しかし、役に立つ話は無駄話ではありません。
「雷」については、1752年、アメリカの政治家で科学者のベンジャミン・フランクリンが、「凧」を使って、「雷」が「静電気」で起ることを確かめました。
「雷」が「静電気」であることが分かったため、人類は「雷」の被害からずいぶんと解放されました。「避雷針」の発明です。
一般的に「避雷針」は、「アース」することによって、「雷」の電気を地下に逃がすものと思われています。それも間違いではありませんが、実は、「避雷針」には、「静電気的シールド」という原理により、「雷」の発生を抑制する働きがあるのです。
「静電気シールド」は「ファラデーシールド」とも呼ばれ、電子部品を「静電気」から守る「静電気シールドバッグ」などにも利用されています。
ベンジャミン・フランクリンは、雷雨の日に「凧揚げ」をし、危険を冒して「雷」が「静電気」である、という「仮説」を証明しました。
いったい、それが何の役に立つのか、当時の人々は理解できませんでしたし、フランクリン自身だって、すべてを予知していたわけではなく、もっぱら、彼の知的好奇心が、彼を「冒険」に踏み切らせたのであり、必ずしも「道徳的」な動機で、「凧揚げ」をしたわけではありません。
それに、これだけで、「雷」のメカニズムがすべて解明されたわけではなく、「イオン」のような、つまり「地球の重さをグラム単位で量る」ような、基礎科学の発達によって、ようやく「避雷針」という発明が可能になったのです。
それに、「どんな場所に逃げればよいか」だけのことなら、「雷」のメカニズムなど、知る必要がありません。
必要なことは、雷がどのような条件で落ちているか、また落ちていないかを、徹底的に統計を取り、落ちる確率が大きい条件を排除し、小さい条件を取り入れることで、充分に「雷」を避けることができるようになります。
むしろ、「雷」が「電気」であることが知られたために、「雷」は「金属」のものに落ちやすいという、間違った常識が生まれ、かえって被害に遭う例が数多くあります。
実際には、「雷」は、「尖ったもの」に落ちやすいことが、「統計的」にわかっています。すると、樹木の下などに立つことは非常に危険であり、かといって、広野を走って逃げるくらいなら、その場に伏せたほうがよほど安全ということになります。
タイやスリランカなどでは多く見られる、「仏塔」なども「尖ったもの」ですから、もしかしたら「雷」が落ちやすいのかもしれません。あるいは、石造で先端や全体に金なども使われていますから、導線がなくても、アース状態になり、「プラスイオン」を空中に放出して、周囲を「雷」から守っている可能性もあります。
日本の法隆寺の五重塔は、八百年間落雷に遭っていないと言われます。塔の先端に九輪と呼ばれる、丸い金属の飾りがついているのですが、実はここに、鉄の鎌が4本挿してあり、雷よけのおまじないになっているそうです。ただし、アースされているとも思えないので、「静電気シールド」かどうかは分かりません。
「科学」は、人間にとって「役に立つ」ものですが、「役に立つ」という目的ばかり先行しますと、もっぱら「利益」優先となり、特に儲かる「兵器」などの開発に使われるようになります。
「科学」が発達する原因は、人類の「知的好奇心」にあり、「役に立つ」という「道徳」ではありません。
もし、仏教者が「科学」に「道徳」を求めるなら、まず第一に「殺生」に使わせないことであり、殺人の「役に立つ」ことがないように戒めるべきであり、核兵器などには当然反対すべきです。
このブログでは、ここまでだけでも〔十回〕にわたり、スマナサーラ長老の著書『般若心経は間違い?』について、その「間違い」を指摘してきました。
すると、読者のなかには、私どもが、長老を馬鹿にしたり、「大乗仏教」のほうが「小乗仏教」よりも正しい、という主張をしているかのように思う人がいるかも知れません。
しかし、長老の『般若心経』に対する批判は、漢訳『般若心経』に関しては、「間違い」と言わざるを得ないものの、和訳『般若心経』に限れば、非常に妥当で、目の付け所が良く、特に「空即是色は間違い」という主張に対して、納得できる反論どころか、筋の通った反論を展開したものは、私の知る限り、本ブログ記事を除いてひとつもありません。
次に引用するところは、日本の「大乗仏教者」が、「しょせんは戒律を守るしか能のない小乗仏教」などと、馬鹿にして通り過ぎそうな主張ですが、ならば、きちんと答えることができるのか、というと、「空即是色」すら説明できない「仏教者」に、答えられるわけがありません。
ですから語るならば、役に立つように語らないといけないのです。「こうしなさい」という提案がないといけない。ただ観念的に「苦集滅道という四聖諦はない」という権利は誰にもないのです。言うべきなのは「苦集滅道はこのように理解してください。そのほうがあなた方に役に立ちますよ」という慈しみからの提案です。
私は『般若心経』の作者に聞きたいのです。「あなたは私に何を言っているのか?お釈迦さまが存在の秘密を全部ばらしてくれたのに、それが無いといとも簡単に言えるのか?」と。(P.110~111)
それでは、『般若心経』の「教え」は、どのように「役に立つ」のか、「どうしなさい」と言っているのか、長老に対して、何を伝えようとしているのか、解明したいと思います。
