自分自身の気持ちなどを整理するためには重要な段階に来ています......................................
自分自身を信じることというのはわたしにとってかなり難しく、とても挑戦となることです。
しかしどうも他の人よりも「解」の出し方が早くSimpleに終結させることが出来るようです。
よって多少は自分自身を信じても良いのだと思えるようになって来ました。
他の人が最善の方法を知らず、回りくどい方法を見ているのは耐えられない状況というのが多かったんですね。
そして例えわたしが提案したとしても受け入れてもらえないという事実を受け入れるのにとても時間を要しました。
ただ
「黙って見守る」
ということが如何に辛いことか、如何に苦痛を伴うものかを当の本人には解ってもらえないということが少なくないんです。
わたしの書き方では「美しくない」方法でしか物事をおこなっていない人達と付き合うには努力が求められました。
そしてわかったことがあります。
気持ちを揺さぶられることなく有りの侭を受け入れればいいのだということに
受け入れるだけでいいというのは語弊がありますね。
受け入れるのに時間がかかったのですから。
自分自身の事を優先的に行なっていけば他人のことは目に入らなくなるので自分のことを第一にして、自分のことを優先して行なっていくことが楽なのだともわかります。
妹君たちが言うには「自己中心的にして丁度良いぐらいになる」というCommentを頂いたこともこのBlogで書きましたね。
金の使い方に関しても同様です。
「お金」と「時間」は直接的につながっているというのは明白で、両方共に有限です。
「時間」というのは人の「活動力」と「知識」や「知恵」と「制約力」などもあります。
そしてお金というのは時間から生まれますよね。
ただ時間を浪費するのは建設的ではありません。
現在は建設的でない時間が大変多い状態なので、これらの時間を用いて建設的な活動を出来ないかと今日は初めて考え始めました。
Steve Jobsが拘ったように時間は有限であるということを認識して生きている人がどれほどいるでしょうか?
人が生きている時間というのは生きている人間からするとまだまだ「限りなく有る」と考えている人が多いはずです。
わたしもその一人でした。
ただわたしの場合は「20歳までで死ぬだろう」と勝手に考えていて、それ以上生きていても意味が無いと考えていました。
所謂ところの「余生」を今生きているんですね。
余生なのですから何をしてもいいのかというとそういうわけではありませんでした。
仕事をすることを求められました。
わたしが計画的に物事を考えているのに、論理的に考えない人達によって生活を蹂躙されて、それを受け入れて生きてきました。
それがわたしにとってとても
屈辱的
だったのだと今振り返るとわかります。
多くのモノを失った原因は私自身の選択には間違いないのですがね。
わたしがそれをChoiceすることはないものを選ばされることが多く、わたしが同意したくなくても言われると
「それに従わなければならない」
という規則を自分が作ってしまっていたのです。
「自分以外の全ての人間が正しい」
と信じて疑わなかった自分が恥ずかしいですね。
自分が多くのモノを失ったとしても、それは自分が辿ってきた自分が悪いのだとわかりました。
この区切りを付けているところです。
気持ち的に区切りをつけるにはまだ暫く掛かりますが、それでも建設的な生き方をしたいと願ってやまない性格です。
わたしが多くのモノを犠牲にしてきたことも誰も解ってくれないでしょう。
最近になって妹達が家族の中でのわたしの立場について「大変な位置に居るね~」と言ってくれるようになりました。
彼女たちが言うには「最近やっと解ったことだ」とも言っていたので、それまでは気が付かなかったのでしょう。
そして学生の頃の気持ちも思い出すようになりました。
学生の頃は周りはChristianではない人間ばかりで、神についての知識を持っているというだけで自分自身を誇ることができていたように感じます。
自分が優れているのではなく、神についての知識を持っているという事実がどれほどわたしを周りから際立たせていたのか、あの頃の写真を見ると表情に出ているんですよね。
わたしが所属していた学科は不良が集まることで有名な学科でした。
そのことも知らずにわたしは関西の方から此方に受験に来て受かり、その学科に所属するようになりました。
不良が集まっているということは一日も経たずに理解できました。
しかし卒業の際に校長がわたしが所属している学科が「近年稀に見る良いクラスだった」と言うCommentを卒業式の際に言ってくださいました。
このような書き方は語弊があるのかもしれませんが、良いクラスにしたのはわたしです。
これは明確で自負できます。
今のわたしだからこそ言い切れるのです。
