「せっかく仏教の教理を学んでも、学んだとおりに実行せず、やりたい放題にしていたら、牧童が自分の管理する牛を数えずに、自分と関係のない他人の牛を数えて、多いの少ないのと言っているのと同じようなもので、とうてい修行の成果を得られません」
と、なるべきです。
困ったことに『般若心経』は、仏教用語を使いながら仏教用語の意味をわかっていないのです。それは「色即是空。空即是色」のくだりからも明らかです。
「色即是空」は正しいのです。「色は空であると観なさい」とパーリ経典にもあります。
では、「空即是色」ってなんでしょうか?これはどうしても、大乗仏教の世界からみたって成り立たない話です。
大乗仏教で一般的に言われている「空」とは、真理そのものであって、超越した何かの存在なのです。大日如来とか久遠佛とか、法身如来とか、宇宙全体の実体たる真理で、そこからすべてが流出してくる。ヒンドゥー教のアートマン、ブラフマンという観念と大乗仏教の「空」の観念はかなり似通った、区別できないものになっています。
しかしそれは、大乗仏教のカリスマ・龍樹が発見した「空」ではないのです。
龍樹はただ、「物事は相対的であって実体は成り立たない」と論理的に緻密な哲学を構築しただけで、「空たる真理が存在する」とはけっして言わなかったのです。
しかし大乗仏教が発展していくうえで、空は真理・実体そのものになっていきました。
けれど龍樹の「空」は言うまでもなく、そういう実体化された「空」の立場からみたとしても、『般若心経』に書いてあることは間違っています。
「リンゴは果物である」というのは正しいのですが、「したがって果物はリンゴである」というのはおかしいのです。そういうふうに言葉を使ってはいけないのですが、『般若心経』の作者はそれも理解していないのです。
それだけではありません。「色即是空」と言ったのは正しいのに、自分でそれを理解していない。「色受想行識は空である」と言ったのは正しいのに、やはり理解していない。理解していないから、「空と色は同じもので全然変わりはない」などと言うのです。しかも何度もいうのです。これはすごく滑稽です。間違ったことを何度も発表できるのは、わかっていないからなのです。 (P.136〜137)
「色即是空」なら「空即是色」は必然であり、わざわざ反復する必要はないのですが、スマナサーラ長老のように、間違って解釈することがないように、「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色」と繰り返しているのです。
この繰り返しには「揃え癖」という意味もあります。中国人は文章を書くときに、行と文字数を揃えて書くことに、非常に美意識を感じるらしく、特に「漢詩」には、「七言絶句」、「五言絶句」のように、同じ文字数の四行でまとめる詩の形式があります。
長老の言い分は、「色即是空」は正しいが、「空即是色」は間違っている、というものです。
また、それを喩えて、「リンゴは果物である」は正しいが、「果物はリンゴである」というのはおかしい、と言います。
この喩えは、明らかに間違った使い方であり、そういうふうに喩えを使ってはいけないのですが、長老はそれも理解していないのです。
「色即是空」は、「中国語」で「色=空」という意味であり、「色は空のなかに含まれる」という意味ではありません。
「リンゴは果物である」というのは、“Apple is a Fruit” つまり、「リンゴは果物の一種である」という意味であり、「リンゴ=果物」という意味ではありません。
もし、“Apple is the Fruit” だったとしても、「リンゴは果物のなかの果物である」となるだけで、「リンゴ=果物」という意味にはなりません。
英語もそのへんは厳密にできており、日本語のように、そのままひっくり返すことができません。つまり、「A Fruit is ○○」という表現が最初からできません。
長老が、『般若心経』が「間違い」というのは、何に対して「間違い」と言っているのか、長老自身が、よく理解できていません。
