俳句つれづれ帖(子規の庭)
「子規の庭」は、奈良東大寺の北西、東大寺旧西大門跡付近から国道369号線沿いに国宝転害門方向へ徒歩で15分程にある日本料理店・天平倶楽部(奈良市雑仕町)に隣接して策定されている。同店は、江戸末期から明治・大正にかけて奈良を代表する老舗旅館(旅籠)として有名であった「對山楼・角定」の跡地に所在している。この對山楼は、明治時代には、伊藤博文、山県有朋、岡倉天心、滝廉太郎、宮澤賢治など、著名な政府要人や学者、文人などが止宿した名旅館であり、もと「角定」としていた旅館名を山岡鉄舟が「對山楼」と命名したと伝えられている。
正岡子規も松山から東京への帰路、明治28年10月26日から4日間滞在し、この近辺を散策しながら多くの句を遺している。思えば、奈良との奇しき縁であった。同年、日清戦争の従軍記者として戦地に赴いた子規は、帰国の船中で喀血し、神戸の病院で小康を得た後、当時松山中学の英語教師をしていた漱石の下宿(愚陀佛庵)に50日程滞在し、俳句三昧の日々を共にする。子規にとって最後の旅行となった奈良の旅は、親友の漱石から貰った選別の10円によって実現したものと言われ、この運命の10円によって、子規の俳句の中で最も有名な「柿食へば鐘がなるなり法隆寺」と言う句が遺された。
「子規の庭」は、子規の23歳の折りの随筆『筆まかせ(明治23年)』の中に、「書斎及び庭園」と題して自らの理想の庭を記述し、簡単な設計図まで描いていた。「子規の庭」は、それに基づいて、子規の妹・律の孫である造園家(樹木医)、正岡明氏によって平成18年に作庭されたものであり、子規が理想とした「秋の野草を植ゑ、皆野生の有様にて乱れたるを最上とすべし。すべて日本風の雅趣を存すべし」と言うデザインコンセプトが見事に活かされいる。また、「子規の庭」の中心部には、子規も見たであろうトヨカ柿の古木が現存しており、この古木越しに見える東大寺大仏殿や若草山が借景となり、時代を超えて今も変わらぬ奈良の風情を感じると共に、「子規の庭」に見る子規の詩情や俳句感の一端を知ることも出来る。
子規は、無類の柿好きであったと伝えられる。「柿食へば鐘がなるなり法隆寺」の句は、「法隆寺の茶店に憩ひて」との前書があるが、對山楼滞在中にそのヒントを得ていたのではないだろうか。子規の随筆『くだもの(明治34年)』には、その折りの「御所柿を食いしこと」と題した一篇が収められている。
「柿などといふものは従来詩人にも歌よみにも見離されてをるもので、殊に奈良に柿を配合するといふ様な事は思ひもよらなかった事である。余は此新しい配合を見つけ出して非常に嬉しかった」と、新しい発見の喜びを述べた上で、待望の柿を賞味する。10年程、御所柿を食べていなかった子規が宿の女中に所望すると、大鉢に溢れんばかりの御所柿を持ってきて剥いてくれる。
この時の印象を、「柿も旨い、場所もいい。余はうっとりとしてゐるとボーンといふ釣鐘の音が一つ聞こえた。彼女は、オヤ初夜(そや)が鳴るといふて尚柿をむきつゞけている。余は此初夜といふのが非常に珍らしく面白かったのである。あれはどこの鐘かと聞くと、東大寺の大釣鐘が初夜を打つのであるといふ」と述べている。
このような情感が法隆寺参詣の折りに結実したのではないだろうか。
子規の庭への想いと柿への愛着を具現した「子規の庭」の句碑には、直筆の書体で次の句が刻まれている。
秋暮るる奈良の旅籠や柿の味 子規
(追記)
「子規の庭」を訪れたのは、丁度秋の暮方、秋時雨の中での観賞であった。正に、掲記写真の情景が子規の句にぴったりするような日であった。下記は、呑舞の旅吟から、「子規の庭」にて。
借景の若草山や秋時雨 呑舞
御所柿の高見に聳ゆ三笠山 呑舞
平成28年9月24日記
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