生まれたばかりの赤ん坊は、自分の事しか考えられない。腹が減って泣き、眠くて泣き、不快で泣く。それがお仕事。
つまり、人間は究極の“自己中”からスタートする。
そして、大人になるにつれ、思いやりを覚え、譲り合いを覚え、助け合いを覚え、労わり合いを覚え、それらの為に、犠牲を覚え、妥協を覚え、我慢を覚える。そうやって徐々に“成人”となる。もはや、腹が減っても泣かない、眠くても泣かない、不快でも泣かない。そうやって強くなる。
更に今度は、弱い人に食べ物を与え、ベッドを譲り、自分は我慢をするようになる。そうやって強く優しくなっていく。
そうして年々、人間は強く優しくなってゆき、寿命を全うした時に、完全に“自己中”は消え、“人の事だけ”を考えられる“聖人”となる。(そう思いたい)
そう考えると、自殺というのは、聖人となる前に、途中退場することとなる。これは究極の自己中だろう。
どんなに辛く、悲しいことがあっても、自らの命を絶つことは、子供が腹を空かして泣くのと同じ。聖人どころか、成人にすらなっていない。そして、
もう一つ大切なことは、普段から死をきちんと意識してないから、その人にとって死が逃げ道でしかない。
死は、そんなに甘くはない。死をなめてもらっては困る。死んだら楽になる?それなら今すぐ死をお薦めするが、そうは問屋が卸さないのですよ。
そもそも、苦労対効果と同じで、“不幸”というのは、それまでの幸福と比較して生まれる訳であって、あくまでその人の“価値観”でしかない。
初めて転んだ子供はこの世の終わりのように泣き叫ぶだろう、しかし、大人達は、それを乗り越える事を知っている。そして二度目は泣かなくなる。つまりは免疫ですね。
恐らく、その人にとって、これまでに経験したこともない勢いで転んだのだろう、そしてこれまで積み重ねて来たものを全て失ったのだろう。
本来ならば、初めて転んだ子供のように、乗り越えねばならないが、またゼロからやり直すのは気が遠くなるから、ついつい投げやりな気持ちになり、全て辞めてやろう、と思う。しかし、何もしないで生きられるほど資本主義社会は甘くないから、だったら死ぬしかない、という結論になる。これじゃもはや逆ギレの開き直りです。そしてもっというなら、これは自殺ではない、社会に殺されてますよね。
不幸だと思う人は、自分しか見えていない証拠。
本来は、自力で乗り越えてほしいのでこのような考え方は本意ではないが、どうしてもダメなら、これだけインターネットが普及したのだ、“世の中の不幸”で検索してみるといい、世の中には、貴方よりはるかに不幸な人がいる筈だ。それでも貴方は自分が一番不幸だと思うなら、それはやはり、貴方は自分しか見えていない証拠。つまり自分大好き人間。
“不幸”なのではなく、ただ単に自分が弱く、我慢できない“赤ちゃん“という事だ。
大人は、どんなに不運、不幸に見舞われようとも、“運も実力の内”ときちんと割り切り、それに耐え、どうにか乗り越える。それが大人だ。
なのに、それを他人のせいにしたり、世の中のせいにしたり、運のせいにしたりして、自己責任を認めず、言い訳や愚痴ばかり言って、挙句の果てに「自殺してやるー!」ってか。心配しなくても、そんな人は死ねないから。
私が敬愛していた不死鳥ハヤブサは、(知らない人は検索して下さい)我々が想像もつかない全身不随という壮絶な状況下で、しっかりと割り切り、今自分が出来る事をやろう、そうやって最後まで生き抜いた。だからこそ、ある日突然苦しまずに逝けたのだ。
死を、別世界の別物と思わない方がいい。死と生は1セットと考えたら分かりやすい。もしくは、生にとっての死だが、逆に言えば、死にとっての生だと考える。
やはり、こちらも相対的なものだと思うのだ。生きる(死ぬる)ということは死ぬ(生きる)ことであり、死ぬる(生きる)ということは生きる(死ぬる)ということ。
つまり、生も死も、同じような世界。我々は当たり前のように“生きている”と言っているが、簡単に言うと、ひょっとしたら、実はこちら側が“あの世”かもしれないということだ。
この世では、なまじっか赤ん坊からスタートするから、死はある種の“リセット”を連想させる。又は前世や輪廻などを言い出す人もいる。
どうしてこの世の概念ばかりを基準に考えるのだろう。
死ねば、必ずまた赤ん坊から生まれ変わる訳ではない。はたまた、いわゆるあの世のような異空間で、天国や地獄に行く訳でもない。
私は、ただ、“引っ越し”をするようなものだと思うのだ。
だからと言って、この世の肉体や記憶をもって引っ越しかどうかは分からない。恐らくそれは違うような気もする。ただ、ちゃんと“帳尻が合うように”うまく出来ているとだけは思うのだ。
だから、死んだからといって、辛さがチャラになるか?罪がチャラになるか?といえば、そんな訳がない。
死をただただ辛いもの、悲しいものとしか考えていないから、それを志願することで、まるで“だから救われる”とか、“許される”とか勘違いする。“天国にいける”なんて論外だ。誰でもいつかは必ず死ぬのに、それを早めたからといってだから何?だ。自ら絶ったからといってそれがどうした?だ。しいて言うなら、自殺の痛みや苦しみによく飛び込んだなぁ、とだけ思う。ただそれだけ。
自殺は、夏休みの宿題をたっぷり残したまま、登校するようなもの、つまりルール違反だ。その宿題は、きっといずれ居残りをしてでもすることになる。どっちにしても同じことなのに。
こんな事を断言してると、一部の宗教家や占い師、霊能師などから怒られそうだが。
