扇風機の羽の真ん中をおさえるひねくれ者の日記

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JW1.5世の自分が生きてるのを不思議に思う、ひねくれ者の日記です。

Mind Darkness No.38 2009.06.11

2009-06-11 23:55:55 | Depression,Melancholy & Thought
おいら自身の健康は回復傾向にあります................................

自己の整合性がとれるようになってきたことにより鬱病が影を潜めるようになってきました。
これだけPositiveな思考になれるとは思いもしない時期が長いこと続きました。
自分の行動に価値があることを認識できるように無理に行ってきたことが効果を発揮してきています。
おいらはそもそも価値がないという思考には余り変わりはありませんけどね。

おいらが起こしたActionによって人が喜んで貰っているのを直に見るというのは本当に効果があります。
空回りが多かったんですよ。
これは本当に痛感します。
余計なことを考えて悩み人がそこまで考えていないだろうということまで深刻に考えて生きてきました。
しかし人の必要というのは意外と浅い所を満たせば満足して貰えるのだと理解できるんですよね。
ちょっとした言葉を掛けることだけでも悩んで何も出来ないよりも比較にならないほどマシだという事実に気づくのに20年程度も掛かってしまいました。
誰も教えてくれないですからね。

特においらは長男で長子です。
一番上というのは何かと不器用で親も初めての子供ですので模索をしながら育てられます。
つまり親も子供のことは解らないんですよ。
親になって初めの子供というのは苦労することが多いのはそのためなのでしょう。
確かに良くできている子供もいますし、一番上が良い成績を残すと下の子は比較されるようになります。
「あの子は良くできた子供なのに、なぜおまえは出来ないのだ」という言葉をDramaの中でも見かけますよね。
でもほとんどは一番上の子の出来というのは良くないと思います。

長子が本領を発揮するのは物事を納得して行えるようになってからでしょう。
何事も納得して因果関係を確認し整合性を取れなければなりません。
特に男の場合は非常に重要だと思います。

もう32になるのに何を書いているのだとか考えていますけどね。
親元で生活しているのですから子供は子供なのですよ。

ところでこの記事で書きたいことがあります。
おいらは20代後半まで親族や知人の死とは無縁な生活をしてきました。
葬式に参加しても他人事な立場で親近感を持つ人が亡くなったことはありませんでした。
確かに中学生の頃にお祖父ちゃんを亡くしていることは事実です。
しかしあの頃というのは親族一同から勘当されていて亡くなるまでの期間にお祖父ちゃんの容態を把握することも出来ないで一度しか会えなくて亡くなりました。
喪失感を感じるような状態ではなかったんですよね。
それとおいらが鬱病になってからは死ぬことに対しての見方が随分と変わりました。
他人が亡くなるというのは鬱病で自死を願いながら生きている人間にとっては苦痛でしかなかったのです。

知人で亡くなる人が出そうです。

一昨年に亡くなった方は知人の親だったんですけどね。
良く会っていたとは言えない人でした。
それでもその家族にとっての喪失感というのは如何ばかりだろうと考えながら告別式に参加しました。
死ぬということに対して、特に自分が死ぬことをずっと考えてきて「他の人が死ぬ」という事実が発生するというのは不思議なことです。
願いながら死ねない人間にとっては死ぬ事というのは念願だった訳です。

家族に死というのはおいらはよく考えます。
Bikeに乗る弟君に関しては事故死する可能性が高いでしょう。
それに母上や父上はおいらよりも早く亡くなると思われます。
親よりも長生きすることが親孝行だと世間一般ではいわれています。
聖書にも親を敬うことが書かれていますし、特においらはそうするべき人間です。
散々迷惑を掛けてきましたからな。
おいらにとって死ぬことを考え始めてからかれこれ16年程度になります。
人生の半分程度も死にたいと願いながら生きてきたのですから、自分の責任は果たしたと考えても良いぐらいかと個人的に思っています。
おいらが高校生の頃に考えていたのは成人前後に人を助けて死ぬというScenarioが出来ていたんですな。
高校を卒業しても自分のやりたいことも出来ないならば死んだ方がマシだと思っていました。
他人が決めたRailを走っている頃はなぜそのような場面が出てこないのかと常に考えていました。
でも人間というのはそう言う場に出くわすことって余りないようです。
このBlogでも何度か書きました。
此方に引っ越してきてからは自分の家にいるという意識はありません。
ずっと外泊しているという感覚で安心感や安堵感が無いんですよ。
仕方が無く生きているという生活というのは苦痛でしかありませんからな。

病死すると決まっているのであれば自決した方が良いという美意識があります。
老いて死するよりも心身ともに充実している時に自決するという美意識は日本人独特のモノなのでしょうか。
いきることにしがみつくような「生」は醜いと見ています。
おいら自身は自分は死んだモノだと割り切って生きています。
よってある程度の屈辱にも耐えられてきたのでしょう。
生きることと言うのは単純なことではありません。
それに加えて死ぬことは更に複雑なことになります。

生命活動のある個体としての人間が構築する人間網というのはInternetが普及しているNet網がDownするような単純なモノではありません。
InternetがDownする際には代替品というのがありますし、故障すれば直したり補えば良いだけの話です。
しかし人間が亡くなるということはSynapseのように複雑に繋がっている関係が周りを巻き込んで消滅することを意味しています。
ただ単に故障したりDownしても取り返しが付かない事態になる社会ですが、人が亡くなるということはもっと人々に対してのDamageが大きいことを意味しているのでしょう。
その人を中心に構築されていた社会が消えることを示していますからね。
脇役だろうと、目立たない人間であろうと、社会的に価値がない人間であろうと社会というのが構築されるのが人間たる由縁です。
おいらも願ってもいないのに知人が生まれ、話し掛けてくださる奇特な方も居ます。
おいらでさえ微々たる社会を構築できているのですから、人は誰しも多少なりとも社会を構築して居るんですな。
例え目立たなくて役に立っていないような人間でも、その人が居るからこそ横の繋がりが維持出来ていたモノが消滅してしまうことも少なくないでしょう。
人間というのは一人でもかなりの社会を構築しているモノなのだと自分を客観的に見て理解できています。
このようなBlogだけでも社会が構築されていますし、顔を知らなくても読んだり読まれたりして居るんですな。
十分に社会が出来ているといっても良いでしょう。

人間と死の関係は現在、絶対的なモノです。
つまり産まれたならば死ななければなりません。
「生きているモノは死ぬことを知っている」のです。
これは不思議なモノで何も解らない赤ちゃんでさえ知っているということが解っています。
例えば断崖絶壁にハイハイする赤ちゃんを置くと断崖絶壁を避けるという結果もあるんですよ。
人が死ぬということを理解できるはずもない赤ちゃんでさえ死ぬ危険を避けるようなのです。
これは極端な例ですけどね。
確かに何も知らなくて死ぬ赤ちゃんは沢山います。
しかし総じて人間というのは死ぬ危険から離れているモノなんですな。

日本人の自決というのは独特な価値観だというのは外国人の日本人感を見ると一発で解るのかも知れません。
「知人の死」という切っ掛けで何度か死に対して書いてきましたが、また書くことになるでしょう。
明日お見舞いでも行こうと思います。

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