いわきアッセンブリー教会ブログ 

恵みをシェアするブログ

クリスマスを真に喜ぶ

2022-12-05 | み言葉に生きる
聖書箇所:ミカ書5:2
 「ベルレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」




1.時代
背景
 当時の状況を見ると、大国アッシリヤが目前に迫り、イスラエルの民にとって脅威が最高潮に達していた時であります。ミカは国家指導者達、祭司たち、そして民を惑わせたイスラエルの偽預言者達を非難します。それは、エルサレムが滅ぼされてしまうのは彼らの罪の行いの結果だからです。
例:指導者、偽預言者たちにくだる神の裁き(3章)
 
 しかし驚くことに、ミカを通して語られた神は、御自分の民を憎しみからではなく、愛を持って懲らしめられると言えるのです。なぜなら、神はミカを通して、裁きのメッセージだけを語られたのではなく、同時に、救いのメッセージも語られているからであります。
例えば、「娘シオンよ、子を産む女のように、もだえて押し出せ。今、お前は町を出て、野に宿らねばならない。だが、バビロンにたどりつけば、そこで救われる。その地で、主がお前を敵の手から贖われる。」ミカ4:10
 神はイスラエルを攻め滅ぼしてしまいたいのではありません。救いたいのです。その罪を贖う用意が、神にあるということです。そこに神の愛があります。憐れみがあります。
 ミカの罪と悔い改めと復興のメッセージは最終的に、私達の罪の身代わりとなられた唯一の神への道である主イエス・キリストにあって成就するのです。
 「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」ローマ5:1
2.すべての人を救うメシア
①あなたはユダの氏族の中で最も小さいもの
 ベツレヘムはイスラエルの中で小さな町ですが、ここはダビデ王の出身地です。そこに、キリストが誕生するのだと語られています。それは、キリストがダビデ王の家系から誕生することも暗示しています。
②メシア
 支配者とは、他国から抑圧された人々を救う救世主のこととして語られています。ミカは、それだけでなく、神の群れを飼い、安らかに住まわせるのみならず、その威力は、地の果てまで及ぶ、と言います(4節)。そして、彼は、平和をもたらす者であると同時に、彼自身が平和なのだと語っています(5節)。
 この預言は、キリストによって実現したのです。それが、主キリストがお生まれになられた時、引用されていることからも分かることです(マタイ2:1-6)。どんなに世界の情勢が混とんとしているように見えても、闇が深くても、主の揺るぐことのない、消え失せることのない確かな計画がその背後にあるということを新たに覚えたいと思います。
そうであるなら私たちのためにご自身を犠牲とされた主イエス・キリストを信頼し、罪を告白し、悔い改め、神との平和に導かれ、世界の人々の救いと平和を祈りたいと思います。
クリスマスの真の喜びは、罪の心を捨て、平和の君である主イエス・キリストを求め、受け入れることから始まるのですから。

 み使いの賛美の告白に「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」とあります。
 真の平和と喜びは、この神が与えてくださった主イエス・キリストを通してのみだと宣言しているのです。そして、このアドベントに神のみこころにかなう人々に平和と真の喜びがあることを体験させて頂きましょう。

神のみこころ → 聖くなること

2022-11-20 | み言葉に生きる



Ⅰテサロニケ4:1-8「神のみこころ→聖く歩むこと」
・罪 と 聖 との対比
①罪
ここで罪とは、不品行(3節)、情欲おぼれる(5節)、他者を踏みつけ、欺く(6節)、汚れ(7節)ということが分かります。このような罪は、単に倫理的な問題ではありません。
例えば、身体的きよめに関して主イエスは、手を清くすることが即、心を清くするものではないこと、人には外面よりさらに深い内的な汚れがあることを指摘されています。
「また言われた。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」(マルコ7:20―23)   こうした聖書のみ言葉を読むにつれ、自分が聖書の言う「罪人」であることを認めざるをえません。
②聖
「聖」は「区分する」「区別する」という意味です。
例:Ⅰペテロ1:14-16
「従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」と書いてあるからです。」
ここで「聖なるもの」とは「神に従順になり、神にならう者」のことであります。
私たちはこの「聖なるもの」となるためには、「聖なるものとされなさい」をしっかりと理解する必要があります。イスラエルの民が自らの努力で聖なるものなることに取り組みました。しかしそれは初めから不完全であり、また結局失敗に終わったことは聖書が記す通りです。人間は自分たちの力では罪から分離し、「神に従順になり、神にならう者」になることはできなかったのです。もし、真に神に従順になり、神にならう者とされたいのなら、「神によって」聖くされる必要があることを示しています。
 「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。」Ⅰテサロニケ5:23
Ⅰ.イエス・キリストによって
 主イエスを信じた時のことを覚えていますか。信仰は信じるだけで救われる。つまり、主イエスは、神の御子キリストであり、十字架と復活を信じるということは、神に認められ、義とされるに十分だということです。あなたの正しさや努力で救われたのではないのです。
「あなたがたの中にある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。」Ⅰコリント6:11
ヨハネも、「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」(Ⅰヨハネ1:7)と、内的きよめと刻々のきよめは御子の血の力によること。また、その獲得は単に「信仰によって」であると証言しています。
Ⅱ.聖霊によって
「8 ですから、このことを拒む者は、人を拒むのではなく、あなたがたに聖霊をお与えになる神を拒むのです。」つまり、神に従順でなく、神にならう者でない人は、神が聖とするために与えられた聖霊を拒んでいることになります。
「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」(ガラテヤ5:16)
 聖霊は、私たちの内に住まわれ、私たちを聖めようと働いて下さっておられるということです。闘いがあり、弱さを覚え、失敗があります。ご聖霊は、罪をお悲しみなられますが、しかし、私たちから離れてはいません。聖なる神を畏れ、罪を悲しみ、しかし、罪に伏せたままではなく、神の憐れみの故に、その罪を告白し、イエス・キリストの完全な贖いを信じ、そこから、内に住みたもう聖霊のお働きに身を委ね、聖くなる歩みを求めていきましょう。

