奈良では、平城宮跡、興福寺など伽藍の再建事業が進んでいる。その嚆矢であり、また現在も再建活動が続いているのが薬師寺である。
1976 金堂落慶
1981 西塔再建
2003 大講堂復興
2017 食堂(じきどう)再建
昔は、東塔しかなかった。その時、あの薬師三尊像はどこに保管されていたのだろう。
さて、まずは東塔である。「凍れる音楽」と表されていることと、「これは六重の塔ではなく三重塔なんやで」と名解説をする坊さんで有名であった。本当に美しい塔だ。世界にこれだけ美しい建造物があるのだろうか。
続いて西塔だ。
再建からおよそ40年。いい具合に彩色が褪せてきている。東塔と同じ設計だが、いくつか違いがある。西塔には連子窓があるが東塔にはない。これは当初は連子窓があったが途中の修復で東塔ではなくなったということらしい。また、西塔のほうが少し高いという。あと500年もすれば自重により同じ高さになるということだ。何と日本人らしい発想。
この時期、西塔の1階が公開されていたので拝観する。仏陀の覚りから分骨までの4期間を中央4面に彫塑しているのだが、これが凄い。写真不可なので掲載できないが、後から入ってきた若者達が「何だこれ、パネー!」と大声を上げていた。そうだろう、そうだろう。因みに二層に行く階段はなかった。
金堂に行く。
本尊の薬師如来の両脇を月光菩薩、日光菩薩が固める。この三尊、金銅仏である。銅の鋳造に金箔を施しているのだが、火災により金が溶け、銅と一体化したという。お陰で三体とも真っ黒だが表面はやや光っている。その美しい体型と合わせ、不幸が美に転化したと言って差し支えない。日本で最も美しい仏像の一つだろう。
天井の格子に書かれた絵も繊細だ。
薬師如来の台座には、ギリシャの唐草文様、イランの文様、インドの神、中国の四方神獣などが刻まれている。日本がシルクロードの終点と言われる所以だ。
因みに復興された伽藍は殆どが木造であるが、金堂の内陣だけはコンクリート造りになっている。見た目は木製だが触るとわかる。これは三尊を守る為という説明であり納得。しかし5m以上と思われるこの像、火災のときどうやって運んだのだろうか。
食堂は少し趣きが異なる。まず出入口がガラスの自動ドアになっている。
内部北面には、仏教がどうやって薬師寺に伝わったのか、壁画があった。んっ、何で藤原京がでてくるんだ?
続いて玄奘三蔵院に向かう。
扁額にある不東の文字は、苛烈を極めたインド行きで、絶対に中国・東には向かわないという玄奘の誓願だったらしい。ここには平山郁夫のシルクロード大壁画があった。完成まで30年掛かったという。彼の絵はどれも春の香りがする。
院を出ると気の早い桜が咲いていた。墨染桜というらしい。
ついでに、池越しに撮影されるポイントにも行ってみる。突然降り出した霰に苦労しながら歩くと確かにそのポイントはあったが、望遠レンズが必要。スマホではこれがせいぜい。
改めて門前の説明書きを読むと、当初は藤原京に建立され奈良遷都に伴いここに移転したという。元の薬師寺は本薬師寺(もとやくしじ)と言われたらしい。これは行ってみないと。地図で調べるとちょうど真南に20kmの場所にある。
藤原京で言うと南西角に当たる。
行って見ると寺ではなく大きめの民家だった。
しかし庭には大きな礎石が多数あった。
東南には祠のような塚があり、ここにも礎石がある。
南西にも方形の塚があり、ここにも礎石があった。
それぞれ東塔跡、西塔跡らしい。やはりここも薬師寺と同じ伽藍配置だったようだ。
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読み通すには一頑張りが必要かも。
読めば日本史の盲点に気付くでしょう。
ネット小説も面白いです。