おいらは感情の中で「狂おしいほど愛しい」という気持ちを無くしていると考えていました.........
しかし昨年の11月に高校の文化祭に行った際にノスタルジーの中にこそ存在しているんだという事に気がつきました。
今はこのような感情というは湧いてくることがありません。
ただただ死に向かって生きているのだという考え方から脱却しない限り出来ないでしょうしね。
生きていることの大切な要素として欲求だけを満たす事では満たされることがない事も理解しなければならないでしょう。
欲求というのはある種の「渇き」です。
そしてそれがある程度は満たされないとその渇きはおさまることがありません。
逆に取り敢えずその場だけ乗り切るための処置というのは、逆にその渇きを促進させ悪化させることがあります。
しかし欲求というのは「理想の塊」であり、理想と現実の違いを理解しなければならないことは書くまでもないでしょう。
理想と現実を踏まえた上で本当に必要かどうかを吟味し欲するのであれば、その渇きは本物です。
その渇きを満たさないと言うことは欲求不満が出てきて、抑圧されるなどのストレスが発生します。
でもそのような欲求不満をずっと味わった上で達成される欲求というのは喜びもひとしおでしょう。
このような状況で得る達成感というのは簡単に手に入れることが出来た時よりも何倍も、ないし数百倍うれしいはずです。
「狂おしいほど愛しい」という題で書いてますよね~。
先日の2007.05.21に放送された「プロポーズ大作戦」というドラマの中を見ていると二人の関係が痛いほどOverLapして辛い状態でした。
というか現在のおいらの状態がかなり悪いのでいっそう辛く感じているのかも知れません。
「異性を好きになる」というのは当たり前のことであり、それを否定するような発言や行動を取ることには責任が伴います。
人として普通のことも出来ないというのは問題があります。
恋愛というのは単純なモノではなく、狂おしいほど愛しい存在というのを生み出します。
これは「盲目的な愛」になる場合が多いのですが、客観的に見てその感情を理解しているのであれば十分に恋愛する権利というのは発生します。
しかし局地的な盛り上がりで、自分のピーク時に結婚することの愚かさを感じるわけです。
確かにそのときは格好いいのかも知れず、かわいいとか美人なのかも知れません。
でも結婚生活というのはその後もというよりは半生以上を共にするわけです。
普通の生活の中での自分を見せずに良いところだけ見せるならば、「こんなはずじゃなかった」と思うのも当たり前です。
一時的なピーク時に乗ってくる方は良いところしか見ていないわけでそんな人を信用する方が問題があるでしょう。
よって迂闊に言葉を発することの愚かさを感じるわけです。
幼なじみという人がおいらにはいません。
住んでいる地域には高校入学の際に来たものですからね~。
おいらには保育所、小学校、中学校と一緒に入った子が15人ぐらいいました。
これらの子たちとは男女問わずクリスチャンになる前は仲良くやっていました。
しかし極端な考え方をする人たちによっておいらの日常は損なわれ、友達というモノを消去することを求められてきました。
確かに「悪い交わりは良い習慣を損ない」ます。
でもどう考えても悪い交わりにはなっていないことは明白でした。
親が決めることというのは絶対正しいことではありません。
そして子供の「見る目」というのは、大人のように先入観がない上に、人を沢山見てきた立場の子供というのは大人よりもシビアな目を持っています。
「遠くの親戚よりも、近くの他人」の方が当てになることも間違いないでしょう。
加えてクリスチャンの子供よりも良い子というのはいることも考慮に入れなければならないでしょう。
クリスチャンの子供というのは正しいことを知っている上でそれを違反することを平気でする子がいます。
そのような子供が裁かれないことは異常事態ですが、クリスチャンの子供だから悪くないということを大人は決めつけ、その庇護のもとで常習的に事を行っていきます。
そのような子を沢山見てきました。
こんな子を見ているとかなりたちが悪い人格になっていきます。
人を唆すような発言や軽んじる言葉を常用したり、他の人の良心を傷つけることを平気でします。
そしてその親はそれをしかるどころか養護し、正当化することに勤めます。
嫌になってくるんですな.......
