死を大袈裟に騒ぐが、大事なのはどう生きてどう死んだかであって、死そのものは普通の出来事である。
“若いうちの苦労は買ってでもしろ”、なんて言うが、昔の人は本当に良く分かっている。
これを聞いてどんな風に解釈しますか?
一見、強靭な精神を鍛える為の“修行”のようなニュアンスに聞こえる。実際私も若いころはそう思っていた。そう捉えてしまうと、何となく言わんとすることは分かるが、とはいえ“苦労せずに済んだらそれに越したことはないな”、なんて思ってしまう。
まあ、確かに敢えて苦労を選ぶなんて中々出来るもんじゃない。そこで私は幸運だった、私だって敢えて苦労を選ぶほど立派な人間ではないが、“苦労せざるを得ない環境に生まれたから仕方なかった”。
結果として、それが幸運だったというのは、、話を戻す。
“若い内の苦労は買ってでもしろ”ということわざ(?)の意味は、私にとっては“修行”ではなく、“幸せになる為の必修科目”だったからです。
幸せって、当たり前になると幸せじゃない。一般的によく言われるのは、“空気”や“健康”などですね。普段当たり前のように空気を吸ってるから、空気の有難味を実感しない。健康も、失って初めて気付く、といった具合に、本来一番大切なものが、一番ないがしろにされている、それがこの世であり、現代の多くの人の価値観。それがいけないという訳ではないです、しょっちゅう空気に感謝していたら疲れてしまうし、あまりにも意識し過ぎるとかえって息苦しく感じるかもしれない。しかし、空気はいい、実際に当たり前にあるから。
ただ、人生はそうじゃないと思うのです。
こんな言い方をすると些か語弊があるかもしれませんが、敢えて断言すると、必修項目を経験したおかげで、私は今、“めちゃくちゃ幸せ”です。
もしもこの必修項目を体験してない誰かが、私と全く同じ物を食べ、全く同じ家に住み、その他全て私と同じ環境に置かれたとしても、その人の10倍、いや100倍、私の方が体感幸せ度数が高いと自負しております。
“幸せ”とは、相対的なものなので、ただそこに“幸せ”があったとしても、それが無かった時の記憶、又はそれを失った時の記憶がない限り、それが“幸せ”とは本当の意味で実感出来ない、又は実感できたとしても、その体感度数はとても低い、ということです。
費用対効果という言葉がありますが、例えるならそれに似てますね。そこで私は、“苦労対効果”なんて言葉を勝手に作ってみました。
仮にお金があったとしても、本来100円のボールペンが、半額セールで50円で買えた、だから“幸せ”、これがいわゆる費用対効果。
費用対効果は、“お金持ちだから幸せ”といった一般的によくある愚かな概念をうまく崩してくれます。つまり、どんなにお金があろうと、無駄遣いをする人にお金の有難味が分かる訳がないので、お金持ちになれたとしても幸せの体感度数はとても低いということですね。
“苦労対効果”は、その幸せを得る為に、その人が“どれだけの事をしたか”
例えば、1億円持っている二人の社長がいたとして、一人は全て親から受け継いだ二代目社長、片や裸一貫から一代で成り上がった社長。同じ1億円でも、前者と後者では体感度数がはるかに違うことは言うまでもありませんね。
要は、1億円持っているから凄いのではなく、その1億円をどうやって手にしたか?というプロセスが大切な訳で、ただただ金額だけを聞いて凄いという輩には時折呆れかえる。
一概には言えないが、前者が1億なら、後者にとっての1億は100億に匹敵する体感度といっても大袈裟ではないだろう。
社長を例に出すと些か語弊もありそうだが(笑)まあ単純に、親からこずかいでもらった1万円と、片や働いて稼いだ1万円、それと同じ意味です。
更にそれを継続するとどうなるか、苦労した分、何倍もの幸せとなって体感することになります。つまり、苦労すればするほど、“幸せ貯金”はどんどん貯まって(また勝手に言葉作ってますが)、その貯金をおろす時、とんでもなくまとまった幸せ度数を感じるということです。
その貯金をおろすタイミングは人それぞれですが、私は些かストイックに貯め過ぎたようで(笑) 40歳を過ぎてからおろしたものですから、それはそれは半端ない幸せ度数で怖いくらい。もう少し早くおろしてもよかったかな、と些かの後悔もありますが、ちなみにこの“おろす”という行為は、何分私だけの一存では無いものですから。そう、自分の意志だけでコントロール出来ればなんて便利でしょうね。
ここからは、うまく言えないのですが、恐らく“うまく出来てるんだなぁ”と思う。例えば、その幸せ貯金にも、人それぞれ目に見えない満期のようなものがあって、“もうこれ以上は貯金出来ません”といった具合に半強制解約されるのでは、なんてちょっと最後はファンタジーな事を言ってしまいましたが(笑) とにかく私は40年分の幸せ貯金のおかげで、今、誰にも分からない、私にだけ分かる度数で幸せを体感出来ているという訳です。
ちょっと大袈裟に言い過ぎたかもしれませんが、少なくともこの考え方を意識するかしないかでは、幸せの感じ方が雲泥の差です。
例えば、私はよく幼少時代を思い出します。母子家庭で大変な貧乏でした、ボロアパートで風呂が無いだけでいじめられた。今、風呂があるだけでこの幸福感、これは生まれつき風呂がある人には永遠に分からない(分かるとは言わせない)
簡単に言えばそういうことです。この手のエピソードを書き連ねたらきりが無いほどあるのでもう言わない。つまりはそういうことです。
話が随分ずれてしまいましたが、要は、死を意識することも、生が“当たり前”ではなく、日々その喜びを実感でき、心から“生きている”と実感出来る、ということですね。
“若いうちの苦労は買ってでもしろ”、なんて言うが、昔の人は本当に良く分かっている。
これを聞いてどんな風に解釈しますか?
