白い大きな角封筒が届いた、宛名は私である。
時たま香港から投資勧誘の郵便物が届くけど、それとは雰囲気が違う。封を切ると、晴れた雪山をバックにスキーヤーが雪煙を上げている写真と文字がある。
WIR FEIERN IN WEISS.WIE IMMER VON OKTOBER BIS MAI.
DIAVOLEZZAとかMUOTTAS MURAGLの文字があるのできっと観光案内だろう。
よく見ると相手の住所に St.Moritz と書いてある。思うにOKTOBERは10月だろう、するとMAIは5月、あとの単語は分からない。たぶんいよいよ真っ白な雪のシーズン到来、待っていますヨ~、ということでしょう。
ムオタス・ムラーユには3回泊まった。其処から眺めるサンモリッツの湖と街並みが美しい。予約の電話を入れたら専用のケーブルカーに最優先で乗せてくれた、定員の2割程度の乗客しかいなかったけど。(笑)
さてベトナムだが、近くて遠い国だと感じる。近い・遠いというのは物理的な距離ではなくて心の片隅に残っている”想い”のことです。ベトナムといえばアオザイ、フォー、ニョクマムなどを思い浮かべる。しかしなんと言うてもベトナムといえばやはりベトナム戦争をすぐ思い出す。
若い頃はベトナム戦争真っ最中でオキナワは兵站基地であり、B52戦略爆撃機の出撃基地であった。真っ黒な機体の上から主翼が両側に数十メートル張り出し、鮫の背びれを思わせる垂直尾翼が異様な感じで不気味だった。主翼に爆弾の格納室があるようで、たっぷり詰め込むと主翼の先端は地面垂れ下がって着いてしまう。それで翼の先端部に車輪が付いていて重量を支えていた。
異様な姿の怪鳥B52は毎日毎日三機編隊で数組カデナ基地からベトナム爆撃に向かったのである。そのB52が離陸に失敗し墜落炎上したのを契機に復帰運動とベトナム反戦運動は益々盛り上がり、我らが島ウチナーは揺れていた。
ある日デモに参加したとき機動隊員に警棒で頭を殴られて数針縫う怪我を負った。警棒が当たった瞬間フラ~ッとひっくり返り我に返ったとき仲間に抱えられていた。
オキナワがニッポンに復帰し、ベトナムも解放されてはや30数年が経った。小さな島で”ベトナム人民と連帯するぞー!”と叫んだ者の一人して、ベトナムは他のアジアとは違う目で見ている。頭の傷跡だけでなく心にも何かが刻まれている感じがする。
図らずもこの度格安ツアーでベトナムへ行くことになった。ベトナム戦争も昔話になってしまったとはいえ多少因縁のある地である。しかしベトナム戦争がどうのこうのという気は一切無い。旅は自嘲気味に旅を物見遊山としている。何処へ行こうとも市民生活を見たり聞いたりするより、風景・景観を主にして見て回わることにしている。英語もロクに話せない言葉の壁が大きな理由だ。市民の生活は自分の目で見て感じるだけでいい。
静かに景色を眺め、もし市民生活を垣間見ることができたらそれでヨシとします。
さてベトナムのことはまるで知らない、地名もハノイ、サイゴンも今ではホーチミンという程度。その外はディエンビエンフー、ケサン、ユエ・・これらは激戦地の場所か・・
出発までに時間があるので観光地を調べてみよう。
どこか公園か街角でホーおじさんの銅像を見つけて、頭の傷を撫でてもらおうかな。(笑)
時たま香港から投資勧誘の郵便物が届くけど、それとは雰囲気が違う。封を切ると、晴れた雪山をバックにスキーヤーが雪煙を上げている写真と文字がある。
WIR FEIERN IN WEISS.WIE IMMER VON OKTOBER BIS MAI.
DIAVOLEZZAとかMUOTTAS MURAGLの文字があるのできっと観光案内だろう。
よく見ると相手の住所に St.Moritz と書いてある。思うにOKTOBERは10月だろう、するとMAIは5月、あとの単語は分からない。たぶんいよいよ真っ白な雪のシーズン到来、待っていますヨ~、ということでしょう。
ムオタス・ムラーユには3回泊まった。其処から眺めるサンモリッツの湖と街並みが美しい。予約の電話を入れたら専用のケーブルカーに最優先で乗せてくれた、定員の2割程度の乗客しかいなかったけど。(笑)
さてベトナムだが、近くて遠い国だと感じる。近い・遠いというのは物理的な距離ではなくて心の片隅に残っている”想い”のことです。ベトナムといえばアオザイ、フォー、ニョクマムなどを思い浮かべる。しかしなんと言うてもベトナムといえばやはりベトナム戦争をすぐ思い出す。
若い頃はベトナム戦争真っ最中でオキナワは兵站基地であり、B52戦略爆撃機の出撃基地であった。真っ黒な機体の上から主翼が両側に数十メートル張り出し、鮫の背びれを思わせる垂直尾翼が異様な感じで不気味だった。主翼に爆弾の格納室があるようで、たっぷり詰め込むと主翼の先端は地面垂れ下がって着いてしまう。それで翼の先端部に車輪が付いていて重量を支えていた。
異様な姿の怪鳥B52は毎日毎日三機編隊で数組カデナ基地からベトナム爆撃に向かったのである。そのB52が離陸に失敗し墜落炎上したのを契機に復帰運動とベトナム反戦運動は益々盛り上がり、我らが島ウチナーは揺れていた。
ある日デモに参加したとき機動隊員に警棒で頭を殴られて数針縫う怪我を負った。警棒が当たった瞬間フラ~ッとひっくり返り我に返ったとき仲間に抱えられていた。
オキナワがニッポンに復帰し、ベトナムも解放されてはや30数年が経った。小さな島で”ベトナム人民と連帯するぞー!”と叫んだ者の一人して、ベトナムは他のアジアとは違う目で見ている。頭の傷跡だけでなく心にも何かが刻まれている感じがする。
図らずもこの度格安ツアーでベトナムへ行くことになった。ベトナム戦争も昔話になってしまったとはいえ多少因縁のある地である。しかしベトナム戦争がどうのこうのという気は一切無い。旅は自嘲気味に旅を物見遊山としている。何処へ行こうとも市民生活を見たり聞いたりするより、風景・景観を主にして見て回わることにしている。英語もロクに話せない言葉の壁が大きな理由だ。市民の生活は自分の目で見て感じるだけでいい。
静かに景色を眺め、もし市民生活を垣間見ることができたらそれでヨシとします。
さてベトナムのことはまるで知らない、地名もハノイ、サイゴンも今ではホーチミンという程度。その外はディエンビエンフー、ケサン、ユエ・・これらは激戦地の場所か・・
出発までに時間があるので観光地を調べてみよう。
どこか公園か街角でホーおじさんの銅像を見つけて、頭の傷を撫でてもらおうかな。(笑)