
2019年6月15日(土)
朝のデボーション。
「聖日を前にして、このことは今日して良かったのかな?それとも良くないのかナ~?」
と、なぜか、心に引っ掛かっていることが一つあり、
静まり、思い巡らしていた。
フト、昨日DVDメッセージで聞いた、ザレパテの貧しいやもめを思いだす。
その女性は、壺の中に残っていた一握りの小麦粉と、瓶の中の
わずかな油で、パンを焼き、子どもと二人でこの世でのさいごの食事をして
死のうとしていた。
そういう状況であるにもかかわらず、預言者エリヤは、
丁度それで焼けるだけのパンをその女性に所望する。
あり得ないことだけど、その女性は、自分たちが食べるはずのさいごのパンを焼いて
預言者エリヤの望み通りに、彼に与えたのだ。
すると、預言者が彼女に言った通りに、その女性の台所の
「壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかった」のだ。
(列王上17章)
・・・「パンを食べると言うことは、自分の喜びを満たすことと同じかもしれないカナ・・・」
(でも、それは罪ではないでしょう・・・と弁明)と、同時に、
「自分を喜ばせることをせず、、とも理解できなか?」との思いが頭をよぎる。
「そうだ、土曜日の備え日は、神様のご用の為に、自分の喜びを手放そう」と、思った瞬間、
それは、良かったか、悪かったか?という迷いが吹っ切れた。
結局、言い訳ばかりして、神様よりも自分がしたいことをしたいだけの
呆れた姿がそこに見えた。
要するに、どれだけ、本気かがここでも問われていることに気が付いた。
👣
朝から雨、、、
福岡で大きな宣教大会があり、昨日から日曜の準備に取り掛かり、
11時にはいつでも出かけられる状態になっていた。
雨だけど、「行きたい」という思いと、
今の私の体力では「自分を休ませるべきだ」という2つの思いが交差していた。
ここでも、2つの思いに挟まって、自分で判断できなかった。
そのような中、
「大切なのは、神様に喜ばれることをするべきではないか?」
と言う心の声が聞こえてきて、
お誘いしている方が11時に来れば、体力に自信がなくても、
主にお仕えするべく、車を出せばいい、
しかし、神様がどなたも送られないならば、
自分が行きたいからと言って行き、
明日の大切なご用をないがしろにすることになるかもしれないということが予測できるならば、
自分の為でなく、主の為に留まるべきだろう、という結論に達した。
11時だれもこられない。
淋しいというよりも、
「行きたい」と、言う思いがスッと、胸によぎったし、
「行くと言っておきながら行かないとは、
信用なくするナ~、」とも思ったが、
神様を軸に置くと、今日は留まるべきと、気持ちが
スッキリと定まり、大会の祝福を祈ることができた。
午後になり、宣教大会の終わる頃には、
天候もすっかり回復し、「ああ、ヤッパリ行けばよかった」
という未練がましい思いがチョット走ったが、
「オマエは、主に従って留まったんだから」
という、神様からのねぎらいの声が届いたように思えた。
👣
夕方になり、
階下で、人の声がする。
駆け下りてゆくと、宣教大会にお誘いしていた方がそこに立っていた。
「明日の礼拝にこれたら来ます」と伝えに来られたのだ。
庭先まで、見送りながら、
「神様、これで良かったのですね」と、
なぜか、(複雑な、でなく)さわやかな明るい陽射しが胸の中に、
差し込んできた。
我が思いにあらず・・・
神様が喜ばれるのは、これしかないのかもしれない。
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