人を見ていると感じるのです.................................
おいらは人と交わる基準があります。
これはその人の傾向を見て交わるかどうかを決めてきました。
多くの人は自分自身の過去を美化し良いモノとしか認識していません。
しかし害を被ってきた人間からするとどうしても昔から示してきた傾向を加味して決めるべきだとおいらは考えています。
おいらの行動には何らかの理由があると言うことですな。
それなのに目先のことだけで物事を判断しようとする人からするとおいらの行動の基準が間違いであると映ることが多いようです。
あるご夫婦と距離を取っているんですが、おいらがこのBlogに書いた方です。
そのご夫妻はもちろんクリスチャンなのですが、おいらと同級の娘さんがいます。
この娘さんが居ることは目の敵のようにおいらの家族でも特においらと妹たちをひがむかのように苦情を言ってきました。
それもさんざん言いたい放題言ってきたんですな。
確かにおいらにも落ち度があったでしょうけどね。
この方達の娘さんよりは当時はマシだったと言い切れます。
多少はまともな生活をしていましたし、何よりクリスチャンとして忙しくしていてより高い見解を維持できていたからです。
でも歪んだ目から見るとおいらが得ていた立場とか行状が鼻についたのでしょうね。
かなり言いがかりを付けてくることが多かったわけです。
おいらの両親は非常に冷静な方達ですし、耐える事に長けている方達なので黙って一方的に言われると言うことが多いんですな。
おいらや妹君、そしておいらの両親が何度謝罪したか解りません。
もとより彼らの言いがかりというのは彼らの被害者妄想が発端なのですから、おいらの家族が謝罪する必要など全くなかったと言っても良いぐらいだとちょっと考えると解ります。
今でこそこのようなちょっと見方を考えると解るようなことを深刻な事態として受け止めて直そうとしてきたことには「僭越さ」さえ感じますな。
今考えると本当に良くわかります。
人というのは変わろうと思ってもそう簡単には変われません。
それに人にどうこう言われるから変わるというのは動機が悪いといえるでしょう。
真に人が変わりたいと考える動機としてもっとも相応しいモノとしては
「神様に喜んでもらいたい」
「神様に是認してもらいたい」
と言った動機がもっとも強く恒久的な影響を与えうると言い切れるでしょう。
おいらはその血統を純粋に受け継いでいて我慢しなければならないと常々考えてきましたが、どうやらそうでもないようです。
ある程度の結果が伴うとそれを基に論理的に思考を展開して結論を出すべきでしょう。
そして物事を判断していくべきなのです。
ただただ耐える事というのは苦痛でしかありません。
よってただ甘んじるのではなく良くする努力というのは必要なんですな。
結果的に言いたいことを言う方がストレートに伝わりますし、短い時間で済みます。
しかしおいらの場合は此が言葉が足らなすぎる事が多いんですよね。
「起承転結」の相手が「起」しか解っていない状態で「結」を言ってしまうことって良くあるんですよ。
でもおいらのような思考というのはおいら自身にしか解りません。
おいらがこのように感じたのだから他の人も少なくとも「このように感じているべきだ」と考えてしまうというのはあまりに安直すぎる愚かな思考だと解りました。
というかこのように書くと語弊があるかもしれませんね。
おいらの中の思考で書いてみましょうかね。
一番劣等なおいらでさえこのように感じるのだからおいらよりも立場の高い全ての人が「当然のように感じるはずだ」と考えるんですな。
まあそのようなわけで見えるところでしか量らないこのご夫婦からは何の益も得られないとおいら自身考えています。
これぐらいの考えでないとおいらの場合は苦痛が伴いますからね~。
仕方がないんですよ。
んで今日は「文書係」のところで雑誌の仕事をされていたところにおいらがCDのキャンセルを言いに行った際に敵愾心を顔に出されたのですがね。
こんな深い理由も知らない彼らは自分たちが示してきた傾向から交わりを判断されているとは考えられないのでしょう。
この記事を読むと「人を裁いている」記事にしか見えませんね~。
しかし自分を除け者にするにはこれぐらいの思考がもっとも良い具合だと思うわけです。
それにこれはおいらの自分自身に対する裁きという意味の方が強い傾向にあります。
持ち上げてもらいたいのであれば持ち上げてもらえる人間と交われば良いんですよ。
でもおいらの家族を巻き込まないでいただきたいとよく考えます。
おいらの家族はおもてなし上手で褒め上手ですからね。
当然ながら形式的な褒め言葉なんてしませんし、適切に物事を判断して言葉を掛けるわけですけどね。