その答えは、『般若心経』の冒頭に、すでに表現されています。
観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。
照見五蘊皆空。度一切苦厄。
「観自在菩薩」とは、「観音菩薩」とも言われるように、「虚心に人の話を聞くことができ、柔軟で囚われのない、自在な心で物事を観ることができる修行者」という意味です。「修行者」といっても、すでに「自在心」を持っており、つまりは「空」を悟っていますから、さらに、人々を「悟り」に導くことができ、いずれは「仏陀」とか「如来」になれる、非常に高度なレベルの修行者です。(部派仏教では認めていない、とかいうことは、ひとまずおいて下さい)
「行深般若波羅蜜多時」は、「深遠なる智慧の完成の行を行ったとき」、つまり「お釈迦様が初めて悟りを開いたとき」と同じシチュエーションと考えたら良いでしょう。あるいは、そのときのお釈迦さまのこと、と考えても同じことです。
「照見五蘊皆空」は、「人間であること(自己と他者を分別すること)の五つの構成要素(苦の原因)は、すべて空であることを、明らかにして見せてくださり」であり、観自在菩薩が新たに見た、というのではなく、衆生に対して明らかにした、という意味です。
「度一切苦厄」は、「一切の苦しみや災難をから人々を救うこととなりました」となります。
この、二句を合わせた意味は、「肉体と心によって自己と他者とを分別することが苦の原因であり、自在な心で、物事に囚われない認識を持つことができれば、あらゆる苦の原因から解放される」ということになります。
「人間であること」とは、「自己」と「他者」を「分別」できる「認識」を持つことができる、つまり「自己」という「意識」を持っていることが「人間であること」です。
「自己」という「意識」を持つことで「類」という概念や「他者」という概念を持つことができるようになり、逆に「他者」という概念によって「自己」という「意識」が生まれます。
それまで、自分の「肉体」は、自然の一部であり、自然が自身の一部だったのですが、「自己」という「意識」の獲得とともに、自然は、自分の身体ではなく、巨大な「他者」に変化します。
また同時に、自分以外の人間たちも、「他者」であり、かつ「同類」と「認識」するようになります。
このように、人間が「自己」を獲得することを「疎外」または「自己疎外」と言います。
人間が、自然から「疎外」され、「自己」を「疎外」し「他者」から「疎外」され、ここから、すべての「苦しみ」が生まれます。
「疎外」とはすなわち「苦」のことであり、「疎外」の原因は、人間に特有の、「自己」と「他者」という「認識」もしくは「意識」によるものです。
つまり、「自己」と「他者」を「分別」するものは、「意識」であり、「意識」と「肉体」の集合体である「五蘊」こそは、「苦」の原因ということができます。
そして、「五蘊」が「空」であるということは、人間が「現象」として「認識」できるものは、すべて「肉体」と「意識」によって生じる「関係」という「認識」であり、人間の「苦」とは、すべて「関係」でしかありません。
つまり「苦」とは「空」であり、「関係」でしかないと知ることによって、本質的な「苦」の原因を取り除くことができます。
たとえば「自己」という「関係」は「他者」という「関係」によって生じており、「自己」と「他者」を対立させる「分別」こそが「苦」の原因であり、そのような「分別」を消し去ることで、「苦」を消し去ることができます。
「分別」を消し去ることで「苦」も消えることは、誰でも理解できそうですが、その通りに行動しようとすると、なかなかできるものではありません。
たとえば、同じお釈迦さまの教えを受け継いだ「仏教」なのに「大乗仏教」とか「小乗仏教」とか「部派仏教」とか、「分別」することによって対立し、さらに、自派や自派の教理に「執着」し、他派を排撃することに血道をあげ、かえって「苦」の原因を増やすことになりました。
ならば、「知っているとおりに行動できる」ようにすれば、人間の「苦」は消し去ることができる筈です。
仏教では、「知っているとおりに行動できる」ことを「悟り」といいます。といっても、「知っていること」が間違っていたら、そのとおりに行動しても、かえって問題が大きくなるかも知れません。
すると、「悟り」には「正しい知識」が、絶対に必要であり、そのため、「仏教」には、「五蘊」「十二処」「十八界」「十二縁起」「四聖諦」などという「法」があり、「苦」の原因がどこにあり、どうしたら「苦」を消し去ることができるかを学ばなければなりません。
なかでも、「五蘊」には、その他の「法」がすべて含まれており、「十二処」と「十八界」は、ただ「五蘊」を、より詳しく分類したものに過ぎません。
また「十二縁起」は「五蘊」が「苦」の原因であることを、展開して、空間的、かつ、時間的に述べたもので、「五蘊」からはみ出すものではありません。
「四聖諦」は、もっと具体的に「苦」の原因と解決法を示していますが、「五蘊」が「空」であることを完全に理解し、かつ、そのとおりに行動できれば、つまり「五蘊」が「空」であることを「悟り」さえすればよく、結局は「五蘊」から一歩も踏み出すものではありません。