「色即是空」は正しいと言いますが、「色即是空」は「色=空」という意味であり、「色=空」なら「空=色」であるのは当然であり、間違いようがありません。
「上座部仏教」の世界では、「A=B」であっても「B=A」ではない、というのでしたら、世界的にみても稀有な論理学ですから、それだけで何冊もの本が書ける筈で、『般若心経』をダシにすることもないでしょう。
「色=空」ではないから「間違い」というなら、よく分かる話ですが、それは、自分の主義や主張と異なるから「間違い」と言っているだけで、それなら、世界中の「上座部」以外の仏教書は、どれもこれも「間違い」であり、とりたてて『般若心経』だけが「間違い」という話ではありません。
仏典に見る、お釈迦さまの説法は「喩え話」が多いので、仏教者の説法も、自然と喩えが多くなります。
『法句経』「第一章」にある、「他人の牛を数える」という喩え、
「多義を誦習すと雖も、放逸にして正に従わずんば、牧の他牛を数うる如し、沙門の果を獲難し」
これを意訳すると、次のようになるのだそうです。 おそらく、漢訳からではなく、パーリ語からの訳ではないかと思います。
「たとえためになることを数多く語るにしても、それを 実行しないならば、その人は怠っているのである。−牛飼いが他人の牛を数えているように。彼は修行者の部類に入らない」(岩波文庫「ブッダの真理のことば 感興のことば」中村元訳より )
「たとえ多くの教えを語っても、その実行者でなく、放逸な人であれば、牧童が他の人々(雇い主)の牛々を数えつつあるようなものであり、沙門の分け前(解脱)に与れない」(ダンマパダ(法句経)講義DVDカタログ(1)、講師:アルボムッレ・スマナサーラ長老)
「他人の牛」の意味が、多くの解説では「牧童が他人から預かった牛」とされているのですが、「他人から預かった」というのは、どこから来ているのでしょうか。長老の講義でも「他の人々(雇い主)の牛々」となっているようです。
「他人から預かった牛」なら、頭数を数えるのが当たり前であり、数えなかったら、牛を10頭預かっても、9頭返せば良いことになってしまいます。
銀行のように「他人の金を預かる」商売では、さらに深刻な問題になり、銀行が預金を数えなかったら、金融不安で誰も安心して暮らせません。
この場合、銀行員は「雇われ人」であり、自分が預かった金でもないのに、銀行の立場で、預かった金を数えなくてはなりません。
雇われている牧童という立場なら、雇い主の牛は、自分の牛と全く同じであり、「預かった牛」と同様に責任を持ち、常に頭数を数えて確認するのが当然です。
もし、自分の牛でないからと、頭数も数えないで、ほったらかしにしておくなら、牛主の損失は大きく、牧童はクビになるか、牛主が潰れてしまいます。
この「喩え」の意味は、「せっかく多くの教理を学んでも、戒律を実行せずに、やりたい放題にしていたら、修行の成果を得ることができない」ということの筈です。
すると、「他の牛を数える」というのが、「無駄に教理を学ぶ」ことに対応しているのですから、「他の牛を数える」こと自体が、無意味なことでなくてはいけません。
すると、「他の牛」というのは、「他人から預かった」り、「雇い主の牛」のような、当然、自分が責任を持つべき牛ではなく、自分と関係のない、他の牛飼いの牛か、他の牛飼いが預かった牛、でなくてはおかしなことになってしまいます。
つまり、牧童が、自分の責任を負っている牛を数えずに、自分と関係ない「他人の牛」の数をかぞえている、と考えないと、意味が通りません。
つまり、この喩えの意味は、
「せっかく仏教の教理を学んでも、学んだとおりに実行せず、やりたい放題にしていたら、牧童が自分の管理する牛を数えずに、自分と関係のない他人の牛を数えて、多いの少ないのと言っているのと同じようなもので、とうてい修行の成果を得られません」
と、なるべきです。
牧童が自分の管理する牛を数えるのは、仏教の修行者が、教理を学んでそのとおりに実行するのと全く同じことであり、それが悪いなどと誰が言うのでしょうか。
