扇風機の羽の真ん中をおさえるひねくれ者の日記

思うままに....
感じるままに....
JW1.5世の自分が生きてるのを不思議に思う、ひねくれ者の日記です。

文具の魅力 その45 2008.03.24

2008-03-24 23:37:41 | Stationery & Supply
今日は「趣味の文具箱」のVol.10がAmazonから届きました.............

今回の特集で

「書く」を愛しむ

という一連の記事が書かれていたのですが、概ねのところでおいらが過去に書き綴ってきたことと同じように感じている人がいるという事が凄く嬉しかったですな。
よって今回はおいらもまた「書く」という動作に関して書こうと思います。

人間の衝動的な部分に「感情表現」というモノがあります。
これは掛け値なくあるがままの状態でも湧いてくるのですから衝動的だと言えるでしょう。
そして自分自身の感情を知って欲しいと思った昔の人の自己表現の一般的なモノが書くという行為だと言えるでしょう。

しかしこれはエゴイズムの一つで自分の主観からでしか見られていない表現方法と言えるかも知れません。
どうして人は字を書くのかに関しての興味深い資料があります。
それはクリスチャンが事ごとに日々研究している「聖書」にあるんですな。
まず書くという行為で最も重要な命令が神から発せられたのです。

Jehovahは続いてモーセに言われた「あなたのためにこれらの言葉を記しなさい。」

ー出エジプト34:27

神はモーセに命じた事がモーセの為になると言われていていますよね。
聖書を読んでいると解るのですが、聖書というのは神様が人の為を思って記された言葉に他なりません。
そして神の言葉を秘書役である人間が書き記すように命令されたんですな。
つまり書くという行為が神からの命令により肯定されていると言うことは明確で、良い研究や文書などを学び書き写すことからも益が得られると言うことは必然だと言っても過言ではないでしょう。
これは繰り返しになりますが、聖書全体が書き記された理由からも明確です。
聖書の神はほかの神には見られない具体的な人間の創造方法も書き記すようにされましたし、人間のあり方も書かれているのです。
モノの扱い方法というのは設計者や実際に作った人が最も詳しいことは明白です。
これと同様で人間を作ら(創造さ)れた神様が聖書に書かれた人間の扱い方法というのは反論の余地の無いぐらいに完璧なんですな。
神様が人の益となることとして「書く」と言う動作を肯定されているのですから、書くことは疑う余地のない有益な習慣なんですな。

これが現在の社会では機会が少なくなり、全てが一律のFontでしか見ることが出来なくなってきているんですな。
今の社会がこの事態には危機感を感じなければならないんですよ。
書くという文化を廃れさせてはなりません。
自らの字を書く機会をわざと減らせている事は「Identityの放棄」だと言っても良いぐらいなんですよ。
いつの時代も人というのは自分の字の特性というのを覚えていますし、字を練習して綺麗になっても過去の自分の字というのは親近感を覚えるモノです。
親近感という言葉でも少し遠いでしょうな。
過去の自分自身ですので「自己のIdentity」との対話であり、自分の過去からの手紙を見ているんですよ。
時にComputerで打った文書でもこの感覚を味わえますが、忘れている文書やBlogなどのDataであるならばFontという絶対的な溝を介してでしか文字としてみることが出来ないのです。
よって自分で書いたはずなのに書いた事への「疎外感」がどうしても発生してしまいます。
手書きの字からはこの溝というのが無くなるような気がしてなりません。
これは自分の字ではなくほかの人の字でもなぜか同様に感じるんですよね~。
手書きの字の魅力というのは人間的な手の感覚で書くことを意味していますよね。
有機的なモノを介したモノというのは無機質のモノから出てきたモノよりも親近感を感じるのは人として自然なことなのだと考えています。

手書きの字というのは人の手の感触なり感情なりが字を通じて伝わってくる媒介なんですよ。
つまり挨拶の握手をして、その後に字を介してと会話しているようなモノです。
手紙というのは一方的な論理になることが時にあります。
しかし無機質な字から伝わってくるような違和感が無く、とげとげしさも字によって緩和されたり、書き手も書く際にも言葉を選んで書くことから読み手の感情や知識量、知恵を考慮して書くのですから人のことを思いに留めている点でありがたいと感じるはずだとおいらは解釈しています。
確かに腹の立つ事ってありますよ。
でも時間を取って書いてくれていることを思うとぞんざいには扱えないとも思います。
芸能人の場合はファンレターなどが多いでしょうし、全ての手紙を読めないでしょうけどね。
生憎おいらは人からは気にとめて貰うような価値もない人間ですが、たまに人の為に行動したときに感謝の言葉が記された手紙を頂くことがあります。
おいらはこれらの手紙などをScrap Bookにコレクトして時折読み直したりしています。

ホントはもっとおいらが悪い点や改善するべき点などを記されたモノ等の意見が欲しいと正直思っています。
おいらはこのBlogを読んで頂くと解ると思うのですが、頭の出来が良くありませんので改善するべき点は全てのエントリーで見られるはずです。
自分の気付いていない所で人を傷つけていると考えると恐くなることもありますけどね。
でもおいらも一応は一生命体で有機的活動、人間的思考活動が可能な霊長類で、聖書を学ぶ一応は「クリスチャン」という分野に属するひねくれ人間です。
つっこみどころが満載で全てのことには対応することも不可能です。
でもこころの内ではつねに改善したいと願っています。

話がずれてきましたな。
とにかく今回の記事で言いたいことはシンプルなんですよ。
「書く」という行為は聖書の神様からは肯定されている動作なのだと言うことを知って貰いたいだけなんですけどね。
興味があれば聖書を調べられて下さい。
ではでは



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