おいらの学んでいる事の中には「自分の分を知る」事の重要性が書かれている部分があります。
「自分の分以上のことをするのは僭越な人間のすることだ」とも定義されていますので従うようになったんですな。
まあ今でも出来ないことが多いのですがね。
自分の「出来る分」(キャパシティ)を考慮して分をわきまえるようにする傾向を培うというのは非常に難しいな~と感じます。
おいらは愚か者なので何も考えずに引き受けることが多かったのですが、自分が出来る事というのは知れていて自分の家族にさえ何も出来ないことの方が多いぐらいだという事実を受け入れるのは骨が折れました。
家族にさえ出来ないのによそ様に目を向けれるほど人間というのはゆとりがないことを理解するにあたり、他の人の目を気にすることの愚かさも解ってきました。
確かに人間というのは他の人に認めて貰いたいと願う生き物です。
一例としておいらが「出来ない事」を少し書こうと思います。
自分が出来ると解っていることがあるとします。
それは「必ず出来る」事がわかっているとしますよね。
それをするにあたって体には必ず負担がかかります。
体の負担というのは寝たらある程度は回復しますよね~。
しかし心の負担というのはどうなのでしょうか?
もしそのことをして精神的に疲れ切ってしまい、他のことがおろそかになる事があった場合にそれは「出来る」内にはいるのでしょうか?
おいらは「これは出来た内には入らない」と考えています。
達成感があり充実しているというのは良いのかもしれません。
でもこれらというのは一時的な事の場合が多いのです。
というよりむしろ「瞬間的」とか「刹那的」といっても良いぐらいに短いものです。
永続的な業の場合は永久に達成感を味わうことが出来ますが、人間が行う業のほとんどは瞬く間に過ぎていく事象ばかりです。
よって振り返ってみた際にそれから得られる益というのを考えるようになりました。
これは事象の「因果関係」からもたらされるもののことを意味します。
ここで書いておかなければならないことがあります。
人間というのは
「行動する生き物」
だと言うことです。
よって行動によってからしか何も得られず、必要なものを得るためには精神的に「出来ない」事もしなければならないことが多いのです。
人間という生き物はこの「出来ない事」を「出来ること」に変えていくことが出来るのも事実です。
人間というのは「臨機応変」という言葉を使うぐらいに「慣れ」とか「対応」することが出来るようになるのです。
「慣れ」というのは2、3回繰り返すことで少しは解りますが、実際に「慣れ」と定義されているのは人がその事象を使えるようになったり、負担の度合いが減ってその事象を心が容認できるようになった事を意味しているように思います。
まあおいらの個人的な見解ですので間違っている可能性の方が大きいのですが、あらかたこんなもんでしょう。
これは喜びを見いだせることでは容易に可能になります。
しかしその事象が嫌でも慣れると何とも無くなり、むしろ好きになったりすることもあります。
これは「嫌」だという気持ちの度合いが強ければ強いほどにその反動は強くてぞっこんになり得るんですな。(笑)
これは「失敗」と「成功」の関係によく似ています。
・失敗すればするほど成功したときの喜びというのは大きい
というのはよく知られていますよね。
これとよく似ていて嫌悪感を持って見ている事象をよく知れば知るほど注目を集める傾向にあり、もっと知っておかなければならないという心理的な圧力がかかるものです。
おいらの場合で言うとこれは
写真
にあたります。
仕事で嫌々はじめたので大嫌いだったんですな。(笑)
人が写真を撮るということは「=おいらの仕事が増える」と考えていましたから.......
だから「子供の行事」や「祭り」、「祭日」が大嫌いでした。
でも写真を撮るようになって見方が180度変わって写真というのはおいらの中では記録すること以上のことになっています。
人から見れば写真を撮るという作業は「記録」以外の何者でもありませんし、そこにそれ以上の意義を見いだすことは少ないでしょう。
人間というのは実際に経験しないと信用しないものです。
だから自分が熱中していることを他の人に理解してもらえると考えるのは浅はかな事です。
しかし魅力を語り人にその事象の意義を伝えることが出来るのは会話の出来る事によってもたらされる益と言えます。
また1回で理解してもらえることは有り得ないこと、100パーセントの魅力を味わえないことも知っておくといろんな事に興味が出てくるというものです。
昔は排他的な生活をしていて自分の見ている世界が全てでした。
でも今は違います。
世界は広く、まだ見ぬ景色が無限にあることを考えるとわくわくしてきます。
実際の風景だけではなくて、「勉強」することや「運動」すること、「楽しむ」ことや「悲しむ」ことなど人間が出来る事象で多くのことを経験してしか見えない視界もあるということを感じるんです。
価値観の違いもありますし、考え方の違いもあります。
双子で同じ環境で育ったとしても考え方が違うことを良く聴きます。
ほとんど同じ状況で育った人間でさえ視点が違うのに他人に同じ価値観を共有するように強要するのは酷い「僭越」ですね。
昔はこの僭越さを他の人に強要していたおいらがいます。
よって少なくとも少し成長し知識と理解力をちょっと増やした「今は」他の人がこのように感じないように「自分に出来ることをしているか?」と考えるんですな。
これは家族に対してでもあり、他の人に対してでもあります。
まあおいらにとって重要なのはおいらの家族なので特に意識しているのは家族に対しての言葉に気をつけています。
こちらも、喜びに満たされた気分になります。
この日記を読んで、ますます、ファインダーを
通してみる、mumuさんの世界はきらきらして
広いから、だから、こんなに素敵なんだー!
と、感心してしまいました。
今日は、私は、ちょっと家族に対する思いやりに
欠けていました....
ここのところ、気分の悪い気持ちですごしていたから
でしょう、無思慮な言葉は、無思慮な脳みそから
でるんだなーって、思います。
もーねー、無思慮って言うより、脳内停止してるとしか思えませんよ(ため息)
家族に対してだって、言っていいことと悪いことが
ありますよね。
私も
うわさ話をしたり、人の事に手出ししたりする者となって、[話す]べきでないことを話します
になりたくないとは、常々思うのですが....
もしかしたら、そんな部分もあるかもね(TT)
mumuさん、さわやかにしてくれてありがとう^^
大変恐縮です。
美しいものを見る喜びは大変大きいですよね~。
でもおいらの場合は心が汚いから綺麗なものに憧れているのだと思います。
インターネットというのは何でも綺麗に見えますし、汚い人間的な部分を隠すことが出来る「華燭」&「偽色」の世界です。
リアルな生活を見ると幻滅されると思いますよ。
理想のことを書きまくっていますが、実際に人間というのは理想と現実というのは全く違うものです。
おいらはchomemaroさんのように正直じゃないので自分に不利になることはこのブログには書いていないんです。
実際の生活のおいらは酷いことばかりしてます。
おいらは「無思慮な言葉」でも言葉を交わすということはある程度その人のことを気に掛けていることの表れだと思うわけです。
おいらの場合は無視ですからな........
人間が最もしてはいけない事をしているわけです。
まあ本文で書いている「出来ること」をするために仕方が無くしているんですけどね。
「悪い交わり」とまでは言いませんが、益にならない話は極力しないようにしているんです。
よって無視する人の方が多いんですよ。
このことは記事にしようと考えていたんです。