牧童が、他人の牛を数えて悪いのは、自分の管理する牛を数えないで、自分に関係ない他人の牛を数えて、うちの牛より多いとか少ないとか、無駄なことをやっていると、自分の牛の管理がおろそかになるからであり、これが、修行者が教理を学んでも実行しない場合と同じだ、といっている筈です。
もし「他人の牛」を預かっても、自分のものではないから、数える必要がない、というなら、そんな「不道徳」な話はありません。
このように考えると、この「他人の牛を数える」という「喩え」は、「間違っている」というべきですが、それは、お釈迦様が間違えたのでしょうか、それとも長老や、多くの解説者が間違えたのでしょうか。
漢訳から見るかぎり、「他人から預かった牛」とか「雇い主の牛」というニュアンスは全くありませんから、あるいは、パーリ語の原文が、そうなっているのかも知れません。
その場合は、お釈迦様の「間違い」か、「法句経」を伝承した人の「間違い」ということになります。
もし、何も「間違いはない」というなら、仏教は、銀行はじめ、あらゆる預託に関する職業を否定している、ということになりますし、借りたものに対する責任は負わない、ということになります。
仏教に限らず、「修行」とは、他人の子弟を預かって「修行」させるものなのに、「他人の牛」だから「数えない」、などという話があるものでしょうか。
それでは、どこかの国の「国技」のようになってしまいます。
「他人の牛を数えるな」というなら、「自分の牛を数えろ」というのが「対」になるべきで、つまり、「他人のことより、まず自分のことをしっかりやりなさい」という意味になるはずです。
スマナサーラ長老は、「大乗仏教」の立場から見ても『般若心経』は「間違い」である、などと言っていますが、それこそ「他人の牛を数える」ようなものです。
「部派仏教」のなかでも「上座部」と「大衆部」ではまるで「教理」が違うし、「上座部」から出た「説一切有部」など、全く「上座部」とは異なる主張です。「大乗仏教」のなかでも『般若心経』の解釈や評価が異なる宗派があるのは、当然のはずです。
日本の「大乗仏教」で『般若心経』を正しく、というか、筋の通った解釈をしている宗派は、ありませんが、それはまた別の問題です。
「空即是色は間違い」というのは、先に出版された『仏弟子の世間話』(玄侑宗久氏と共著・サンガ新書)という本のなかで、「リンゴは果物である」という喩えもそのままで、発表されたものです。当ブログでは、その「間違い」を指摘しましたが、今回の『般若心経は間違い?』でも同様の主張です。
日本の「仏教」が「空即是色」を解釈できていない、というなら、それは正しいし、「間違い」のない主張ですが、「空即是色が間違っている」というのは、明らかに「顛倒」であり、かつ「間違い」ですし、「リンゴ」の「喩え」も、既述のとおり、明らかに間違った「喩え」です。
それを理解していないから、何度も言うのです。これはすごく滑稽です。間違ったことを何度も発表できるのは、わかっていないからなのです。という話になってしまいます。
龍樹の「空」と、『般若心経』の「空」の違いについては、第十回で述べました。
龍樹の「空」は、あくまでも「縁起」であり、「同時的相互関係と前後的因果関係」であることには間違いありません。
ところが、「火は薪に依存してあるのではない。火は薪に依存しないであるのではない。薪は火に依存してあるのではない。薪は火に依存しないであるのではない」、というように、形式的な「相互関係」で終わっています。
これが『般若心経』になると、「薪という概念は火と言う概念に依存してある。火という概念は薪という概念には依存しない」となり、非常にはっきりした「関係」として「認識」できることになります。
これは、『般若心経』には、「関係」もまた「認識」である、という「唯識」的な考え方が入っているためで、そうでないと、「色即是空」、つまり「色=空」は成り立ちませんから、「空即是色」も成り立ちません。
スマナサーラ長老の言うように、龍樹の「空」はもちろん、その他多くの「大乗仏教」の考える「空」では、「色即是空、空即是色」は、本当のところは理解できないはずです。