「こんな事なら行かない方が良いのではないか?」とか考えてしまいます。
また人の行動を制限することもその人の人生を背負うぐらいの責任を伴います。
影響を与えるのですから、ただ単に自分の価値観でしか見ずに自分の主観で物事を見た事で制限するのであれば、それによって被害を被るのであれば賠償責任が伴うことは普通でしょう。
こんな大人に限って自分の主張というのは間違いが無く正しいことを示そうとし続けます。
「子供の方がマシだよ」
というより子供の方が大人のように感じることが多々あります。
子供の社会というのは限定的ですが、同世代が犇めく世の中に入れられて育つのですから、言い訳できないわけです。
そして悪いことは悪いと認めていかなければ受け入れてもらえないことも多いはずです。
それに対して大人の社会というのはちゃんとした規律などによって構築されていかなければワンマンな人間を生み出して上からしかものを見れない状態を生み出します。
こうなれば、最悪です。
少なくとも意見を受け入れる余地を開けておかなければ孤立していく一方ですからね。
ワンマンに振る舞える人間というのは孤独です。
影響力を持っていると誇示する事に必死になり、大切なモノを見失っていきます。
一言で人を見下す発言をする人に意見を書くと
何を抜かしとんねん(怒)
の一言に尽きますな。
逆に意見を受け入れ過ぎる人間というのも問題があります。
こうなれば、個性や自分の価値観を持つことが出来ず他の人の意見に依存するようになっていくんですな。
そして気がつけば自尊心は無く、心には治らない深い傷が刻まれているんですな。
生きていることも罪深く思えてひたすら理由もないのに謝りたくなります。
いじめをされて自殺をする子の遺書に「生きていてごめんなさい」という言葉が残されていることが多いのは自尊心が剥ぎ取られていたからでしょう。
話がこんがらがってきたので元に戻そうと思います。
「狂おしいほど愛おしい」のは人だけではありません。
それは時間もあります。
この時間が止まればいいのにという言葉を良く聞きます。
高校時代には、特に2年後半から卒業するまで考え続けていました。
よって高校の校舎自体にその思いが詰まっているんですな。
「胸キュン」なんて恥ずかしい言葉がありますが、あのときめきを感じることが出来る事って大切だと思うんですよ。
苦しむほど人を愛する事って今のおいらには出来ないとも思うわけです。
まあ高校時代も同じようなモノでしたがね。
今よりはマシだったと思うわけですよ。
んで確実に好きな人が存在した時期があった訳でその事を同じ場所である校舎や高校の敷地内に行った時に忘れていた思い出や感情が湧き上がってきて心に充満していったわけです。
昔のことも悪くはないな~とか感じましたし、過去に拘ってはいけないという感じの記事を書きまくってきましたが、過去を思い出し「古き良き時代」の事を思い出すのも悪くないな~と今頃になって考えるようになりました。
年寄りが昔の事を誇って話したがる理由が少し理解できるようになったという感じでしょうかね。
この記事を書こうと考えたのは少し前に必要ではいられるBの引っ越しを手伝いに行ったのですが、その家がおいらの卒業した高校のかなり近いところだった事とプロポーズ大作戦というドラマと相まって書いたというわけです。
あまり人に見られたくない記事だったので少し時間をずらして投稿する事にしました。
しかし昨年の11月に高校の文化祭に行った際にノスタルジーの中にこそ存在しているんだという事に気がつきました。
今はこのような感情というは湧いてくることがありません。
ただただ死に向かって生きているのだという考え方から脱却しない限り出来ないでしょうしね。
生きていることの大切な要素として欲求だけを満たす事では満たされることがない事も理解しなければならないでしょう。
欲求というのはある種の「渇き」です。
そしてそれがある程度は満たされないとその渇きはおさまることがありません。
逆に取り敢えずその場だけ乗り切るための処置というのは、逆にその渇きを促進させ悪化させることがあります。
しかし欲求というのは「理想の塊」であり、理想と現実の違いを理解しなければならないことは書くまでもないでしょう。
理想と現実を踏まえた上で本当に必要かどうかを吟味し欲するのであれば、その渇きは本物です。
その渇きを満たさないと言うことは欲求不満が出てきて、抑圧されるなどのストレスが発生します。
でもそのような欲求不満をずっと味わった上で達成される欲求というのは喜びもひとしおでしょう。
このような状況で得る達成感というのは簡単に手に入れることが出来た時よりも何倍も、ないし数百倍うれしいはずです。
「狂おしいほど愛しい」という題で書いてますよね~。
先日の2007.05.21に放送された「プロポーズ大作戦」というドラマの中を見ていると二人の関係が痛いほどOverLapして辛い状態でした。
というか現在のおいらの状態がかなり悪いのでいっそう辛く感じているのかも知れません。
「異性を好きになる」というのは当たり前のことであり、それを否定するような発言や行動を取ることには責任が伴います。
人として普通のことも出来ないというのは問題があります。
恋愛というのは単純なモノではなく、狂おしいほど愛しい存在というのを生み出します。
これは「盲目的な愛」になる場合が多いのですが、客観的に見てその感情を理解しているのであれば十分に恋愛する権利というのは発生します。
しかし局地的な盛り上がりで、自分のピーク時に結婚することの愚かさを感じるわけです。
