「社会=Society」
所謂、現代社会人が内的原因と外的原因との交わりにおいて生ずる摩擦を
自分たちが後天的な過程において確立してきた「概念・通念」に従って
創造して来た…現実と言う、時間と空間・すべてを含んだ集合体。
その中で堂々と存在し すべてを振り回している「矛盾」と言うもの。
その矛盾に対して盲目になっているのが平和なのか?…つまり正しいのか?
開眼するのが正しいのか?…
自分自身を盲目的形態にしておくと言う問題は
一番容易な 一番普通?とされている在り方であるが
すでに遠い過去の事であるのは間違いない。
現在において 果たして自分が何をするのか 何をしたがっているのか
また 何をするべきなのか…まったくもって、何も判断しかねる状態にある。
私は、私と言う有機生命体(以下~人間と呼ぶ)に手をこまねいている。
私の主要であろう精神エリアにて 何かが悪魔的に 他の私
それは 自体のエリア 心のエリア etc ...を放棄しようとしている。
しかし、未だに放棄しきれないでいるのは 精神と共に手を取り合い
目に観得ない内的世界にて繰り広げられてきた 私固有の人間関係によって存在し続けきた
「Ego=自我」が巧みに心理的な世界にて展開するドラマに
つい気を捕られてしまう自身が…
放棄すると言う まことに破壊的な終末を先送りにしているからである。
私はこの静かなる内的抗争を他人事のように眺めている。
これは 私自身に起こった「終末戦争」のようなものかもしれない...
何が 誰が どの部分が 勝利者になるのか?
私自身は知っている…
しかし それを今現在の この状況の中で意識化するのは難しい。
はっきりと意識化されるとき この戦争は終わる。
私自身の終末戦争の終結の瞬間 それは 私自身の迎える輝かしい
終わりなのだから...
それは 穏やかなる 破壊の中に在る。
所謂、現代社会人が内的原因と外的原因との交わりにおいて生ずる摩擦を
自分たちが後天的な過程において確立してきた「概念・通念」に従って
創造して来た…現実と言う、時間と空間・すべてを含んだ集合体。
その中で堂々と存在し すべてを振り回している「矛盾」と言うもの。
その矛盾に対して盲目になっているのが平和なのか?…つまり正しいのか?
開眼するのが正しいのか?…
自分自身を盲目的形態にしておくと言う問題は
一番容易な 一番普通?とされている在り方であるが
すでに遠い過去の事であるのは間違いない。
現在において 果たして自分が何をするのか 何をしたがっているのか
また 何をするべきなのか…まったくもって、何も判断しかねる状態にある。
私は、私と言う有機生命体(以下~人間と呼ぶ)に手をこまねいている。
私の主要であろう精神エリアにて 何かが悪魔的に 他の私
それは 自体のエリア 心のエリア etc ...を放棄しようとしている。
しかし、未だに放棄しきれないでいるのは 精神と共に手を取り合い
目に観得ない内的世界にて繰り広げられてきた 私固有の人間関係によって存在し続けきた
「Ego=自我」が巧みに心理的な世界にて展開するドラマに
つい気を捕られてしまう自身が…
放棄すると言う まことに破壊的な終末を先送りにしているからである。
私はこの静かなる内的抗争を他人事のように眺めている。
これは 私自身に起こった「終末戦争」のようなものかもしれない...
何が 誰が どの部分が 勝利者になるのか?
私自身は知っている…
しかし それを今現在の この状況の中で意識化するのは難しい。
はっきりと意識化されるとき この戦争は終わる。
私自身の終末戦争の終結の瞬間 それは 私自身の迎える輝かしい
終わりなのだから...
それは 穏やかなる 破壊の中に在る。