苦難の時、真に集中すべきもの

2022-11-06 | み言葉に生きる
聖書箇所:Ⅰテサロニケ3:1-13「苦難の時、真に集中すべきもの」



苦難の時、キリストに集中する
たとえ神を信じていても、人生には苦難はあるのだと教えています。注目すべきは、そのような中で、どのように歩んでいるかであります。

パウロはこのように語っています。2節をもう一度見てみましょう。
「私たちの兄弟であり、キリストの福音において神の同労者であるテモテを遣わしたのです。それは、あなたがたの信仰についてあなたがたを強め励まし、」

私たちクリスチャンは、自分の限界を超えた苦難の時、何よりも集中すべきは、キリストの福音であります。苦難に遭遇しているテサロニケの人々が、この信仰に立ってほしいと強く願っているパウロの姿がここで語られています。
キリストに、固く立つ信仰こそが、回復させ、乗り越える力を与えることをパウロは知っていたのからであります。

それでは、なぜこのお方に集中すべきなのか、もう少し深めて行きましょう。
この世のものは、限界があり、真に大事なものが見分けることができづらい時代ではないでしょうか。多様化、情報過多、、、他方、裏切り、偽りなどにより、自己防衛が働き、何かを信じることよりも、自分を絶対化し、頼らざるを得ない人も多いのだと思います。
 
パウロが苦難の時、このキリストに集中しなさいと言い得たのはどうしてでしょうか。それは、主が「真実なお方」だったからです。
Ⅱテサロニケ3:3-5
3:3 しかし、主は真実な方ですから、あなたがたを強くし、悪い者から守ってくださいます。
3:4 私たちが命じることを、あなたがたが現に実行しており、これからも実行してくれることを私たちは主にあって確信しています。
3:5 どうか、主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐とを持たせてくださいますように。
主は、あなたに対しても真実なのです。苦難が激しくとも、真実な主は守り、神の愛と耐え忍ぶ力を与えてくださるのであります。パウロも苦難の時、主の真実を体験できたからこそ、その生涯をクリスチャンとして歩み、多くの人々に影響を与えることができたことを見逃してはなりません。あなたは苦難の時「神の真実を体験していますか。」
 
主の真実でパウロを最も変えた力は、「神の愛」です。
「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」ローマ書5:3-5

どうしてこんなことが起こるのか、神はいるのか、という苦難に直面した時、私たちは主イエス・キリストに集中し、パウロの体験したように、主の愛に満ち溢れる体験を通して、苦難を苦難で終わりにするのではなく、主によって、回復し、乗り越え、前進して行きましょう。



神の恵みを知り、愛する者となる

2022-10-30 | み言葉に生きる
聖書箇所:マルコ12:28-34 「神の恵みを知り、愛する者へ」


 先週と同様に、今週も議論の話になります。主イエスを試し、陥れようとする者たちとの議論に見事に答えられたのを見ていた一人の律法学者が主イエスに尋ねます。「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」
それに対し、主イエスは、明確に答えらます。29-31節。
12:29 イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。
12:30 心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
12:31 次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」
 愛することよりも愛されることばかりを求めがちな私たちの歩みが、「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」となるために、
共に考えていきましょう。