「有益な交わり」を追求していきたいモノです。
おいらは人と交わる基準があります。
これはその人の傾向を見て交わるかどうかを決めてきました。
多くの人は自分自身の過去を美化し良いモノとしか認識していません。
しかし害を被ってきた人間からするとどうしても昔から示してきた傾向を加味して決めるべきだとおいらは考えています。
おいらの行動には何らかの理由があると言うことですな。
それなのに目先のことだけで物事を判断しようとする人からするとおいらの行動の基準が間違いであると映ることが多いようです。
あるご夫婦と距離を取っているんですが、おいらがこのBlogに書いた方です。
そのご夫妻はもちろんクリスチャンなのですが、おいらと同級の娘さんがいます。
この娘さんが居ることは目の敵のようにおいらの家族でも特においらと妹たちをひがむかのように苦情を言ってきました。
それもさんざん言いたい放題言ってきたんですな。
確かにおいらにも落ち度があったでしょうけどね。
この方達の娘さんよりは当時はマシだったと言い切れます。
多少はまともな生活をしていましたし、何よりクリスチャンとして忙しくしていてより高い見解を維持できていたからです。
でも歪んだ目から見るとおいらが得ていた立場とか行状が鼻についたのでしょうね。
かなり言いがかりを付けてくることが多かったわけです。
おいらの両親は非常に冷静な方達ですし、耐える事に長けている方達なので黙って一方的に言われると言うことが多いんですな。
おいらや妹君、そしておいらの両親が何度謝罪したか解りません。
もとより彼らの言いがかりというのは彼らの被害者妄想が発端なのですから、おいらの家族が謝罪する必要など全くなかったと言っても良いぐらいだとちょっと考えると解ります。
今でこそこのようなちょっと見方を考えると解るようなことを深刻な事態として受け止めて直そうとしてきたことには「僭越さ」さえ感じますな。
今考えると本当に良くわかります。
人というのは変わろうと思ってもそう簡単には変われません。
それに人にどうこう言われるから変わるというのは動機が悪いといえるでしょう。
真に人が変わりたいと考える動機としてもっとも相応しいモノとしては
「神様に喜んでもらいたい」
「神様に是認してもらいたい」
と言った動機がもっとも強く恒久的な影響を与えうると言い切れるでしょう。
おいらはその血統を純粋に受け継いでいて我慢しなければならないと常々考えてきましたが、どうやらそうでもないようです。
ある程度の結果が伴うとそれを基に論理的に思考を展開して結論を出すべきでしょう。
そして物事を判断していくべきなのです。
ただただ耐える事というのは苦痛でしかありません。
よってただ甘んじるのではなく良くする努力というのは必要なんですな。
結果的に言いたいことを言う方がストレートに伝わりますし、短い時間で済みます。
しかしおいらの場合は此が言葉が足らなすぎる事が多いんですよね。
「起承転結」の相手が「起」しか解っていない状態で「結」を言ってしまうことって良くあるんですよ。
でもおいらのような思考というのはおいら自身にしか解りません。
おいらがこのように感じたのだから他の人も少なくとも「このように感じているべきだ」と考えてしまうというのはあまりに安直すぎる愚かな思考だと解りました。
というかこのように書くと語弊があるかもしれませんね。
おいらの中の思考で書いてみましょうかね。
一番劣等なおいらでさえこのように感じるのだからおいらよりも立場の高い全ての人が「当然のように感じるはずだ」と考えるんですな。
まあそのようなわけで見えるところでしか量らないこのご夫婦からは何の益も得られないとおいら自身考えています。
これぐらいの考えでないとおいらの場合は苦痛が伴いますからね~。
仕方がないんですよ。
んで今日は「文書係」のところで雑誌の仕事をされていたところにおいらがCDのキャンセルを言いに行った際に敵愾心を顔に出されたのですがね。
こんな深い理由も知らない彼らは自分たちが示してきた傾向から交わりを判断されているとは考えられないのでしょう。
この記事を読むと「人を裁いている」記事にしか見えませんね~。
しかし自分を除け者にするにはこれぐらいの思考がもっとも良い具合だと思うわけです。
それにこれはおいらの自分自身に対する裁きという意味の方が強い傾向にあります。
持ち上げてもらいたいのであれば持ち上げてもらえる人間と交われば良いんですよ。
でもおいらの家族を巻き込まないでいただきたいとよく考えます。
おいらの家族はおもてなし上手で褒め上手ですからね。
当然ながら形式的な褒め言葉なんてしませんし、適切に物事を判断して言葉を掛けるわけですけどね。
「有益な交わり」を追求していきたいモノです。