ドクダミの意外なところを撮ってみました。毒というイメージのため
この白い花は六月の花ですが見向きもされません。
薬草になるようですが、我が家の庭では雑草扱いで相手にされません。
一番密集している所は たしかに白い花もみごとに何かを訴えているかのよう
でした。
この白い花は六月の花ですが見向きもされません。
薬草になるようですが、我が家の庭では雑草扱いで相手にされません。
一番密集している所は たしかに白い花もみごとに何かを訴えているかのよう
でした。
紫陽花の季節にはいよいよあじさいの絵の制作に気合が入ります。
わたくしはB1サイズにペン画で仕上げるのです。
ペン画でこの大きさに描く人は殆んどいないとおもいますが私は描き続けて
います。絵が大きいとやはり迫力が違います。色鉛筆画でもここまできました。
誰もやらないことをやることに意義深いものを感じるし、続ける楽しさもひとしお
です。
大きいのでカラーコピーも普通ではとれないので1枚しかないので価値深さにも
満足できます。こう思うと色鉛筆画でも捨てたものではありません。
色鉛筆画は芸術と言われないかも知れませんが、手軽に絵を描くことができるので
広めていくために頑張っていきたいと思っています。
わたくしはB1サイズにペン画で仕上げるのです。
ペン画でこの大きさに描く人は殆んどいないとおもいますが私は描き続けて
います。絵が大きいとやはり迫力が違います。色鉛筆画でもここまできました。
誰もやらないことをやることに意義深いものを感じるし、続ける楽しさもひとしお
です。
大きいのでカラーコピーも普通ではとれないので1枚しかないので価値深さにも
満足できます。こう思うと色鉛筆画でも捨てたものではありません。
色鉛筆画は芸術と言われないかも知れませんが、手軽に絵を描くことができるので
広めていくために頑張っていきたいと思っています。
脳梗塞で倒れた私は退院後一か月してもまだ自分を見失っていました。何とかして
自分を取り戻したいと必死でした。先ず日常のリズムまで狂ってしまっているので
これが何よりも先決だと思いました。日常のリズムを取り戻すために始めたのが
「写禅の心」です。
「写禅」とは、写經と坐禅を一つにし毎朝実践することです。
「写經」とは般若心經を毛筆で書くことです。
書くといっても作法があります。先ず洗顔し身を清め、座卓に正座し、首に数珠を
かけ、硯で墨をすって一巻をかきあげます。
それをお水を取り替えお線香あげて仏壇で読経いたします。一時間半から二時間か
けます。これで心身ともに安らぎを得ることができるのです。
「写禅」こそが朝のリズムのスタートなのです。いつ頃
から始めたかは五月十日以降からです。「写禅の心」は自分自身への叱咤激励で
あり、信念貫徹でもあります。
病して初めて知る「写禅の心」なのでした。
「写禅」はわたくしの「修証一等」の精神目標として死ぬまで続けていくと
心にかたく誓ったのです。
反省と進歩発展の総合前進と感動や感性を高める、そして何よりも
鈍くなってしまった決断力や判断力を一日も早く回復したいのです。
自分を取り戻したいと必死でした。先ず日常のリズムまで狂ってしまっているので
これが何よりも先決だと思いました。日常のリズムを取り戻すために始めたのが
「写禅の心」です。
「写禅」とは、写經と坐禅を一つにし毎朝実践することです。
「写經」とは般若心經を毛筆で書くことです。
書くといっても作法があります。先ず洗顔し身を清め、座卓に正座し、首に数珠を
かけ、硯で墨をすって一巻をかきあげます。
それをお水を取り替えお線香あげて仏壇で読経いたします。一時間半から二時間か
けます。これで心身ともに安らぎを得ることができるのです。
「写禅」こそが朝のリズムのスタートなのです。いつ頃
から始めたかは五月十日以降からです。「写禅の心」は自分自身への叱咤激励で
あり、信念貫徹でもあります。
病して初めて知る「写禅の心」なのでした。
「写禅」はわたくしの「修証一等」の精神目標として死ぬまで続けていくと
心にかたく誓ったのです。
反省と進歩発展の総合前進と感動や感性を高める、そして何よりも
鈍くなってしまった決断力や判断力を一日も早く回復したいのです。