中丸美繪ブログ

「モーストリー・クラシック」で「鍵盤の血脈 井口基成」連載中。六年目。小澤征爾伝も脱稿間近。

セイジオザワ松本フェスティバル 初日

2016年08月22日 17時28分33秒 | 日記
8月17日、松本へ向かった。
以前から連絡をとっていたサイトウキネンフェスティバル時代に、一大ボランティア組織をつくりあげた青山さんと待ち合わせ。
高速バスが西塩尻インターあたりにきたら電話してくれ、といわれていたが、西塩尻がわからず・・・・・焦る。

さらに、バスで携帯電話お断り・・・の表示が!

青山さんとの待ち合わせがうまくいかないのでは、とそわそわ。。。
しかし、着いたとき電話して、ホテルにすぐにきてくれました。
すぐ。。。ほんとうにすぐで、荷物もとかぬまま、外出・・。

そもそもボランティアが、サイトウ・キネン・フェスを支えてきました!

青山さんは青年会議所会長をしていたころ、松本にできた市民ホールであるハーモニー・ホールにもかかわった方である。
どうやって、サイトウ・フェスでボランティアが組織され、どのように活動をつづけてきたのか、それはハーモニー・ホール時代にさかのぼっていた。

そもそもボランティアといえば、なんとなく介護などをイメージするが、音楽祭にボランティアという組織を持ち込んだのは、松本が日本ではじめてである。
松本って、日本で初めてが多いです。

鈴木メソードの鈴木鎮一さんが才能教育・・・いわゆる音楽教育とはいわず、情操教育として音楽教室をはじめたのも、そう。
松本民芸家具は、もちろん松本が発祥地。

青山さんとの会話は楽しく、喫茶店だけでは済まず、その後夕食も。
名産の馬肉(競馬好きとしてはちょっと心が痛みながら、肉の美味しさを競馬より先にしっていたわたし)、蜂の子、イナゴの佃煮(これらは初めて食した!)
自分で注文することはないと思うが、青山さんが注文し、えい!とおもって食べたら、美味しかった!

小澤さんも青山さんには全幅の信頼をおいていたよう。しかし、青山さんは3年前ぐらいに辞めてしまった。
なんでも市とごたごたしたとか。
そのとき小澤さんは、「僕にまかせて!そういうの僕得意だ」といったというのだが・・・。

小澤さんは、今年6月頃電話してきて、
「青山さん、またやってよ」といっていたらしいが、青山さんの復活は今年はなかったようです。

この晩は、夜の10時半ぐらいまで青山さんと・・・。
オリンピックをみて、午前一時ごろ就寝。

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