学生のときのクラブの先輩が亡くなりました。
彼女が亡くなったと聞いたのは昨年の暮れの事。
奇しくもその直前に、私はその先輩の代の飲み会に誘われて出かけていました。
男性ばかりの中で(某運動クラブで私たちはマネージャーだったのです)、
その日も彼女の姿はありませんでした。
彼女とは卒業以来会ったことは無かったのです。
クラブのOB会などでも、彼女にあうことはありませんでした。
いろいろな事情はありますが、
何より大変に優秀な人で、仕事をバリバリと楽しくやっているため
とても忙しいのかな、と理解していました。
暮れの飲み会がとても楽しくて、また集まりたいなと考えていた矢先に
先輩の訃報が舞い込んできたのです。
ひどくショックでした。
OBの集まりに出てこなくても、
当たり前のように元気で過ごしていらっしゃるに違いないと思っていた先輩。
まだ、本当に若いのに。
どうして?なぜ?
私には推し量る事もできないほど優秀な彼女。
思い出すと、いつも静かにニコニコと微笑んでいた笑顔。
卒業の追いコン(追い出しコンパ)のときに来てくれて、
初めて、ゆっくりと長い時間話した時の事。
この週末に、彼女を偲ぶお別れの会がありました。
会そのものには出席できなかったのですが、
会のあと クラブの当時のメンバー達と大学近くのお店で集まりました。
40名くらいはいたかな。
みんなそれぞれが、彼女についての思い出を持っていました。
暮れの紅白で『千の風になって』という歌が流れたとき
私は涙が流れて止まりませんでした。
若くして非凡な才能と一緒に旅立って行った彼女の魂が
あの優しい、静かな微笑と共に自分の生きたいところ、
そばにいたい人の所に飛んでいっているのかもしれない。
行きたくても行けなかったところに、好きなときに好きなだけ行ってほしい。
そばに居たかった人のところに、そっと優しく寄り添っていて欲しい。
私たちはいつまでもあなたのことを忘れません。
彼女が亡くなったと聞いたのは昨年の暮れの事。
奇しくもその直前に、私はその先輩の代の飲み会に誘われて出かけていました。
男性ばかりの中で(某運動クラブで私たちはマネージャーだったのです)、
その日も彼女の姿はありませんでした。
彼女とは卒業以来会ったことは無かったのです。
クラブのOB会などでも、彼女にあうことはありませんでした。
いろいろな事情はありますが、
何より大変に優秀な人で、仕事をバリバリと楽しくやっているため
とても忙しいのかな、と理解していました。
暮れの飲み会がとても楽しくて、また集まりたいなと考えていた矢先に
先輩の訃報が舞い込んできたのです。
ひどくショックでした。
OBの集まりに出てこなくても、
当たり前のように元気で過ごしていらっしゃるに違いないと思っていた先輩。
まだ、本当に若いのに。
どうして?なぜ?
私には推し量る事もできないほど優秀な彼女。
思い出すと、いつも静かにニコニコと微笑んでいた笑顔。
卒業の追いコン(追い出しコンパ)のときに来てくれて、
初めて、ゆっくりと長い時間話した時の事。
この週末に、彼女を偲ぶお別れの会がありました。
会そのものには出席できなかったのですが、
会のあと クラブの当時のメンバー達と大学近くのお店で集まりました。
40名くらいはいたかな。
みんなそれぞれが、彼女についての思い出を持っていました。
暮れの紅白で『千の風になって』という歌が流れたとき
私は涙が流れて止まりませんでした。
若くして非凡な才能と一緒に旅立って行った彼女の魂が
あの優しい、静かな微笑と共に自分の生きたいところ、
そばにいたい人の所に飛んでいっているのかもしれない。
行きたくても行けなかったところに、好きなときに好きなだけ行ってほしい。
そばに居たかった人のところに、そっと優しく寄り添っていて欲しい。
私たちはいつまでもあなたのことを忘れません。
大の仲良し一人を亡くしたことがあります。
友人を亡くした経験は彼だけです。
今でも彼がいればなあとよく思うことがあります。
大の仲良しではお辛かったでしょうね。
今でも彼がいればなあとよく思うことがあります。
きっと、風に乗ってでっちゃんのそばにも居てくれるのではないでしょうか?
ishikerijpさんが、この返事を読んでくださるといいな、と願ってます。
ishikerijpさん、とても気になるコメントです。
『正直、死んでしまいたいといつも思いながら』
何かお辛い事でもあったのでしょうか・・・。
ishikerijpさんの背景がわからないので、軽々しくお返事することに戸惑いがありますが・・・。
ずいぶん以前のことになりますが、
わたくしも自身の生きる意味がわからずに悶々としたことがあります。
周囲が思うようにいかなくて、手首に包丁をもっていったことも。
それは、思春期というには遅い10代の終わりの時期でしたので
もしかすると大人への変遷期だったのかもしれません。(本人は真剣でした)
今、思うことは
「人は、自分の好むと好まざるに関わらず、誰かのために生きている」ということです。
私は特に何かを信仰しているわけではありませんが、
「命」の存在には”人知の及ばない大きな力”が関わっていると思います。
自分が今ここにいる事、それは自分の意思であって意思でない。(わかりづらくてごめんなさい)
「誰かの為」と書きましたが、特別大きなことを言っているつもりはありません。
昨日、電車の中で席を譲った妊婦さん。
今日、コンビニで買い物をしたときにぶつかって謝った人。
明日、社内でコーヒーを入れてあげるだろう上司。
毎日、どこかですれ違うであろう当たり前の人々の為に。
小さな子供の隣で添い寝をして、ふとその頬が自分の頬に触れた瞬間の幸せ感。
本屋さんで、落としてしまったお釣りを店員の方と大慌てで拾って、顔を見合わせて微笑みあったこと。
仕事で大ミスをしたときに、呑みに誘ってくれた知人。
ささやかで、気にもとめない様な日々の積み重ねです。
ishikerijpさんもそんな日常の中に生きてるのではないでしょうか?
日々の生活の中にこそ、意識しないことにこそ「幸せ」があるように思います。
激的な感情は日々の生活のアクセント。
アクセントは平凡があるからこそ彩られるものだと思います。
若くして病に犯され、短い命をうしなった私の先輩も、日常の生活の中に生きていたのだと思います。
彼女を悼み、またあの笑顔を見たいと願い、多くの人が涙を流しました。
失われていい命なんて一つも無いです。
ishikerijpさんが生きているだけで、生活しているだけで誰かが幸せなんだと思います。
この返事を書いて、私、今とても幸せです。
自分が漠然と感じていたことを、文章という「言霊」に載せて形に出来たから。
自分の気持ちを自分で確認できたから。
ishikerijpさんのお蔭です。
ありがとう。
また遊びに来てくださいね^^