舎利子。
色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。
受想行識亦復如是。
「舎利子」とは釈迦の弟子で「智慧一番」といわれた「サーリプッタという人のことです。ここでは「観自在菩薩」が「舎利子」に対し、「空」について説いているのですが、「サーリプッタ」は「阿羅漢」で、新米の「観音」などより格上だとか、「観自在菩薩」は「如来」に次ぐ高貴な仏だとか、「分別」や「執着」による対立が激しく、前述のように、ここでの「観自在菩薩」は「悟り」を開いたお釈迦さまの仮の姿としたほうが良いと思います。
まず、「色不異空、空不異色」とは、要するに「色」と「空」は同じである、ということです。
次の、「色即是空」と「空即是色」は、反復ではなく、意味が異なると、主張する人がいますが、それでは、そのまえの「色不異空、空不異色」は、いったい、どう解釈するつもりなのでしょうか。
何度も述べているように、「色」とは、「肉体を通じて認識できるあらゆる存在や現象」のことであり、「空」とは「同時的相互関係と前後的因果関係」(の認識)のことです。
「色」と「空」が同じ、ということは、「肉体を通じて認識できるあらゆる存在や現象」とは「同時的相互関係と前後的因果関係」を認識しているに過ぎない、ということになります。
「色」は単に「肉体」と訳されたり、逆に「物質的現象」と訳されたりもしますが、どちらも間違いとはいえませんが、どちらも正しくありません。
「色」は「名色」と同じ、と看做すのが最も妥当な見方であり、もともと「肉体」から「受想行識」に入る「情報」のことですが、「受想行識」に入ると「名称」や「概念」をともなう「認識」に変化しており、「名色」と呼ばれるようになります。
「色即是空、空即是色」というのは、「色不異空、空不異色」と全く同じことで「色と空」は等しい、という意味以外のなにものでもありません。
「空即是色」の意味は、次のようなもので、どの表現をとっても字数が多いか少ないかだけで同じことです。
「同時的相互関係と前後的因果関係」であるものは、「肉体を通じて認識するあらゆる存在と現象」であるものである。
「関係」であるものは「現象」であるものである。
「関係」の認識は「現象」の「認識」である。
「関係」は「現象」である。
「五蘊」のうち、特に「色」だけを取り上げて、しつこく「空」と等しいと言っているのは、「受想行識」に入る情報は、すべて「肉体」を通じた情報、つまり「色」に依存するものだからです。
生まれつき持っている「業」とか「テレパシー」などは、「肉体」を通じた情報とは言えないではないか、と思う人もいるかも知れませんが、もし「生まれつき」「業」を持っていたとしても、おそらく、受精より前から持っていることはできませんし、「テレパシー」も脳の特殊な機能と考えることができますから、やはり「色」からの情報と言うべきです。
「受想行識亦復如是」は、「受想行識」も「色」と同じく「空」に等しいものである、という意味になります。
訳すと、「認識することとは、関係を認識することであり、現象を認識することに等しい」ということになります。
「受・想・行・識」を切り離して、「受即是空」「想即是空」「行即是空」「識即是空」と読みたい人もいるようですが、そうなると、「色=受=想=行=識=空」ということになってしまい、「受想行識」の定義を変えなければいけません。
「受想行識」は、「こころ」と「意識」の機能を表す「法」ですが、「空」であること、つまり「色」という「現象」を「関係」として、つまり「名色」に変換して「認識」するのが「受想行識」であり、「受」の機能、「想」の機能、「行」の機能」「識」の機能、というのは、「こころ」と「意識」の機能を分解して分かりやすくしたものであり、「十二処」や「十八界」のように、いくらでも細かく分類することができます。
「色」や「空」との、相関を考えるなら、「受想行識」と、ひとまとめにして考えるべきです。
実際、『般若心経』には、この後で、「無色、無受想行識」という字句が出ており、「五蘊」は、「色」と「受想行識」とに分けて考えられていることは間違いありません。
人間が「認識」することとは、すべて「関係」を「認識」することであり、「関係」を「認識」することは、あらゆる「現象」を「認識」することなのです。
そして「現象」と思っていることが「関係」に過ぎないことを理解すれば「分別」や「執着」こそが「苦」の 原因と分かり、「自在心」によって「苦」を解消するようになります。
「空を悟る」ということは、あらゆる「分別」や「執着」から自由になり、知っている通りに、行動できるようになることです。
『般若心経』のなかでも「色即是空、空即是色」という文言は、わずか八文字で、「苦」とは「空」である、ということを端的に述べており、いつでも、それを思い出すことができるよう「呪文」という形に編集したものです。
冷静なときなら、仏教徒でなくとも、誰でも「分別」や「執着」に囚われてはならない、くらいのことは理解できているはずです。
ところが、いざというとき、つまり、欲しいものが手に入らないときや、恐怖を覚えるとき、快楽の誘惑に駆られるとき、などのピンチに遭遇したとき、普段と変わらない冷静な判断ができなければ、「空を悟った」ことにはなりません。