Ⅰ.神を知る必要がある
 神の恵みの先行について律法学者の理解は、主イエスと一致していたことがわかります。
・律法学者の理解
①主は唯一であって、そのほかに、主はない
「そこで、この律法学者は、イエスに言った。「先生。そのとおりです。『主は唯一であって、そのほかに、主はない』と言われたのは、まさにそのとおりです。」(32節)
 主イエスの答えの大事な点の一つ目は、「イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である」ことです。神であり、この唯一の神が人間に対し、どのように関わられているかを見る必要があります。その中でも、どのような救いのご計画を持ち、それを実行なさったかは、最も注目すべき点であります。
②どんな全焼のいけにえや供え物よりも
 人間の側の「行為」が中心に見られがちな全焼のいけにえや供え物よりも、「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。Ⅰサムエル15:22」というみ言葉を律法学者は理解していたから、主イエスに答えることができたと言えます。
 ③神の恵みが先行している
 聖書に記されている神は、罪を犯し続ける人間に対し、一方的な恵みによって憐み、愛する神であります。この恵みの神の愛こそ信仰の土台であり、基盤です。神の愛に満たされる時、誰かを愛さずにはいられなくなるのです。自分が基盤ではありません。人間は、どんな人も完全ではないのです。あなたも、神に対し罪を犯す存在です。このような人間を救うために、一方的に愛する神を知ることが必要なのです。
 では、どにようにして、神は愛であることを知ることができるのでしょうか。神は人間がわかるように、主イエス・キリストをこの世に与えてくださり、その愛を示してくださったと聖書で語られています。
 「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」(Ⅰヨハネ4章9、10節)
  
Ⅱ.神の恵みを体験する
 主イエスは「あなたは神の国から遠くない」と律法学者に語られます。一見、ほめているように思える主イエスのみことばでありますが、「神の国はあなたのものだ」とは語っていません。なぜでしょうか。「あなたは聖書の知識はあるけれども、本当には、神を知っていない。」と語られておられると言えると思うのです。聖書の「知る」は、知識だけではなく、「体験する」ことも含まれています。
 律法学者が主イエスに質問したのは、自分が神に認められていることを実証したかったからではないでしょうか。そういう彼に対し、自分の側に信仰の土台を置くのではなく、神の恵みによって歩むことを気づいてほしいと主イエスは願っておられるのであります。
 人がもし真に愛する者になるには、まず、「愛された経験」が必要なのです。愛されたから、愛することができる者になれるのです。
 今日新たに、あなたが最も必要な神の恵みを求めて行きましょう。神こそ、あなたを愛し、生かすお方なのですから。自分の子である主イエス・キリストさえ、惜しみなく、私たち人間に与えられる神です。御子を十字架で死なせてでも、私たちを救いたいという神の愛に触れられるとき、人の魂は溶かされ、満たされ、真に愛する者へ変えられると信じます。


神のものは神に返す歩み

2022-10-24 | み言葉に生きる
神のものは神に返す歩み


マルコ福音書12:13-17

・人の権威か、神の権威か
・カイザルのものはカイザルに返しない。神のものは神にかえしなさい
 ①カイザルのものはカイザルに
 ペテロは、きっと主イエスのことばを思い出しながら、国家権力というものは、神のゆるしの中で立てられているので、それなりに敬意をはらうべきであると教えています。
「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、 また、悪を行う者を罰し、善を行う者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。」Ⅰペテロ2:13-15
 他にもローマ書13:1-2、7節でこのように語られています。
 「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。・・・・・あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納め、恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさい。」
私たちの理解としては、神のゆるしのもとに政治権力・国家、宗教・教会が存在しているという見方が必要です。万物の創造者なる神の統治のもとに、国家、教会などあらゆるものがそれぞれの領域で役割、責任そして尊さを与えられているのです。
②神のものは神に
 この世のものは、すべて神のゆるしの中であらゆるものがそれぞれの領域で役割、責任そして尊さがあるなら、何よりも「神」に対し、畏敬をもって愛を表す歩みをするべきではないでしょうか。「神のもの」までも自分のものとして奪い取ろうとするときに、国も、地域も、家族も、会社も、学校も、悲惨な結果を生むことにつながるのです。彼らが、主イエスに「わな」をしかけたその根っこにあるのは、やはり神を知らないことにつきると思うのです。神のゆるしの中で生かされている存在として、何よりも神に対して応答して歩んでいるのかを求められているのではないでしょうか。
 しかし、ただの義務では、喜んで神のものは神に返す歩みは続かないはずです。形骸化し、律法学者たちのように、神を知らず試したりする歩みになってしまうと思います。しかし神は、私たちが「神のものは神に返します」と全身全霊をもって歩むことができるよう、主イエスを与えてくださったのです。私たち一人ひとりは、神にかけがえのない命として愛されている存在ということがイエス・キリストを通して現わしてくださったのです。。神は、この世の権力者たちよりも、はるかに勝る権力を持っておられながら、どんな人をもかけがえないのないいのちとして愛されているお方なのです。そのことが最も現わされているのが十字架の主イエスです。この愛を知ることが神を知り、そして、真に喜び、感謝し、何よりも神に信頼し、愛する者へと変えられる歩みなると信じます。
・誰が真の権威者なのか
・神を知ることによって神のものは神に返していける