根拠が無いのはお互い様だ。
つまり、人間は究極の“自己中”からスタートする。
そして、大人になるにつれ、思いやりを覚え、譲り合いを覚え、助け合いを覚え、労わり合いを覚え、それらの為に、犠牲を覚え、妥協を覚え、我慢を覚える。そうやって徐々に“成人”となる。もはや、腹が減っても泣かない、眠くても泣かない、不快でも泣かない。そうやって強くなる。
更に今度は、弱い人に食べ物を与え、ベッドを譲り、自分は我慢をするようになる。そうやって強く優しくなっていく。
そうして年々、人間は強く優しくなってゆき、寿命を全うした時に、完全に“自己中”は消え、“人の事だけ”を考えられる“聖人”となる。(そう思いたい)
そう考えると、自殺というのは、聖人となる前に、途中退場することとなる。これは究極の自己中だろう。
どんなに辛く、悲しいことがあっても、自らの命を絶つことは、子供が腹を空かして泣くのと同じ。聖人どころか、成人にすらなっていない。そして、
もう一つ大切なことは、普段から死をきちんと意識してないから、その人にとって死が逃げ道でしかない。
死は、そんなに甘くはない。死をなめてもらっては困る。死んだら楽になる?それなら今すぐ死をお薦めするが、そうは問屋が卸さないのですよ。
そもそも、苦労対効果と同じで、“不幸”というのは、それまでの幸福と比較して生まれる訳であって、あくまでその人の“価値観”でしかない。
初めて転んだ子供はこの世の終わりのように泣き叫ぶだろう、しかし、大人達は、それを乗り越える事を知っている。そして二度目は泣かなくなる。つまりは免疫ですね。
恐らく、その人にとって、これまでに経験したこともない勢いで転んだのだろう、そしてこれまで積み重ねて来たものを全て失ったのだろう。
本来ならば、初めて転んだ子供のように、乗り越えねばならないが、またゼロからやり直すのは気が遠くなるから、ついつい投げやりな気持ちになり、全て辞めてやろう、と思う。しかし、何もしないで生きられるほど資本主義社会は甘くないから、だったら死ぬしかない、という結論になる。これじゃもはや逆ギレの開き直りです。そしてもっというなら、これは自殺ではない、社会に殺されてますよね。
不幸だと思う人は、自分しか見えていない証拠。
本来は、自力で乗り越えてほしいのでこのような考え方は本意ではないが、どうしてもダメなら、これだけインターネットが普及したのだ、“世の中の不幸”で検索してみるといい、世の中には、貴方よりはるかに不幸な人がいる筈だ。それでも貴方は自分が一番不幸だと思うなら、それはやはり、貴方は自分しか見えていない証拠。つまり自分大好き人間。
“不幸”なのではなく、ただ単に自分が弱く、我慢できない“赤ちゃん“という事だ。
大人は、どんなに不運、不幸に見舞われようとも、“運も実力の内”ときちんと割り切り、それに耐え、どうにか乗り越える。それが大人だ。
なのに、それを他人のせいにしたり、世の中のせいにしたり、運のせいにしたりして、自己責任を認めず、言い訳や愚痴ばかり言って、挙句の果てに「自殺してやるー!」ってか。心配しなくても、そんな人は死ねないから。
私が敬愛していた不死鳥ハヤブサは、(知らない人は検索して下さい)我々が想像もつかない全身不随という壮絶な状況下で、しっかりと割り切り、今自分が出来る事をやろう、そうやって最後まで生き抜いた。だからこそ、ある日突然苦しまずに逝けたのだ。
死を、別世界の別物と思わない方がいい。死と生は1セットと考えたら分かりやすい。もしくは、生にとっての死だが、逆に言えば、死にとっての生だと考える。
やはり、こちらも相対的なものだと思うのだ。生きる(死ぬる)ということは死ぬ(生きる)ことであり、死ぬる(生きる)ということは生きる(死ぬる)ということ。
つまり、生も死も、同じような世界。我々は当たり前のように“生きている”と言っているが、簡単に言うと、ひょっとしたら、実はこちら側が“あの世”かもしれないということだ。
この世では、なまじっか赤ん坊からスタートするから、死はある種の“リセット”を連想させる。又は前世や輪廻などを言い出す人もいる。
どうしてこの世の概念ばかりを基準に考えるのだろう。
死ねば、必ずまた赤ん坊から生まれ変わる訳ではない。はたまた、いわゆるあの世のような異空間で、天国や地獄に行く訳でもない。
私は、ただ、“引っ越し”をするようなものだと思うのだ。
だからと言って、この世の肉体や記憶をもって引っ越しかどうかは分からない。恐らくそれは違うような気もする。ただ、ちゃんと“帳尻が合うように”うまく出来ているとだけは思うのだ。
だから、死んだからといって、辛さがチャラになるか?罪がチャラになるか?といえば、そんな訳がない。
死をただただ辛いもの、悲しいものとしか考えていないから、それを志願することで、まるで“だから救われる”とか、“許される”とか勘違いする。“天国にいける”なんて論外だ。誰でもいつかは必ず死ぬのに、それを早めたからといってだから何?だ。自ら絶ったからといってそれがどうした?だ。しいて言うなら、自殺の痛みや苦しみによく飛び込んだなぁ、とだけ思う。ただそれだけ。
自殺は、夏休みの宿題をたっぷり残したまま、登校するようなもの、つまりルール違反だ。その宿題は、きっといずれ居残りをしてでもすることになる。どっちにしても同じことなのに。
こんな事を断言してると、一部の宗教家や占い師、霊能師などから怒られそうだが。
根拠が無いのはお互い様だ。