そんなときに「色即是空」の一言でも思い出せれば、「いま目の前で起こっていることは、現実ありのままではなく、私の肉体と意識というフィルターを通してみた認識でしかないのだ」
「ただちにこれがすべてと思ってはいけない。見方を変えてみれば、もっと違った状況として認識できるかも知れない」
「今そこにいる異性に魅力を感じる。どうしても手に入れたいと思う。しかし、どうしてこの異性に魅かれるのだろう。何か私の意識に記録された認識やイメージがあるのかも知れない。それが何か分かればこんな衝動は抑えられるかもしれない」
「思考」とは「自問自答」することですから、「色即是空」によって、「現象」は「関係」であることが思い出せれば、次々に「自問自答」する「内なる他者」を呼び出し、冷静で、客観的な目で、遭遇したピンチに対処できるようになります。
逆に最も効率の良い方法は、「色即是空、空即是色」とだけ唱え、同時に「今見ている現象は関係を見ているだけだ」と念じます。声明だけだと意味を考えなくなってしまい、文字通りの「空念仏」になってしまいます。
浄土宗などでは、延々と念仏を唱え続けますが、ついには「自分が念仏を唱えていることを忘れてしまい、阿弥陀如来と念仏と自分が一体になった境地に導かれる」というようなことをいいます。しかし、すぐに効果の出るものではなく、あまり効率の良い方法ではありません。
もう少し記憶の良い人なら、「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色、受想行識、亦復如是」と唱え、同時に「今見ている現象は関係を見ているだけだ」と三回念じます。
もっと記憶の良い人なら、「観自在菩薩」から「不増不減」まで唱え、同時に「今見ている現象は関係を見ているだけだ」と六回念じます。
さらに記憶の良い人なら、「観自在菩薩」から「亦無得」まで唱え、同時に「今見ている現象は関係を見ているだけだ」と十二回念じます。
ただし、「無色。無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色声香味触法。無眼界。乃至無意識界。無無明。亦無明尽。乃至無老死。亦無老死尽。無苦集滅道。無智亦無得」というのは、「五蘊」「十二処」「十八界」「十二縁起」「四聖諦」など「法」と呼ばれる「苦」の原因について「無い」、つまり「苦」が解消される、と言っており、「教学」として学んだ上で、意味をよく理解して唱えないと、効果がありません。もっとも、仏教用語を覚える効果くらいはありますが。
「以無所得故」から後は、読んで、よく理解しさえすれば、覚える必要はありません。もちろん、唱えてはいけないということもありません。
「舎利子。是諸法空相。不生不滅。不垢不浄。不増不減」とは、「舎利子よ、このもろもろの存在や現象は関係でしかなく、関係抜きには、生じたり滅したりはしないし、穢れたり清らかでもないし、増えたり減ったりもしません」
言い方を変えれば、「すべてが関係でしかないのだから、生じたのかそれとも滅したのか、汚いのかそれとも清いのか、増えたのか減ったのか、などという、分別もない」という意味になります。
「分別」は「苦」の原因であり、「分別」と「執着」から自由になれば、人間の「苦」の多くは解消されることになります。
「生じる」という「現象」も、ただの「関係」であり、そのような「概念」として「認識」するだけのことに過ぎません。
たとえば、人間の「受胎」「養生」「長生」「沐浴」「冠帯」などのうち、どの時点を「生じた」と言うのでしょうか。
もし、
もし、
もし、
もし、
つまり、何かが「生ずる」ことは、別の何かが「滅する」ことであり、「滅する」ことは「生ずる」ことでもあります。
「長生」が「生」で、「老死」が「滅」などというのは、「現象」は「関係」としてしか「認識」できないということの証明であり、言い方を変えれば「思い込み」に過ぎないということです。
人間は「生滅」のような純化された、つまり何が「生滅」するのかさえわからない抽象的な「概念」としての「言語」を、イメージ化して「意識」に記録してしまい、「長生」なら「生」、「老死」なら「滅」というふうに、よく考えたら、何が「生じた」のか、何が「滅した」のかさえ不明のまま、「認識」してしまうのです。
「生滅」とは「見かけ」だけの「現象」であり、現代では、物質が消滅するとエネルギーに変化することが知られていますが、何かが「生ずる」ことは、必ず、何かが「滅する」ことでもある、ということは、「分別」や「執着」のない「自在な心」で見れば、つまり「空を悟る」ことで、得られる「智慧」と言えます。
「不垢不浄、不増不減」も、「不生不滅」と同様に考えたらよく、ここまでの話を理解されていれば、誰でも当てはめることができるはずです。
「悟り」とは「智慧を得ること」だといわれますが、「智慧」であって「知識」ではない、ということが、よくお分かりかと思います。
ならば、「知識」は必要ないかというと、そうではないことは、既に述べたように、持っている「知識」が間違っていたら、いくら「智慧」を働かせても、間違った行動をしてしまいます。
