奈良を中心に巡っています

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飛鳥の石造物

2020-02-28 20:46:00 | 日記

飛鳥駅からスタート。駅前は道の駅になっているので車で行っても安心だ。



まず駅を出て北の方角、欽明天皇陵を目指す。その隣に吉備姫王墓があり、ここから出土した4体の像を見ることができる。猿石と言われているが、かなり異形だ。




それから案内に沿って歩くと鬼の雪隠があり、少し先の岡上に鬼の俎がある。これらは元は石室と蓋だと言う。




更に進むと道端に亀石が現れる。



そのすぐ先には橘寺があり、境内の隅に二面石がある。猿石と同じような雰囲気がある。



最後は酒船石だが、亀石に近いが山中にあり、行き方が分からない。一度駅に引き返して車で向かった。石舞台から県道15号線を北に向かい、岡寺を過ぎると左側に小さな看板がある。ここから400m歩きになる。



見つかった。結構デカく、スマホでは撮影しにくい。何なんだろう、想像しにくい。


秋篠寺を愛でる

2020-02-27 18:17:00 | 日記

秋篠寺に行くため大和西大寺駅に行く。西大寺には昔行ったことがあるが、塔跡の礎石しか記憶に残っていないので寄っていくことにした。確かに東塔の基壇と礎石があった。



西塔跡もあったが今は影も形もない。



また、東塔と西塔の位置からして金堂が建っているはずの場所には全く別の建物が建っている。境内図を見ると、東塔跡を中心に伽藍が配置されているようにも見えた。



さて、秋篠寺である。北に20分ほど歩くと、上品な山門が現れた。



中に入ると林があり、その下はびっしりと苔が生えていた。これは美しい。



続いて境内に入ると本堂が目に入った。白地に茶褐色の柱と梁が実に奈良らしい。朴訥簡素でありながら、清冽な印象を与える。国宝だという。本堂以外の建物も皆この意匠だった。



いやぁいい寺だ。これはお勧め!



平城宮跡に驚く

2020-02-27 17:16:00 | 日記

朱雀門ができたと聞いていたので、平城宮跡を訪れた。

行ってみて驚いた。僕の知っていた平城宮跡は広大な原っぱに所々何かの礎石が残っているだけだったが、


行ってみると立派なり受付施設があり、その先に朱雀門が立っていた。それよりも入口には遣唐船と思しき実物大の船があって乗船できる。

降りると展示コーナーがあった。随分力を入れている。

受付施設だが、奈良への遷都工事だとか当時の生活の様子など詳しく展示されており、非常に興味深く見させて貰った。


奈良時代は他の場所に何度か都が移されたが、その経緯もわかりやすく図示されている。


  

大満足で朱雀門に向かう。




門の向こうにも朱塗りの大きな建物が見える、その間にも建設中の建物がある。奥まで行ってみると中に入ることができた。



鉄筋かと思ったら、木造のようだ。



また高御座が置かれている。



何だよこの力の入れようは。こんなの一地方自治体の出来ることではない。そう思って掲示板を見ると文化庁とあった。そうか、国がやっているのか、そう言えば今まで見たもの、全部無料だった。

一体どこまでやるんだろうか。



法輪寺と法起寺

2020-02-26 19:26:00 | 日記

法隆寺、法輪寺、法起寺の塔を合わせ、斑鳩三塔というらしい。いずれも聖徳太子またはその子の山背大兄王が創建したと伝わっている。

607年 法隆寺創建

622年 法輪寺創建

638年 法起寺創建

本来は法が起き、輪り、隆んになる順序だが、創建年は逆になる。



法輪寺の伽藍は、近年全て焼け落ちたが、仏像は生き残っている。特に本尊の左右の虚空蔵菩薩立像と薬師如来座像は、飛鳥時代独特の面長な古い形だ。

この寺は地名から三井寺とも言われる。その井戸の一つが発掘されている。狭い路地を行くと、遺跡を見ることができる。



さて、法起寺である。この寺の三重塔は日本で最も古い三重塔として有名であるが、同時に最も美しい仏塔であると思っている。



この塔、下から段々細くなり、第三層の細さはむしろ艶かしい。どうしてこんな美しい塔を作ることができたのだろう。近くに寄って柱を見るとツギハギだらけだ。よくぞここまで面倒を見てくれたか、感激する。



しばらく寺の周りを歩き回り、スマホで撮りまくる





山の辺の道(南行)

2020-02-24 19:48:00 | 日記

今日は久し振りの快晴で絶好のハイキング日和だ。前回の山の辺の道(北行)に続き、今回は石上神宮から桜井市に至る山の辺の道(南行)に挑戦することにした。


石上神宮前から南に折れ、少し歩くと果物の無尽販売所があった。こうした無人販売所は至る所で見られた。



また数分歩くと公衆トイレが。案内を見るとほぼ1kmおきに設置されている。北行きとは大違いだ。



その後は東の山から緩やかに下っている岡の中腹をのんびりと歩く。時々見所があり、丁寧な説明板がある。これが中々楽しく、丁度よい休憩にもなる。時々菜の花畑が広がり、梅も8分咲きだった。



行き交う人も多い。北行では2名としかすれ違わなかったが、今回は数十人のハイカーとすれ違った。

下の写真は景行天皇陵。日本武尊の父だが、その実在性は疑問視されている。



その先には展望台があり、大和三山を一望できる。



これは纏向川。もうすぐ大神神社だ。



ここで気付くが、これまで川らしい川も山もなかった。高低差があまりなく、緩やかにうねる道。つまりここまでは複合扇状地だったようだ。

やがて大神神社に着き、山の辺の道の起点と言われる海石榴市に至った。こう書いて「つばいち」と読む。市の名前ではなく地域の名前だ。奈良には難読地名は多いが、これは極め付けだろう。



そのすぐ先は大和川にぶつかり、ここが終点。552年仏教伝来の地との碑がある。むかし朝鮮から来た船がここに泊まり、交易で賑わったとのこと。別名初瀬というのもそこから来ているらしい。



石上を11時に出てここについたのは3時。やはり4時間の歩きだった。

大和川に向かい上流には長谷寺がある。



昔は汚染度No.1に長く君臨した大和川だが、近年は下水道の整備により、No.3ぐらいに改善しているらしい。


奈良盆地には、南北に通じる道として、東から上ツ道、中ツ道、下ツ道というほぼ直線の道路があるが、この官製道路ができるのは6世紀後半から。唐風の藤原京ができて大和王権が確立し、条里制が始まるころだ。

それまで自然発生的にできていたのが、この山の辺の道ということになるのだろう。