確かにそのときは格好いいのかも知れず、かわいいとか美人なのかも知れません。
でも結婚生活というのはその後もというよりは半生以上を共にするわけです。
普通の生活の中での自分を見せずに良いところだけ見せるならば、「こんなはずじゃなかった」と思うのも当たり前です。
一時的なピーク時に乗ってくる方は良いところしか見ていないわけでそんな人を信用する方が問題があるでしょう。
よって迂闊に言葉を発することの愚かさを感じるわけです。
幼なじみという人がおいらにはいません。
住んでいる地域には高校入学の際に来たものですからね~。
おいらには保育所、小学校、中学校と一緒に入った子が15人ぐらいいました。
これらの子たちとは男女問わずクリスチャンになる前は仲良くやっていました。
しかし極端な考え方をする人たちによっておいらの日常は損なわれ、友達というモノを消去することを求められてきました。
確かに「悪い交わりは良い習慣を損ない」ます。
でもどう考えても悪い交わりにはなっていないことは明白でした。
親が決めることというのは絶対正しいことではありません。
そして子供の「見る目」というのは、大人のように先入観がない上に、人を沢山見てきた立場の子供というのは大人よりもシビアな目を持っています。
「遠くの親戚よりも、近くの他人」の方が当てになることも間違いないでしょう。
加えてクリスチャンの子供よりも良い子というのはいることも考慮に入れなければならないでしょう。
クリスチャンの子供というのは正しいことを知っている上でそれを違反することを平気でする子がいます。
そのような子供が裁かれないことは異常事態ですが、クリスチャンの子供だから悪くないということを大人は決めつけ、その庇護のもとで常習的に事を行っていきます。
そのような子を沢山見てきました。
こんな子を見ているとかなりたちが悪い人格になっていきます。
人を唆すような発言や軽んじる言葉を常用したり、他の人の良心を傷つけることを平気でします。
そしてその親はそれをしかるどころか養護し、正当化することに勤めます。
嫌になってくるんですな.......
「こんな事なら行かない方が良いのではないか?」とか考えてしまいます。
また人の行動を制限することもその人の人生を背負うぐらいの責任を伴います。
影響を与えるのですから、ただ単に自分の価値観でしか見ずに自分の主観で物事を見た事で制限するのであれば、それによって被害を被るのであれば賠償責任が伴うことは普通でしょう。
こんな大人に限って自分の主張というのは間違いが無く正しいことを示そうとし続けます。
「子供の方がマシだよ」
というより子供の方が大人のように感じることが多々あります。
子供の社会というのは限定的ですが、同世代が犇めく世の中に入れられて育つのですから、言い訳できないわけです。
そして悪いことは悪いと認めていかなければ受け入れてもらえないことも多いはずです。
それに対して大人の社会というのはちゃんとした規律などによって構築されていかなければワンマンな人間を生み出して上からしかものを見れない状態を生み出します。
こうなれば、最悪です。
少なくとも意見を受け入れる余地を開けておかなければ孤立していく一方ですからね。
ワンマンに振る舞える人間というのは孤独です。
影響力を持っていると誇示する事に必死になり、大切なモノを見失っていきます。
一言で人を見下す発言をする人に意見を書くと
何を抜かしとんねん(怒)
の一言に尽きますな。
逆に意見を受け入れ過ぎる人間というのも問題があります。
こうなれば、個性や自分の価値観を持つことが出来ず他の人の意見に依存するようになっていくんですな。
そして気がつけば自尊心は無く、心には治らない深い傷が刻まれているんですな。
生きていることも罪深く思えてひたすら理由もないのに謝りたくなります。
いじめをされて自殺をする子の遺書に「生きていてごめんなさい」という言葉が残されていることが多いのは自尊心が剥ぎ取られていたからでしょう。
話がこんがらがってきたので元に戻そうと思います。
「狂おしいほど愛おしい」のは人だけではありません。
それは時間もあります。
この時間が止まればいいのにという言葉を良く聞きます。
高校時代には、特に2年後半から卒業するまで考え続けていました。
よって高校の校舎自体にその思いが詰まっているんですな。
「胸キュン」なんて恥ずかしい言葉がありますが、あのときめきを感じることが出来る事って大切だと思うんですよ。
苦しむほど人を愛する事って今のおいらには出来ないとも思うわけです。
まあ高校時代も同じようなモノでしたがね。
今よりはマシだったと思うわけですよ。
んで確実に好きな人が存在した時期があった訳でその事を同じ場所である校舎や高校の敷地内に行った時に忘れていた思い出や感情が湧き上がってきて心に充満していったわけです。
昔のことも悪くはないな~とか感じましたし、過去に拘ってはいけないという感じの記事を書きまくってきましたが、過去を思い出し「古き良き時代」の事を思い出すのも悪くないな~と今頃になって考えるようになりました。
年寄りが昔の事を誇って話したがる理由が少し理解できるようになったという感じでしょうかね。
この記事を書こうと考えたのは少し前に必要ではいられるBの引っ越しを手伝いに行ったのですが、その家がおいらの卒業した高校のかなり近いところだった事とプロポーズ大作戦というドラマと相まって書いたというわけです。
あまり人に見られたくない記事だったので少し時間をずらして投稿する事にしました。