そしてChristianの集まりを良いモノにしていたのだということも解るようになりました。
わたしが居るからこそ良い循環を生んでいたというのも確信できます。
自分が多くのモノを自己犠牲的に投資して来ましたし、無私で私自身を与え続けてきたというのも間違いはありません。
これは言い切れますね。
擦り切れ、消耗し、中がスッカラカンになるほどに自分を投資してきたのは間違いありませんからね。
家族に対してもそうですし、わたしに近しい人達全てに対しても同様です。
特に苦しいのは家族がわたしに対して理解をしないことが大きいようです。
自分を与える優先順位では最も最初に来る家族には多くのモノを与えてきました。
特に家族が下した「美しくない」決定に従い、わたしが想像したとおりの方向に行くのは非常に大きな苦痛を伴いました。
最近になってやっと家族が下した決定に従わなくても良いという考え方ができるようになり、これは他人にも適応されるということも出来るようになりました。
多くのモノを犠牲にして多くのモノを与えてきたわたしにとっては3重苦や4重苦となっていることが少なくありません。
多くを与えた上に多くの苦しみを増し加えられるというのは出ていく一方だったんですね。
蓄えることが出来ずに出ていく一方の労力があり、更に求められている物事が非常に多く感じていました。
多くを出し続けていくには
「自分が始末すれば良い」=「我慢しその分を他人に費やせば良い」
と考えてきました。
楽しく与えて、楽しく費やせればどれほど良かったのでしょうね。
全てがSystemの中に組み込まれて能動的ではなく受動的な人間に与え続けてきました。
受動的な人間というのは
「口を開けて待っている小鳥」
のようです。
自分からは何も生み出そうとしませんし、生み出したとしてもそれは多くを与えて貰い生み出された余力によって生み出すしか出来ないと言えます。
人間が一人前になれるのは真似るようになって、そこから改善させていく様になってやっと一人前です。
普通と言われる人間は真似から入って、ほぼ完璧にコピーできるようになり、そこから自分の方法を編み出す人間です。
一流はただ単に模倣するだけではありません。
自分の方法をさらに発展させ、自分の技術によって改善し、改革し、革新にまで持っていける人です。
ただ単に口を開けて待っている人間にはここまでは出来ないでしょう。
まず自分で食べ物を自分の口に持ってこれるようにならなければなりません。
自分で食べられるようになって初めて普通の人間に成れます。
ここからさらに一段上の一人前にならなければなりません。
まあ、わたしもここなんですけどね。
原因はBottom Neckがたくさんあったということでしょうか。
それを取り除くところからはじめなければならなかったんですな。
今いるのは取り除くことが出来るようになってきたということでしょうか。
これから成長していくのは自分次第です。
努力を怠ることなく生きていきたいものですね。
自分自身を信じることというのはわたしにとってかなり難しく、とても挑戦となることです。
しかしどうも他の人よりも「解」の出し方が早くSimpleに終結させることが出来るようです。
よって多少は自分自身を信じても良いのだと思えるようになって来ました。
他の人が最善の方法を知らず、回りくどい方法を見ているのは耐えられない状況というのが多かったんですね。
そして例えわたしが提案したとしても受け入れてもらえないという事実を受け入れるのにとても時間を要しました。
ただ
「黙って見守る」
ということが如何に辛いことか、如何に苦痛を伴うものかを当の本人には解ってもらえないということが少なくないんです。
わたしの書き方では「美しくない」方法でしか物事をおこなっていない人達と付き合うには努力が求められました。
そしてわかったことがあります。
気持ちを揺さぶられることなく有りの侭を受け入れればいいのだということに
受け入れるだけでいいというのは語弊がありますね。
受け入れるのに時間がかかったのですから。
自分自身の事を優先的に行なっていけば他人のことは目に入らなくなるので自分のことを第一にして、自分のことを優先して行なっていくことが楽なのだともわかります。
妹君たちが言うには「自己中心的にして丁度良いぐらいになる」というCommentを頂いたこともこのBlogで書きましたね。
金の使い方に関しても同様です。
「お金」と「時間」は直接的につながっているというのは明白で、両方共に有限です。
「時間」というのは人の「活動力」と「知識」や「知恵」と「制約力」などもあります。
そしてお金というのは時間から生まれますよね。
ただ時間を浪費するのは建設的ではありません。
現在は建設的でない時間が大変多い状態なので、これらの時間を用いて建設的な活動を出来ないかと今日は初めて考え始めました。
Steve Jobsが拘ったように時間は有限であるということを認識して生きている人がどれほどいるでしょうか?
