奈良を中心に巡っています

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天岩戸のある日向大神宮

2020-12-28 13:23:00 | 日記
日向(ひむかい)大神宮は、京都南禅寺のすぐ南にあるが、南禅寺からは行けない。大きな道から、車がすれ違えない狭い道をあるいは登りあるいは下りしてようやく辿り着く。途中、車の底が擦れた。

社伝によると485年ぐらいに、高千穂から神跡を移して創建されたとのこと。ここは下宮と内宮があり、京の伊勢と言われる。下宮を登ると小さな太鼓橋があり、澄んだ池を跨ぐ。

内宮は意外と大きく、檜皮葺の立派な社殿だった。


さて内宮を拝むと、左手に少し登る。すると、今回の目的である天岩戸が見える。

近くに行くと中に入れるようなので、背をかがめて進んでみた。

奥には小さな祭壇があり、その向こうは出口になっていた。





洛西竹林公園を散策する

2020-12-18 19:41:00 | 日記
桂川の西に洛西竹林公園がある。この辺りは広大な竹林だったが、住宅化の波で縮小してしまった。それを残すため、1981年に整備されたらしい。

入口でまずキンメイモウソウが出迎えてくれる。黄色の幹に青い筋が混じる、美しい竹だ。公園に入ると、竹の資料館という建物がある。

各種の竹材が陳列され、種子など珍しい標本が見られる。

建物を出ると、回遊式の庭園となり、110種類の竹を見ることができる。

これはクロチク。名前の通り幹が黒い。

こちらはコマチダケ。2m程の高さで、葉が非常に小さく、密集している。所謂 竹とは風情が異なる。

そしてキッコウチク。生えてるのを見るのは初めてだ。

出口を出ると辺りは竹林だった。嵐山のよく整備された竹林ではなく、ここはタケノコを採るための畑であり、農家の所有だ。しかし垣はよく作られていた。

下はかぐや垣。十二単衣を表現しているらしい。

正直、この地は当たりだった。
長々書くと退屈なので止めるが、散策には絶好の地だった。









飛鳥盆地を散策する

2020-12-18 07:36:00 | 日記
飛鳥の中心地は田んぼであり、あまり車で行くには適していない。そこで今回は歩いて回ることにした。
まずは飛鳥の入口、雷丘(いかずちのおか)である。

香久山の西側を南に行くと、右側に小高い丘に当たる。前から気になっていたが、どうやら登れるようなので足を踏み入れてみた。急な坂を登ると、頂上一帯は平たく、台地のようになっていた。

これは古墳ではなさそうだ。しかしかなり人為的な感じがする。

次に水落遺跡に行く。ここは水時計が作られた場所で、定時に鐘を突いて時間を知らせたという。ということは、当時の時間は江戸時代とは異なり、時の間隔は現代と同じく一定だったことになる。
ここから北を見ると、飛鳥盆地を北から塞ぐように天香久山が広がっている。

天香久山が特別な山なのはこれが理由なのだろうか。

続いて盆地の中を散策する。

基本は田圃なのだが、畦には彼岸花が目立つ。ここは蓮華というよりは彼岸花の名所なのかもしれない。
一画では発掘調査が今でも続いていたが、4〜5mは掘り返していた。説明文を見ると遺跡は何層にも重複しているという。これは同定が難しそうだ。

途中、小学生や中学生が幾つものグループになって散策していた。オリエンテーションのようなものらしく、時折先生らしき人がプリントを広げて説明をしていた。





西ヨーロッパの時雨?

2020-12-16 18:40:00 | 日記
このところ時雨雲が続いている。

最初はよく分からなかったが、地上数百mのところに縞状の黒い雲が続き、それが途切れると青い空が覗く。どうやらこの雲の上空には雲がなく、澄んだ秋空が広がっているようだ。
分かったが、中々感覚が追い付かない。太平洋側だと、このような空は経験出来ないのだ。

黒い雲、その上部は光が当たり白または薄いピンク色に輝く。非常に美しい。

そういえば、西洋中世の絵画にこのような空を見た気がする。
ブリュッセルの天気では「晴れ時々雨」という表現をよく見る。彼の地では年間200日雨が降ると言われるが、降水量は年間を通して月50mmぐらい。
暖流の東にある陸地という点で、今の季節、西ヨーロッパに近いのかもしれない。

正暦寺のもみじ

2020-12-14 19:55:00 | 日記
正暦寺(しょうりゃくじ)は、天理市と奈良市の中間辺りを東の山道の終点にある。
昔は大寺だったそうだが、今では一坊しか残っていない。道の両脇には石垣が続き、当時を偲ばせてくれる。
この寺が有名なのは紅葉である。夏にも訪れたが緑紅葉に、さぞ秋は綺麗だろうなと思った。


今回訪れてみるとほぼ紅葉に覆われていた。紅葉というと、あまり大きくならない。根本で直径20cm、高さで4-5mという印象があるが、ここの木は大きい。密集しているので迫力が有る。


11月の中頃から、奈良から臨時バスが出ている。

ところで、奈良では廃寺や規模縮小の寺が多い。石上神社を南に700m行ったところに内山永久寺跡がある。当時は奈良の3大寺院に数えられていたそうだが、現在では池を除き完全に廃棄され、柿畑となっている。


廃仏毀釈の波に飲まれたと書いてあるが、これは政府の政策ではない。政府は明治元年に神仏分離令を出したが、廃仏とは言ってない。寧ろ民衆が積極的に寺を壊し、仏像や経典を廃棄し、または売り払った。
この運動は明治4年まで続いたらしい。

このような短期間で何故蹂躙が容認されたのか、また破壊を免れた寺も多いのか、疑問が残る。
当時、寺は特権階級であった。寺領を有して経済的基盤があり、戸籍を管理していた。そこには賄賂などが横行して腐敗が進んでいたという。それでも、祖先の墓を管理し供養する寺を何故こんな短期間に打ち壊したのか、これは相当、民衆に嫌われていたからだと推測している。
それでも、神仏習合に関係なさそうな、例えば興福寺も、五重塔を薪用に25円で売りに出したとの記録がある。
明治維新は一種異様な時代である。