サンスクリット語『般若心経』の「色即是空」は、「色は空性である」と訳せるそうですが、「玄奘訳」の『般若心経』では、完全に「色=空」と割り切っており、「法相宗」の大家としての、「玄奘三蔵」が、「唯識的」な解釈を持ち込んで、換骨奪胎した『般若心経』により、「空」の最高レベルを達成した、と観るのが「南華密教」の立場です。
「色=空」とは、「現象=関係」という意味ですが、「色即是空、空即是色」は、「現象を認識することは関係を認識することであり、関係を認識することは現象を認識することである」と翻訳しないと、ほとんどの人は何を言っているか分かりません。
龍樹の「空」について言うなら、「行きつつあるもの」がどうして「行かない」のか、理解できない人がまだ多いようです。
「行きつつあるもの」というのは、単なる「名称」であり、あたかも「行く」という「意志」をもった「主体」であるかのごとく装っていますが、あくまでも「名称」ですから、実際に「行く」という「関係」つまり「現象」ではありません。
もっと分かりやすく、図解すると、まず、白い紙の中央付近に、「行きつつあるもの(進行中)」と書いて、進行方向に矢印を書き加えます。
←← 行きつつあるもの(進行中)
こんな感じです。
書いたら、そのまま、観測してください。
すると、いつまで経っても「行かない」ことに気づかれるかと思います。
つまり「行きつつあるもの」とは、紙に書かれた文字と同じく、「観念」のなかで「行く」ものですから、実際には、いくら観測しても、「行かない」のです。もし「行く」ように見えたら、観測者が勝手に動かしているのであり、「行きつつあるもの」が「主体」となって「行く」わけではありません。
「行きつつあるもの」が「現象」として「認識」されるためには、「行きつつある」という「関係」がなければなりません。つまり、誰が、何時、何処から、何処まで、何のために、どんな方法で、行こうとしているのか、しかも、現在進行中でなければなりません。
今現在、我々は何をしているか、と言えば、この文章を読んでいる、とか、スマホやPCを見ている、などと仮定すると、「現在進行中」の「行きつつあるもの」を「認識」している可能性はほとんどありません。にも関わらず、どうして「行きつつあるもの」という「概念」を持つことができるのでしょうか。
「概念」とは、上の図のような、観念上の紙に書かれた文字や記号であり、それを「実体視」してしまうのが人間の「認識」のありかたです。
人間の持つ「概念」は、ほとんどすべてが「言語」に依存したものであり、どんな「現象」であれ、「名称」という観念上のラベルを貼り付けないと「認識」することができません。
このような考え方は、ソシュールの言語論や、それに続く、「構造主義」的な「認識論」に近いものであり、そのようなスタンスで見ないと、『般若心経』の「空」、つまり「色=空」を理解することができません。
それに対し、数多くある「『般若心経』解説書」に見る「空」の解釈は、「還元主義」的な「空」論にとどまっており、現代の物理学、とくに「素粒子論」などによって理解しようとするものです。
すべての「存在や現象」は「素粒子」のはたらきに「還元」することができ、「素粒子」は「物質」といいながら、じつは「エネルギー」でもあり、「存在や現象」には「実体」がないことを証明したかに見えました。
しかし「エネルギー」に「実体」が「有る」か「無い」かは、誰にも証明できませんから、相変わらずの水掛け論には違いがありません。つまり「一切皆空」のパラドクスから逃れられません。
それより何より、肝心な「色即是空、空即是色」の説明には、全く役に立たず、スマナサーラ長老のように「空即是色は間違っている」という人が現れると、何の反論もできません。
龍樹の「空」は、「火と薪」の喩えに見るように、「還元論」的なレベルにとどまっているのですが、「行くものは行かない」のほうは、「認識論」で考えないとうまく説明できませんし、本来なら、そのような発想が出てこない筈ですから、龍樹の「空」には、どこか「認識論」的な考え方を窺がうことができます。
