今は、
六十年の人生でとても幸せな時期なのだと思っています。
それなのに浸れない貧乏性。
どこかに落とし穴が有るのではないかと思ってしまうんです。不幸という罠がパックリと大口を開けて待機中なのに、気が付かず浮かれている能天気なワタシなのかもしれないと。
すると亡くなった父のことが脳裏に浮かびました。
わたしたちや父母が不幸の事態に落ちてしまった
あのとき父は、わたしたちのことを思っていたから言えないことが沢山有ったのではないか…心配のあまり眠れない日々が有ったのではないか…それなのにワタシは背を向けてしまって…母を疎んじてしまって…二人がどれだけ心を痛めて居たかなど余裕の無かったあの頃のワタシ、いや今もかもしれない、思いやりの薄いワタシだったのではないか…
そういうことが今更なのに悔やまれる。
いろんな後悔はあったとしても済んだことです、後ろはもう見ないことにしていましたが、父と母のことはお互い様なのですが、巻き込んだ巻き込まれたの感じだったのですが、もう少し二人に対し気持ちが寄り添えなかったかと思えて…結果甘えてしまっていて何もしなかったです。もっと甘えてばかりではなく出来ることがあったのではないかと、
足りなかった「思い」の部分で後悔してしまいます。
パックリの不幸の大口は、そういうワタシを罰しようとしているかもしれないなどと、起こってもいないことに怯えて、浮かれるなと制されているような気がします。
お父さん、お母さん、ごめんなさい。
至らない娘でごめんなさい。
と、幸せな時期だからやっとこんな風に思うことができたようです。
ここまで来られたのは二人のお陰です。
今は感謝しかないです。
というか、やっと素直にそういう気持ちになれたんです。
21年も掛かってしまいました!
長かった……
今日も読んでいただいて、ありがとうございます。