「知識」とは何かといえば、「情報」を取捨選択し、系統だてて整理されたものを言います。
さらに、「知識」のなかから、自分にとって役立つものを取捨選択して使うことを「知恵」と言います。
「情報」から「知識」に、「知識」から「知恵」につなげて行くものが「智慧」であり、「悟り」によって「智慧」が完成します。
ところが、何もないところから、自分で「情報」を選択し、「知識」にまとめ、さらに取捨選択して「知恵」に変える、などということは、いくら「智慧」のある人でも、できるものではありません。
「仏教」には「教学」というものがあり、「智慧」つまり「悟り」に至るのに必要な「知識」を、整理、集積しており、「仏教」を学ぶことは、「悟り」への最短距離といえます。
是故空中。無色。無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色声香味触法。無眼界。乃至無意識界。無無明。亦無明尽。乃至無老死。亦無老死尽。無苦集滅道。無智亦無得
「ですから、空のなかには、色も無く、受想行識も無く・・・」
と始まるこの部分は、お釈迦様が説いたものといわれ、「仏教」の「教学」の中でももっとも重要とされる、「五蘊」「十二処」「十八界」「十二縁起」「四聖諦」「智慧」「悟り」を、ひとまとめにして「無い」と断じています。
「上座部仏教」、つまりお釈迦さまの教えだけを忠実に守っているという、スマナサーラ長老が怒るのも無理はないのですが、少し冷静になって、見る角度を変えて観ていただかないといけません。
『般若心経』の「教え」は、どのように「役に立つ」のか、「どうしなさい」と言っているのか、長老に対して、何を伝えようとしているのか、その答えは、『般若心経』の冒頭に、すでに表現されています、と最初に述べました。
その「冒頭」とは、
観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。
照見五蘊皆空。度一切苦厄。
つまり「自在心」を持つ修行者「観音」が、深き「智慧」の行を行った時、「五蘊」は、みな「空」であることを人々の前に明らかにしてくださり、一切の「苦」厄から逃れる術を教えてくれました、という意味ですが、どうして「五蘊」が「空」なら「苦」がなくなるというのでしょうか。
既述のように、「五蘊」とは「人間であることの五つの要素」というべきもので、人間は「五蘊」によって、「自己」と「他者」、人類と自然、などの「分別」ができるものです。
ところが、この「分別」こそが、人間にとって「苦」の原因であり、「分別」から生じる「執着」こそが、あらゆる「苦」の元になっています。
つまり、「五蘊」とは「苦」の原因と言えます。
「五蘊」は「色・受・想・行・識」に分かれますが、さらに細かく分類すると「十二処」や「十八界」というものになります。
また、「五蘊」を立体的に展開し、時間的、つまり因果的な要素を加えたものが「十二縁起」です。
すると、「五蘊」「十二処」「十八界」「十二縁起」とは、どれも「苦」の原因を分類整理したものです。
つまり、「空の中には、五蘊も十二処も、十八界も、十二縁起もない」というのは、「空」を理解すれば、「苦」の原因もすべて消えてしまう、という意味になるはずです。
ならば「四聖諦」つまり「苦・集・滅・道」はどうかというと、「苦」は、「苦」そのものであり、「八苦」ともいいます。「八苦」には「生苦、老苦、病苦、死苦、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦」の八項目があります。
「集」とは、「苦の原因」のことで「五蘊」つまり「色蘊、受蘊、想蘊、行蘊、識蘊」の五つを言います。
「滅」とは、「苦を避ける法」であり、「不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒」によって「苦」を避けることができるようになります。
「道」とは、「苦を滅する法」であり、「八正道」ともいいます。「八正道」には「正語・正業・正命・正勤・正見・正思・正念・正定」という八つの項目があります。
なかでも「正語(正しい言葉)・正業(正しい行為)・正命(正しい生活)・正勤(正しい努力)」なら、心がけ次第で、何とかできるものですが、「正見(正しい見解)・正思(正しい思考)・正念(正しい観念)・正定(正しい禅定)」となると、こころがけだけではどうにならず、非常に高度な修行が必要です。
「八正道」の目的は、既に生じてしまった「苦」を解消することですが、「空」を「悟」れば「苦」は生じなくなり、「道」も必要がなくなります。
「道」によって「悟り」を得る、という人もいますが、「空」を理解した人なら、「空を悟る」こともできるはずですから、まずやるべきことは、「空」を正しく理解し、次に「知っている通りに行動できる」ようにするべきです。
仏教では、そのような誤った考え方を「顛倒」と言い、「顛倒」を自覚することによって、突然「悟り」を得ることがあります。これは、特に「禅」に見られる考え方です。
どうも「上座部」の立場はよくわからないもので、「有」とはいわないが「無い」ともいわない、というから「中観」のような考え方かというと「哲学」は良くないなどといいます。
要するに、もっと「実践」的であるべきだ、と言いたいのかも知れません。