人が生きている時間というのは生きている人間からするとまだまだ「限りなく有る」と考えている人が多いはずです。
わたしもその一人でした。
ただわたしの場合は「20歳までで死ぬだろう」と勝手に考えていて、それ以上生きていても意味が無いと考えていました。
所謂ところの「余生」を今生きているんですね。
余生なのですから何をしてもいいのかというとそういうわけではありませんでした。
仕事をすることを求められました。
わたしが計画的に物事を考えているのに、論理的に考えない人達によって生活を蹂躙されて、それを受け入れて生きてきました。
それがわたしにとってとても
屈辱的
だったのだと今振り返るとわかります。
多くのモノを失った原因は私自身の選択には間違いないのですがね。
わたしがそれをChoiceすることはないものを選ばされることが多く、わたしが同意したくなくても言われると
「それに従わなければならない」
という規則を自分が作ってしまっていたのです。
「自分以外の全ての人間が正しい」
と信じて疑わなかった自分が恥ずかしいですね。
自分が多くのモノを失ったとしても、それは自分が辿ってきた自分が悪いのだとわかりました。
この区切りを付けているところです。
気持ち的に区切りをつけるにはまだ暫く掛かりますが、それでも建設的な生き方をしたいと願ってやまない性格です。
わたしが多くのモノを犠牲にしてきたことも誰も解ってくれないでしょう。
最近になって妹達が家族の中でのわたしの立場について「大変な位置に居るね~」と言ってくれるようになりました。
彼女たちが言うには「最近やっと解ったことだ」とも言っていたので、それまでは気が付かなかったのでしょう。
そして学生の頃の気持ちも思い出すようになりました。
学生の頃は周りはChristianではない人間ばかりで、神についての知識を持っているというだけで自分自身を誇ることができていたように感じます。
自分が優れているのではなく、神についての知識を持っているという事実がどれほどわたしを周りから際立たせていたのか、あの頃の写真を見ると表情に出ているんですよね。
わたしが所属していた学科は不良が集まることで有名な学科でした。
そのことも知らずにわたしは関西の方から此方に受験に来て受かり、その学科に所属するようになりました。
不良が集まっているということは一日も経たずに理解できました。
しかし卒業の際に校長がわたしが所属している学科が「近年稀に見る良いクラスだった」と言うCommentを卒業式の際に言ってくださいました。
このような書き方は語弊があるのかもしれませんが、良いクラスにしたのはわたしです。
これは明確で自負できます。
今のわたしだからこそ言い切れるのです。
そしてChristianの集まりを良いモノにしていたのだということも解るようになりました。
わたしが居るからこそ良い循環を生んでいたというのも確信できます。
自分が多くのモノを自己犠牲的に投資して来ましたし、無私で私自身を与え続けてきたというのも間違いはありません。
これは言い切れますね。
擦り切れ、消耗し、中がスッカラカンになるほどに自分を投資してきたのは間違いありませんからね。
家族に対してもそうですし、わたしに近しい人達全てに対しても同様です。
特に苦しいのは家族がわたしに対して理解をしないことが大きいようです。
自分を与える優先順位では最も最初に来る家族には多くのモノを与えてきました。
特に家族が下した「美しくない」決定に従い、わたしが想像したとおりの方向に行くのは非常に大きな苦痛を伴いました。
最近になってやっと家族が下した決定に従わなくても良いという考え方ができるようになり、これは他人にも適応されるということも出来るようになりました。
多くのモノを犠牲にして多くのモノを与えてきたわたしにとっては3重苦や4重苦となっていることが少なくありません。
多くを与えた上に多くの苦しみを増し加えられるというのは出ていく一方だったんですね。
蓄えることが出来ずに出ていく一方の労力があり、更に求められている物事が非常に多く感じていました。
多くを出し続けていくには
「自分が始末すれば良い」=「我慢しその分を他人に費やせば良い」
と考えてきました。
楽しく与えて、楽しく費やせればどれほど良かったのでしょうね。
全てがSystemの中に組み込まれて能動的ではなく受動的な人間に与え続けてきました。
受動的な人間というのは
「口を開けて待っている小鳥」
のようです。
自分からは何も生み出そうとしませんし、生み出したとしてもそれは多くを与えて貰い生み出された余力によって生み出すしか出来ないと言えます。
人間が一人前になれるのは真似るようになって、そこから改善させていく様になってやっと一人前です。
普通と言われる人間は真似から入って、ほぼ完璧にコピーできるようになり、そこから自分の方法を編み出す人間です。
一流はただ単に模倣するだけではありません。
自分の方法をさらに発展させ、自分の技術によって改善し、改革し、革新にまで持っていける人です。
ただ単に口を開けて待っている人間にはここまでは出来ないでしょう。
まず自分で食べ物を自分の口に持ってこれるようにならなければなりません。
自分で食べられるようになって初めて普通の人間に成れます。
ここからさらに一段上の一人前にならなければなりません。
まあ、わたしもここなんですけどね。
原因はBottom Neckがたくさんあったということでしょうか。
それを取り除くところからはじめなければならなかったんですな。
今いるのは取り除くことが出来るようになってきたということでしょうか。
これから成長していくのは自分次第です。
努力を怠ることなく生きていきたいものですね。