一見、強靭な精神を鍛える為の“修行”のようなニュアンスに聞こえる。実際私も若いころはそう思っていた。そう捉えてしまうと、何となく言わんとすることは分かるが、とはいえ“苦労せずに済んだらそれに越したことはないな”、なんて思ってしまう。
まあ、確かに敢えて苦労を選ぶなんて中々出来るもんじゃない。そこで私は幸運だった、私だって敢えて苦労を選ぶほど立派な人間ではないが、“苦労せざるを得ない環境に生まれたから仕方なかった”。
結果として、それが幸運だったというのは、、話を戻す。
“若い内の苦労は買ってでもしろ”ということわざ(?)の意味は、私にとっては“修行”ではなく、“幸せになる為の必修科目”だったからです。
幸せって、当たり前になると幸せじゃない。一般的によく言われるのは、“空気”や“健康”などですね。普段当たり前のように空気を吸ってるから、空気の有難味を実感しない。健康も、失って初めて気付く、といった具合に、本来一番大切なものが、一番ないがしろにされている、それがこの世であり、現代の多くの人の価値観。それがいけないという訳ではないです、しょっちゅう空気に感謝していたら疲れてしまうし、あまりにも意識し過ぎるとかえって息苦しく感じるかもしれない。しかし、空気はいい、実際に当たり前にあるから。
ただ、人生はそうじゃないと思うのです。
こんな言い方をすると些か語弊があるかもしれませんが、敢えて断言すると、必修項目を経験したおかげで、私は今、“めちゃくちゃ幸せ”です。
もしもこの必修項目を体験してない誰かが、私と全く同じ物を食べ、全く同じ家に住み、その他全て私と同じ環境に置かれたとしても、その人の10倍、いや100倍、私の方が体感幸せ度数が高いと自負しております。
“幸せ”とは、相対的なものなので、ただそこに“幸せ”があったとしても、それが無かった時の記憶、又はそれを失った時の記憶がない限り、それが“幸せ”とは本当の意味で実感出来ない、又は実感できたとしても、その体感度数はとても低い、ということです。
費用対効果という言葉がありますが、例えるならそれに似てますね。そこで私は、“苦労対効果”なんて言葉を勝手に作ってみました。
仮にお金があったとしても、本来100円のボールペンが、半額セールで50円で買えた、だから“幸せ”、これがいわゆる費用対効果。
費用対効果は、“お金持ちだから幸せ”といった一般的によくある愚かな概念をうまく崩してくれます。つまり、どんなにお金があろうと、無駄遣いをする人にお金の有難味が分かる訳がないので、お金持ちになれたとしても幸せの体感度数はとても低いということですね。
“苦労対効果”は、その幸せを得る為に、その人が“どれだけの事をしたか”
例えば、1億円持っている二人の社長がいたとして、一人は全て親から受け継いだ二代目社長、片や裸一貫から一代で成り上がった社長。同じ1億円でも、前者と後者では体感度数がはるかに違うことは言うまでもありませんね。
要は、1億円持っているから凄いのではなく、その1億円をどうやって手にしたか?というプロセスが大切な訳で、ただただ金額だけを聞いて凄いという輩には時折呆れかえる。
一概には言えないが、前者が1億なら、後者にとっての1億は100億に匹敵する体感度といっても大袈裟ではないだろう。
社長を例に出すと些か語弊もありそうだが(笑)まあ単純に、親からこずかいでもらった1万円と、片や働いて稼いだ1万円、それと同じ意味です。
更にそれを継続するとどうなるか、苦労した分、何倍もの幸せとなって体感することになります。つまり、苦労すればするほど、“幸せ貯金”はどんどん貯まって(また勝手に言葉作ってますが)、その貯金をおろす時、とんでもなくまとまった幸せ度数を感じるということです。
その貯金をおろすタイミングは人それぞれですが、私は些かストイックに貯め過ぎたようで(笑) 40歳を過ぎてからおろしたものですから、それはそれは半端ない幸せ度数で怖いくらい。もう少し早くおろしてもよかったかな、と些かの後悔もありますが、ちなみにこの“おろす”という行為は、何分私だけの一存では無いものですから。そう、自分の意志だけでコントロール出来ればなんて便利でしょうね。
ここからは、うまく言えないのですが、恐らく“うまく出来てるんだなぁ”と思う。例えば、その幸せ貯金にも、人それぞれ目に見えない満期のようなものがあって、“もうこれ以上は貯金出来ません”といった具合に半強制解約されるのでは、なんてちょっと最後はファンタジーな事を言ってしまいましたが(笑) とにかく私は40年分の幸せ貯金のおかげで、今、誰にも分からない、私にだけ分かる度数で幸せを体感出来ているという訳です。
ちょっと大袈裟に言い過ぎたかもしれませんが、少なくともこの考え方を意識するかしないかでは、幸せの感じ方が雲泥の差です。
例えば、私はよく幼少時代を思い出します。母子家庭で大変な貧乏でした、ボロアパートで風呂が無いだけでいじめられた。今、風呂があるだけでこの幸福感、これは生まれつき風呂がある人には永遠に分からない(分かるとは言わせない)
簡単に言えばそういうことです。この手のエピソードを書き連ねたらきりが無いほどあるのでもう言わない。つまりはそういうことです。
話が随分ずれてしまいましたが、要は、死を意識することも、生が“当たり前”ではなく、日々その喜びを実感でき、心から“生きている”と実感出来る、ということですね。