「あの人は、十字架を負って歩んでいる。」よく耳にする言葉ではないでしょうか。
聖書の言葉から来ているものなのでしょうか。。。
十字架とは生きる上での重荷のことと言えるでしょう。
皆、各々が重荷を負って生きている存在です。
家族、、学校、、地域、、、職場、、、スポーツ、、、海外で、、、。
重荷を背負うということは、もれなく孤独というものがついてくるように思います。
人は誰もが孤独と戦っているのですが、特に使命を貫かなくてはいけない立場にある人々は
強い孤独感を味わうのではなかろうか。。。
経営者、、、
私も教会という看板を背負って使命に歩もうとすればするほど孤独を感じます。
牧師はアウトサイダーとか、少数派なので。。孤独を強く感じる仕事なのだと思います。。
実のところ、私は、、繊細なのです。(笑)、、。
他の人と同じように、人には嫌われたくありませんし、、傷つくのです。
それでも、使命を貫き通したいと思えるのは、その使命があまりにも素晴らしいものだからに違いありません。
孤独に勝る使命があなたにはあるでしょうか。。人に流されない使命があるでしょうか。。
あきらめない使命があるでしょうか。。
もう一つ、孤独を耐え抜くために欠かせないことは、
誰がそこにいるのか、ということが大切です。
ある人は家族、、、ある人はライバル、、、同僚。
ある人は友、、、ある人は教師なのかもしれません。。
誰かが寄り添ってくれて、同情し、、励まし、慰められるから
大丈夫だって思えるのです。
しかし、人間には限界があります。頼りにしていた人と死別することもあります。
時に手のひらを反されることもあります。
あんなに同情していた人がそっぽを向き嘆くこともあります。
そもそも、人間は家族であっても、その苦しみや辛さをすべてわかるはずがありません。
こういものが、より孤独を強くすることさえあります。
神は同情できるお方か、、、神はすべてを知ってくださっているのか。。
神は共にいて決して見捨てないお方なのか、、。
神は孤独という暗闇から光に移してくださるのか。。。
私は神によって重荷を背負って頂き、孤独を癒して頂いているからこそ、
孤独の行き着くところは死ではなく「師」であり、
孤独の行き着くところは死ではなく「生」だということを知っています。
孤独の向こうに何があるでしょうか。。。
皆、孤独に弱いのです。自分を責めたり、人を攻撃したりしても
根本的な解決にはならないのです。
祝福