確かに『般若心経』には、「実践」の方法は書かれていませんが、「実践」のヒントだったら、見いだすことができます。
それに『般若心経』は、字数が非常に少ないし、「観自在菩薩」とか「大乗仏教」的ではありますが、それ以外は、あまり宗派的な内容が含まれていませんから、『般若心経』を「実践」にどう使うかは、それぞれの「宗派」で考えるべきです。
「南華密教」で言えば、「経典」のなかに『般若心経』も含まれており、その使い方は「呪文的」であり、「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色、受想行識、亦復如是」という、『般若心経』のなかで最も重要な部分だけを暗記し、普段から唱えるようにしますが、意味をよく考えて唱えないと、何の足しにもなりません。
「どんなに素晴らしいものを手に入れたとしても、自分にとっても有用なものとは限らない」
「手に入れるために払う犠牲のほうが大きいのではないか」
「今もっているもの以上に得る必要があるか」
「本当に人生をかけても手に入れるべきものか」
「自分のものになっても今の輝きを保てるのだろうか」
「必要ではなく執着による欲望ではないのか」
「決して手に入らないものを欲しがっているのではないのか」
「手に入れてもかえって苦しみが増えるだけではないのか」
などの疑問が「内なる他者」から湧き起こり、
すると「空を知る」だけでなく、「空を悟る」ことができた人は、「欲しいものは何でも手に入る」ようになります。
もう一度整理しますと、「五蘊」とは「苦」の根源的な原因、「十二処」「十八界」は「五蘊」を詳細に分類したもので、やはり「苦」の原因、「十二縁起」は「五蘊」を展開したもので「因果」による「苦」の原因、「四聖諦」のうち「苦」は「八苦」で、「集」は「苦」の原因、「滅」は「苦を避ける法」、「道」は「苦を克服する法」、ということができます。
ところが、「空を悟った人」は、もう「苦」の原因がなくなり、「苦」を解消していますから、「五蘊」も「十二処」も「十八界」も「十二縁起」も「四聖諦」も、「苦の原因」としては、もう存在しません。
しかし、『般若心経』は、さらに「智慧」も「悟り」も「無い」と言っています。
これは、「彼岸に渡ったら筏を捨てよ」という仏陀の思想に依拠したものと考えることができます。
つまり、「仏教」の目的は「悟り」であり、「悟り」のために「教理」があり、「教理」のために「仏教」があるわけではありません。
「悟り」を得て「彼岸」に渡った人は、「筏を捨てろ」と言われますが、次の人のために、「彼岸」への筋道を示さなければなりません。
「無色。無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色声香味触法。無眼界。乃至無意識界。無無明。亦無明尽。乃至無老死。亦無老死尽。無苦集滅道。無智亦無得」というなかには、わずかな字数のなかに「苦」の原因と克服法が洩れなく含まれており、「捨てろ」と言いながら、「必修」の「教学」であることも示しています。要は、学問にも「執着」しないことが肝心です。
「南華密教」では、このことを「経典研究者」の陥り易い「分別」と「執着」として、「玄奘三蔵」をモデルに『西遊記』という「怪奇小説」のなかに密かに滑り込ませております。
『西遊記』のなかでも「功法修行者」である「孫悟空」は、「空を悟って」いますから、「無分別」で「執着」がありません。
「猪八戒」は別名「猪悟能」といい、「八戒」というとおり、「戒律遵守者」ですから、なかなか「悟り」に達せず、いつも欲が絡んだ失敗ばかりします。
「沙悟浄」は「清浄を悟って」いますから、力はないものの、思いやりややさしさがあり、人々と直接接して「仏教」を広める「寺院経営者」と言う役割を負っています。
「経典研究者」「功法修行者」「戒律遵守者」「寺院経営者」らは、それぞれの立場で「仏教」を究めようとします。
「経典研究者」や「寺院経営者」は、布教には大いに役立つものの、自らが「悟る」のはなかなか難しいものです。
「功法修行者」は、自分が「悟る」には効率がよいものの、布教にはあまり向かず、弟子をとって功法を教えるのが精一杯です。ただ現代日本のように、ヨガや瞑想にいくらでも人が集まる社会では、案外効率が良い方法です。
「戒律遵守者」は、自分が「悟る」のも難しい上に、人に「戒律」を守らせて布教するというのは、相当に無理のある話です。それでも「戒律」さえ守っていれば「苦」の原因からは逃れることができます。
<次回に続く>
より転載させていただきました。
南華さま
素晴らしい力作を二つもありがとうございます。
つい、ガツガツと貪るように、全体を流し読み状態で読んでしまいました。
もう何度かゆっくりとじっくりと読まなければなりません。とりあえず、御礼申しあげます。
スマ長老さまへの批判は、それはそれとして、とくに興味深いのは、南華密教の立場を明らかにされているところです。
ここに南華さまの真摯な姿勢と深い知識とが顕れているように思われ、個人的には非常に興味があります。
まだまだよく読まなければなりませんが、長老さまの疑問である、「空即是色」の解釈は何か?や、あと、呪文の意義への疑問などに、答えようとされているところは、多くの読者のみなさまも知りたいところであり、それに答えるものと思います。