ところが、龍樹の説明は、「行くもの」には「行く働き」がないから「行かない」という「還元論」であり、「一切皆空」のパラドクスから逃れることができません。
もし、龍樹が、「色即是空、空即是色」を知っていたら、あるいは、現代のような「認識論」を知っていたら、「行くものは行かない」ことの説明には何の問題もなく、今日の混乱は無かったことでしょう。
<次回に続く>『般若心経は間違い?』の間違い(十四) 無我と輪廻
より転載
南華さま
『般若心経』(十三)を拝読しました。
いや〜、むずかしいですね。何とも言えないですねぇ。判断を保留するほかないところばかりです。
> 梵語のテキストもいろいろあるのでしょうか。
わたしも詳しく検討したことがないのでわかりませんが、いくつか校訂本が出ています。
また、漢訳も七〜八訳ありますね。
おっしゃるような「色性是空、空性是色」という訳ですと、単純にサンスクリット語で置きかえますと「色性」は「ルーパター」になるのかなと思いますが、訳した原文がどうだったのか、もはやわかりませんね。
うーん、拝読すればするほど、確信もって言えることがなくなってきそうです。テキストが揺れているのが、いちばん不安ですね。
玄奘訳で解釈する、というような南華さまの姿勢が、すっきりしているように思いました。
南華さまの解釈には、かなり西洋的な思考が見られるように思いますが、意識的なのかしらと思ったりしています。あれこれ、雑然とした感想で申しわけありません。
また、部派仏教の解釈も部派の立場を守っていますので、南華仏教ととくに対立しているわけでもないかしらとも思いました。
どのように読むかということですから、それぞれ解釈としては成り立ちうるのかなと思って拝読しました。
龍樹の「空」は、般若経典の「空」とは異なるという点についても、考えてみなくちゃと思っています。
まだ、わからないところばかりです。「ハァ!」とため息をつきました秋のたそがれでした。
宿題たくさん、抱えて帰ります。
力作で勉強させていただきます。どうもありがとうとございました。
投稿 管理人エム | 2007/10/20 15:24
マダム・エムさま
ありがとうございます。
ところで、思い出すところがあったので、資料を調べましたところ、「法月訳」というテキストでは、次のようになっております。
舎利子、
色性是空、空性是色、
色不異空、空不異色、
色即是空、空即是色、
受想行識、亦復如是。
これを梵文と対応させると、下記のようになるということです。
rupam sunyata, sunyataiva rupam
色性是空、空性是色、
rupan na prthak sunyata, sunyataya na prthag rupam
色不異空、空不異色、
yad rupam sa sunyata, ya sunyata tad rupam
色即是空、空即是色、
evem eva vedana-samjna-samskara-vijnanani.
受想行識、亦復如是。
梵語のテキストもいろいろあるのでしょうか。
いずれにしろ「色性」「空性」という言葉を排除したところに、玄奘らの意図を読み取れるのです。
投稿 南華 | 2007/10/19 22:34
遅くなって申しわけありません。
精力的なご執筆で、こちらの方がすっかり出遅れしまいました。
これから、読ませていただきます。秋の夜長に読書と行きます!ゴーっ!
投稿 管理人エム | 2007/10/19 18:11
マダム・エムさま
“『般若心経は間違い?』の間違い (十三)”を、公開しましたので、TBさせていただきます。
こちらで教えていただいたことを、早速、使わせていただきました。御礼申し上げます。
龍樹と『般若心経』の関係についても考察してみましたので、ご批評ください。
投稿 南華 | 2007/10/17 10:21
<次回に続く>『般若心経は間違い?』の間違い(十四) 無我と輪廻
『般若心経』−漢訳とサンスクリットの違い 三蔵法師が漢訳した現存最古の般若心経発見
2021-07-19
新刊!
