「大磯虎ケ雨」歌川広重作東海道五十三次より
大磯小余綾を後に東海道を道なりに20分程歩くと前方右側に旧三井別邸跡がある城山(じょうやま)が見えて来る。東海道を挟んでこの城山の南側に旧吉田茂邸地区がある。吉田茂邸は、三井別邸よりも やや狭いが、周辺を林に囲まれ、吉田茂首相が晩年を過ごした美しい邸宅である。この邸宅は平成21年に火災で焼失したが、平成26年から大磯町によって整備再建が進められ、ようやく復旧されたもので、残念ながら公開前で内部を見ることは出来なかった。内部公開は、平成29年4月1日から始まることに成っている。
吉田邸は、東海道道筋から少し奥まっており、入口の兜門を潜ると邸内の景観が一望に現れる。この兜門は、内側から屋根の部分をみると屋根の両側にしろこ部分が現れるよう円形に切り欠かれた珍しい形状になっている。
(吉田邸の母屋を正面から見た状態:手前に心字池に建つ石塔が見える)
(前庭前の心字池の全容)
兜門を入った左側にある中池のそばに大正天皇行幸碑がある。かって大正天皇も見た庭園でもある。庭園の南側の丘に七賢堂が建てられており、岩倉具視、大久保利通、三条実美、木戸孝允、伊藤博文、西園寺公望、吉田茂の写真が祀られていたと言う。
(七賢堂)
この丘を上り切ると相模湾を一望できる頂上に至る。この眺望の良い場所に吉田茂の銅像がサンフランシスコに向いて立てられている。第二次世界大戦を終結させた「サンフランシスコ条約」の締結に携わった功績を讃えたものであろう。
今回は、旧三井別邸に立ち寄る時間が無かったが、神奈川県立城山(じようやま)公園は、両者を含めた総称として指定されている。大磯の小余綾から城山までの間には、幕末から明治に至る、時代を象徴する人物が別邸を構えている。後藤象二郎邸、村井吉兵衛邸を初め徳川邸、伊藤邸(滄浪閣)、沖邸、陸奥邸、鍋島邸、大隈邸、西園寺邸、池田邸、清水邸、伊達邸等の旧邸跡が残されている。大磯は和歌の時代からの文化的色彩に加え、政治とも縁の深い土地柄であったとも言える。
大磯八景碑として残された歌碑は、次のようなものである。
いさり火の照ケ崎までつづく見ゆいかつり船や今帰るらん (照ケ崎の帰帆)
さやけくも古にし石文照すなり鴫立沢の秋の代の月 (鴫立沢の秋月)
小松原けむるみどりに打ちはれて見わたし遠く小余綾の浦 (小余綾の晴風)
くれそめて紫匂ふ雪の色をみはらかすなり富士見橋の辺 (富士山の慕雪)
霜結ぶ枯葉の葦におちて行く雁の音寒し唐が原 (唐ケ原の落雁)
高麗山に入るかと見えし夕日影花水橋にはえて残れり (花水橋の夕照)
さらぬたに物思はるる夕間暮きくぞ悲しき山寺の鐘 (高麗山の晩鐘)
雨の夜は静けかりけり化粧坂松のしづくの音ばかりして (化粧坂の夜雨)
大磯は、比較的狭い町ではあるが、色々な意味で、歴史的、文化的、政治的に名勝と言われるに相応しい土地であると言えるのではないかと考えられる。
(平成29年3月27記)
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