「腑に落ちる」というところまで詰めないと、「わかった」とは言えないのが仏教です。そのために智慧を出しあわねばならないと思っています。なので、たいへんありがたく拝読しています。
それにしても『般若心経』はむずかしいですね。
たくさんの本が出ていますが、「完全に」『般若心経』を解釈できる人は、今のところ、この世界にいないようだというのが、わたしの得た唯一「確かな」感触です。
投稿 管理人エム | 2007/10/13 10:51
マダム・エムさま
「般若心経」(十)、(十一)をTBさせていただきました。
また、ご意見などお寄せくださいませ。
投稿 南華 | 2007/10/13 06:31
早速読んでいただきましてありがとうございます。
>たくさんの本が出ていますが、「完全に」『般若心経』を解釈できる人は、今のところ、この世界にいないようだというのが、わたしの得た唯一「確かな」感触です。
『般若心経』には、大品、小品、に梵語、漢訳、のなかでも、玄奘訳はじめいくつものテキストがあり、それぞれの主旨は同じとは言えず、テキストごとに作者が違う、くらいに考えなければいけません。
「玄奘本」のなかでも「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色、受想行識、亦復如是」が、「南華密教」の「経典」としての『般若心経』であり、あとは付けたしのようなものです。
ところで、インド語の語順は、中国語や日本語とは違うというお話ですが、ならば、梵語の「色即是空」は、「空なるものはすなわち色であるものである」ということになっているのでしょうか。教えてください。
投稿 南華 | 2007/10/14 15:34
また、もう少しブログを拝読しようとしてますが、今日は用事が多くて、中断しているところです。ゆっくり行きます。
> ところで、インド語の語順は、中国語や日本語とは違うというお話ですが、ならば、梵語の「色即是空」は、「空なるものはすなわち色であるものである」ということになっているのでしょうか。
『般若心経』は、ほんとに悩み多き作品で、サンスクリット語にしますと、漢訳では気づかれなかった問題が、じつはあるのです。
多くの学者を悩ませてきたものです。
語順にかんしては、漢訳の語順と同じになっており問題はないのです。
ルーパム エーヴァ シューニャター シューニャターイヴァ ルーパム、…
と読むことができます。
ルーパム エーヴァ シューニャターは、玄奘訳の「色即是空」に相当すると考えられますが、問題なのは、シューニャターとあることです。これは「空性」なのであって、「空である」という形容詞ではなく、女性名詞なのです。
「色は、すなわち、空性である」というのがサンスクリット語の正しい訳ということになります。これは、文として、ふつうではありません。
この解釈をめぐって、今西順吉先生が「空と空性」という論文を書いておられますが、その中で、ネパール系写本には「ルーパム シューニャム」(色は空である)という表現もみられると書いてあります。文法上理解しやすいのはこちらです。
しかし、他の般若経典の検討などから、結論としてやはり「ルーパム シューニャター」という表現が正しいと結論づけております。
この、何とも言えないもやもやしたむずかしさは、「ルーパム エーヴァ シューニャター」の最初の一文に、すでにじゅうぶん込められているような気がします。
ブッダ的には、「色」を主語にもってくることは、何も問題はありません。でも、なぜ、「色は、すなわち、空性である」となるのでしょう?
「空性」も主語に来ることは、ありえないことではないと思われます。ブッダの説く言葉です。
「空性は、すなわち、色である」というこちらの文の方が、むしろ解釈しやすいとも言えます。
いろいろな学者が検討を加えていると思いますが、まだしっかり調べていないので、よくわかりません。
今西先生も、これはたんに文法上の問題ではなく哲学上の問題もふくめて検討すべきであるとして、それ以上の内容は述べておりません。
スマナサーラ長老さまは、これまでの解釈をそのまま使って、それによって批判を加えています。
長老さま自身は、この解釈それ自体に問題があると見ているかどうかわかりませんが、わたしの感触では、そのような事はとうぜんご存じだろうと思います。
その上で、批判されていると思います。
ですから、部派の立場を守ってその枠で批判を加えておられます。
が、それによって、大乗仏教の方でまともに検討を始めたら、いろんな解釈上の問題がブワッと吹き出すとわかっておられるのだろうと思います。
わたしが思いますには、きちんとした大乗仏教の立場での解釈を出してください、という長老さまのメッセージを受けとるべきなのではないでしょうか。そのような意味でおっしゃったと思います。
その意味で、とにかく、きちんと批判に答えようとされているのが、今のところ南華さましかいないのは、さびしいかぎりです。しかし、それだけに、南華さまのご意見は大きな意義をもち貴重なものと思っております。
わたしも、気にはなりますが、これを検討しようとすると、膨大な般若経典をあれこれ探らねばならず、ちょっとため息をついているところです。