密教秘伝
般若心経
《空と疎外》
掛川東海金著
張明澄記念館 発行
売価 16,000円
PDF版をご希望の方は、お問い合わせください。
序言
『西遊記』でおなじみの、玄奘三蔵法師は、7世紀、唐からインドに取経して、多くの経典を漢語訳し、なかでも、『般若心経』は、大乗仏典の精華と言うくらい名訳とされています。しかし、よく理解されているか、と言えば、実はあまりよく理解されていません。
なかでも、「色即是空、空即是色」という『般若心経』のなかの最も重要な文章は、最も有名であるにも関わらず、理解される、というには程遠いのが現状です。
なかには、「色即是空」は正しいが「空即是色」は間違い、などと、頓珍漢なことを言い出す人たちも現れましたが、『般若心経』を信奉してきたはずの、日本の仏教者たちは、満足な批判を加えることさえできません。
十八世紀、ドイツの哲学者ヘーゲルは「理性的なものは現実的なものであり。現実的なものは理性的である」と述べました。この発言は当時から、批判されるばかりで、今でもあまり理解されていません。
ヘーゲルの言う「理性」は、仏教では「分別」と言いますが、ヘーゲルの言うような理想的なものとは捉えておらず、「分別」こそが「苦」の原因であるとします。
「色即是空、空即是色」をヘーゲル風に言い換えると、「現実と見えるものは分別されたものであり、分別されたものは現実と見えるものである」ということになります。つまり、自分が「分別」して「現実」と見えるものを、そのまま「現実」と思い込むから、「苦」が生ずるのです。
2世紀、インドの仏教者、竜樹は、「一切は空である」と、述べましたが、本人も論じているように、「すべてが空」では、矛盾が生ずることがあります。
その点、「唯識」仏教(法相宗)の大家である玄奘三蔵訳『般若心経』では、「一切が空」とは言わず、「五蘊皆空」と述べており、竜樹のような矛盾が生じません。
「唯識」レベルで書かれた経典である玄奘訳『般若心経』を「空」論のレベルで理解しようとすることには無理があり、最低でも「唯識」レベル、できれば「密教」のレベルで、つまりは「唯識」論を踏まえた上で、あらゆる知識を総動員して「緊密」に読み解くことが必要です。
「密教」の「密」とは、「緊密」のことであり、「秘密」という意味ではありません。
『般若心経』の「空」は、ヘーゲルの「疎外」と似ていますが、むしろ、マルクスの「疎外」と等しいものであることを、本書をお読みいただければ、お解りいただけるかと思います。
2021年 辛丑 掛川東海金
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『般若心経は間違い?』の間違い(一) 空即是色 般若心経を理解する 2007-09-11
『般若心経は間違い?』の間違い(二)照見は明らかにして見せること
『般若心経は間違い?』の間違い(三)Apple is a fruit.
『般若心経は間違い?』の間違い(四)無我=空なら色=無我
『般若心経は間違い?』の間違い(五)「空」を悟れば「苦」が消える
『般若心経は間違い?』の間違い(六) 法=規範と記述
『般若心経は間違い?』の間違い(七) 中村元さんの間違い?
『般若心経は間違い?』の間違い(八) 密教と記号類型学
『般若心経は間違い?』の間違い(九)龍樹「一切皆空」のパラドクス
『般若心経は間違い?』の間違い(十) 中観(一切皆空)と般若心経(五蘊皆空)
『般若心経は間違い?』の間違い(十一)空即是色という呪文
『般若心経は間違い?』の間違い(十二) 悟りのイメージと効用
『般若心経は間違い?』の間違い(十三) 竜樹の「空」と般若心経の違い
『般若心経は間違い?』の間違い(十四) 無我と輪廻
『般若心経は間違い?』の間違い(十五) その1 苦=空=自己疎外 2007-10-31
『般若心経は間違い?』の間違い(十五) その2 10年経っても反論できない? 2007-10-31
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