扇風機の羽の真ん中をおさえるひねくれ者の日記

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JW1.5世の自分が生きてるのを不思議に思う、ひねくれ者の日記です。

Mind Darkness No.73 2010.01.13

2010-01-13 23:58:50 | Depression,Melancholy & Thought
自分に幾分かの価値を見いだしてくださっている方たちの期待が予想以上に高いことが嫌になっていますな................................

基本的においらは自分自身の価値というのは「存在し得ないモノ」と定義していました。
しかし最低限のこと、そうですね~。
「物事を行うに当たって必要となった費用」程度は主張しても良いのだと思えるようになってきました。
こういう思考が出来るようになってきたのも「大きな進歩なんだな~」という実感がわいてきます。
自分自身が好きでするのだからそう言う主張をすること自体が間違いなのだと考えてはばかりませんでした。
ところが最低限の出費に関しては要求しても良いモノなのだという認識に変わりつつあります。

それとおいらの行動や気遣いに関してなのかも知れませんが、ちょっとしたことが周りに大きな影響を与えているようです。
これを認識するようになり、自分の行動を考えるようになりました。

おいらは基本的に他人のために一生懸命になっている人間のために行動したいと願っています。
しかしここまで出来ている人間というのはごくごく少数派です。
自分のために一生懸命行動できてている人間も少数派ですね~。
日本の教育って悪くなっているんだな~と思うことが少なくありません。
これは「学生」や20代前半の子たちを見ていると本当にそれを考えてしまいます。

加えて、「かまってちゃん(構って欲しいと態度で出す人)」が結構増えていることも気になります。
自分自身が中心にいないと気が済まない人とは基本的においらは馬が合いません。
おいら自身はDramaで言うと聴衆のような位置づけですしね。
自分がStoryのMain Castなんて想像もしません。
よって自分自身が中心の人たちとは根本的に歩み寄ることは不可能でしょう。

少なくとも利他的に行動できる人間のために物事を行いたいと思っています。
何度も死に損ない、何度も拾わされた命です。
最後に自殺を考えたのは昨年でしょうかね。
最近は自殺のことは余り考えていないことに気が付きました。
最後に拾った時は自分の意志ではありませんでした。
しかし今は自分の意志で拾えるだけの精神力を有することができるようになりました。
おいらは基本的に報いは必要がないと思っています。
理由は「十二分に報いを受けている」ということでしょうかね。
命を落とさなかったこと、生きていることは昔の自分からすると奇跡のようなモノです。
「命あっての物種」というのはこのことを言うんだな~と納得している自分がいます。
深く考えて自殺を考えていたのですから、そこから脱しつつある自分があって生きているというのは十分に受けていると思えるわけです。
だから気づかれないようにして何かしら努力をしている人のために物事を行いたいと思うんですよ。

そう言えばですがね。
自分の価値に関して妹君と話すことがありました。
「自分の価値は他人よりは高くはない」というおいらの論理を話すと「哀れだ」と涙ぐんでいました。
彼女の論理とおいらの論理は基本的に、そして根本的に違うと言うことですな。
彼女の論理では「不正なことをしている人間は自分より価値が低い」ということですがね。
おいらの論理は違います。
基本的においらの場合はどのような場面でも相手に部があると言うことになります。
これはどういう意味かというと此方が正しいことをしているとします。
そして相手が不当に自分の事を評価し、低く見ているという設定とします。
こういったCaseの場合に此方の行動を正当に評価していないのだから敬意を払う必要もなく物事を行うことはしなくても良いと言うことになっていくかと思われます。
おいらの場合はこれは一区切り付いたなら物事はその時点からその相手のために物事を行うことはなくなりますけどね。
此方の部も認められずに行動する必要性は全くありません。
でも最終的に自分自身が納得できるまでしなければ気が済まないというのも大きいかと思います。
おいらは自分自身の納得の度合いというのはかなりSevereに設定していると見られることが少なくありません。
この部分が「哀れだ」と感じさせたようですな。
それと此方に確かに「正義」があるとしてもです。
その点で「おいら自身は神に対して言い開きをすることができる」と納得できます。
そしてその点では相手よりも此方の言い分の方が正しいことは確かだと確信できてもですな。
他のTotalとしての価値は相手側の方が大きいと結論する訳です。
低く見られたとしてもそれは相手と自分の価値観の相違から着ているに過ぎないんですよ。
此方が払っていた努力は自分自身にしか解らないモノです。
そしてそれをどうこう言うというのは此方からの一方的な言い分でしかないんですよね。
一方通行の、そして此方にしか理解できない物事で相手を非難すると言うことは的を外していると言うことですな。
おいらが物事を行わなくなった際に物事を行っていた相手がおいらと同じ作業をする機会が生まれることが少なくないはずです。
他人のために物事を行う際には様々なFactorが生まれてきますよね。
交通Cost、人件費、精神力、体力などの事を考えるとそれまで行っていたおいらの行動の価値を認識する機会が生まれるでしょう。
そのときに感じてもらえれば良いんですよ。

人間というのは言われても理解しません。
それがNegativeな意見であれば更に強硬になるでしょう。
「太陽と風」という物語がありますがね。
結局はあれと同じ方法で理解させることしかないんですよね。
つまりそれが享受できるのは当たり前だと思わせるのではなく、徐々に価値を認識させていくのが王道だと言うことでしょうか。

「どんなに相手が悪くとも相手に部がある」という思考には心理的にもう一つの意味があります。
相手が「してくれて当たり前だ」と考え感謝などを言わないとしても傷つかなくても良いという面ですな。
妹君はこの点で感謝を期待してしまうのでつらいと言うことでした。
しかしおいらのような思考だと此方がして当たり前だと言うつもりでいますからこういった落胆を味わうことはないんですよね。

「折角してあげたのに」
「ここまでしてあげているのに」
「ありがとうの一言ぐらい言えないのか」

という類の言葉を良く聞きます。
これって仕事なら期待するでしょうか。
お金を貰っているならば納得できることです。
上記の感情というのは明らかに此方の立場の方が上だという論理なんですな。
見ず知らずの人間のために行動するよりも知っている人間のために物事を行うことの方が空回りせずに済むというのは効率的な論理ではないでしょうかね~。
そしてそれが本人の役に立ったならばそれで良いのではないでしょうか。

確かなこととしておいらの価値基準の中では感謝の言葉を心から伝えてくれる人間というのはより高尚で

「この人のために行動したい」

という動機を抱かせるに足る人物だとしています。
感謝の言葉を述べない人間との扱いは同等ではありません。
おいらの中での「贔屓」というのはこういう人種のためにあります。
おいらの価値判断というのは長いSpanで見極めてきた人間性によって分析したモノですからな。
おいらが生きている限りこういう人種の人のために行動していくことは定められています。
よって扱いに違いがあってしかるべきだとも思いますな。
「贔屓というのはFairではない」という意見が多いかもしれませんがね。
上辺だけの軽いモノではなく、深いところから判断しているからこそ贔屓が必要なのだと考えています。

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