ぜひとも、がんばってください。
投稿 管理人エム | 2007/10/14 17:48
お忙しいのに、早速のお答えありがとうございます。
「色不異空、空不異色」についても、梵語ではどんな表現だったのか、よろしければお教えください。
中村元さんの訳も今一ピンと来ないので。
梵語と漢訳の違いという問題は、私どもでも、以前から、“『般若心経』−漢訳とサンスクリットの違い”という記事などで指摘してきたのものです。非常にレベルが違うのです。
「照見」の二文字だけで、「観音」の立場をガラリと変えてしまった、玄奘らによるマジックが施されて現在の『般若心経』があると考えていますが、逆に、先に梵語の『般若心経』があったかどうかすら、定かではないようです。
>これを検討しようとすると、膨大な般若経典をあれこれ探らねばならず
幸い、南華密教では、『般若心経』に関しては、玄奘訳の、しかも前半しか採用しないので、あまり厄介な研究には与しないのです。
その代わり、当時当地の最新最高の知識を組み合わせて、実践的に考えてゆく、というのが、南華密教の立場です。つまり、それが「密乗」というものです。
投稿 南華 | 2007/10/14 22:57
>「色不異空、空不異色」についても、梵語ではどんな表現だったのか、よろしければお教えください。
こんにちは。では、では、「色即是空空即是色」の続きから行きます。
ルーパン ナ プリタック シューニャター
(色不異空)
シューニャターヤー ナ プリタッグ ルーパム
(空不異色)
語尾が少々変わっていたりするのは、後の音の影響を受けるためです。また、格変化をすることにもよります。「ナ」が、否定です。「プリタック」は「異なる」「別異の」という意味です。
>梵語と漢訳の違いという問題は、私どもでも、以前から、“『般若心経』−漢訳とサンスクリットの違い”という記事などで指摘してきたのものです。非常にレベルが違うのです。
やはり、そうなのですか。
>「照見」の二文字だけで、「観音」の立場をガラリと変えてしまった、玄奘らによるマジックが施されて現在の『般若心経』があると考えていますが、逆に、先に梵語の『般若心経』があったかどうかすら、定かではないようです。
なるほど、そうなのですか!そうなると、もう、何を信じてよいかわかりませんね。ここを明らかにするのは、至難のワザですね。。ふーっ。
> 幸い、南華密教では、『般若心経』に関しては、玄奘訳の、しかも前半しか採用しないので、あまり厄介な研究には与しないのです。
賢明な道ですね。現実を重視される方向で、検討されているのですね。なるほど、わかってきましたよ。
こういうたいへんなところを地道に研究するのは、本来、学者の仕事なんでしょうね。
投稿 管理人エム | 2007/10/15 16:29
張明澄記念館 発行
売価 16,000円
序言
『西遊記』でおなじみの、玄奘三蔵法師は、7世紀、唐からインドに取経して、多くの経典を漢語訳し、なかでも、『般若心経』は、大乗仏典の精華と言うくらい名訳とされています。しかし、よく理解されているか、と言えば、実はあまりよく理解されていません。
なかでも、「色即是空、空即是色」という『般若心経』のなかの最も重要な文章は、最も有名であるにも関わらず、理解される、というには程遠いのが現状です。
なかには、「色即是空」は正しいが「空即是色」は間違い、などと、頓珍漢なことを言い出す人たちも現れましたが、『般若心経』を信奉してきたはずの、日本の仏教者たちは、満足な批判を加えることさえできません。
十八世紀、ドイツの哲学者ヘーゲルは「理性的なものは現実的なものであり。現実的なものは理性的である」と述べました。この発言は当時から、批判されるばかりで、今でもあまり理解されていません。
ヘーゲルの言う「理性」は、仏教では「分別」と言いますが、ヘーゲルの言うような理想的なものとは捉えておらず、「分別」こそが「苦」の原因であるとします。
「色即是空、空即是色」をヘーゲル風に言い換えると、「現実と見えるものは分別されたものであり、分別されたものは現実と見えるものである」ということになります。つまり、自分が「分別」して「現実」と見えるものを、そのまま「現実」と思い込むから、「苦」が生ずるのです。
2世紀、インドの仏教者、竜樹は、「一切は空である」と、述べましたが、本人も論じているように、「すべてが空」では、矛盾が生ずることがあります。
その点、「唯識」仏教(法相宗)の大家である玄奘三蔵訳『般若心経』では、「一切が空」とは言わず、「五蘊皆空」と述べており、竜樹のような矛盾が生じません。
「唯識」レベルで書かれた経典である玄奘訳『般若心経』を「空」論のレベルで理解しようとすることには無理があり、最低でも「唯識」レベル、できれば「密教」のレベルで、つまりは「唯識」論を踏まえた上で、あらゆる知識を総動員して「緊密」に読み解くことが必要です。
「密教」の「密」とは、「緊密」のことであり、「秘密」という意味ではありません。
『般若心経』の「空」は、ヘーゲルの「疎外」と似ていますが、むしろ、マルクスの「疎外」と等しいものであることを、本書をお読みいただければ、お解りいただけるかと思います。