いわきアッセンブリー教会ブログ 

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神の恵みを知り、愛する者となる

2022-10-30 | み言葉に生きる
聖書箇所:マルコ12:28-34 「神の恵みを知り、愛する者へ」


 先週と同様に、今週も議論の話になります。主イエスを試し、陥れようとする者たちとの議論に見事に答えられたのを見ていた一人の律法学者が主イエスに尋ねます。「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」
それに対し、主イエスは、明確に答えらます。29-31節。
12:29 イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。
12:30 心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
12:31 次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」
 愛することよりも愛されることばかりを求めがちな私たちの歩みが、「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」となるために、
共に考えていきましょう。

Ⅰ.神を知る必要がある
 神の恵みの先行について律法学者の理解は、主イエスと一致していたことがわかります。
・律法学者の理解
①主は唯一であって、そのほかに、主はない
「そこで、この律法学者は、イエスに言った。「先生。そのとおりです。『主は唯一であって、そのほかに、主はない』と言われたのは、まさにそのとおりです。」(32節)
 主イエスの答えの大事な点の一つ目は、「イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である」ことです。神であり、この唯一の神が人間に対し、どのように関わられているかを見る必要があります。その中でも、どのような救いのご計画を持ち、それを実行なさったかは、最も注目すべき点であります。
②どんな全焼のいけにえや供え物よりも
 人間の側の「行為」が中心に見られがちな全焼のいけにえや供え物よりも、「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。Ⅰサムエル15:22」というみ言葉を律法学者は理解していたから、主イエスに答えることができたと言えます。
 ③神の恵みが先行している
 聖書に記されている神は、罪を犯し続ける人間に対し、一方的な恵みによって憐み、愛する神であります。この恵みの神の愛こそ信仰の土台であり、基盤です。神の愛に満たされる時、誰かを愛さずにはいられなくなるのです。自分が基盤ではありません。人間は、どんな人も完全ではないのです。あなたも、神に対し罪を犯す存在です。このような人間を救うために、一方的に愛する神を知ることが必要なのです。
 では、どにようにして、神は愛であることを知ることができるのでしょうか。神は人間がわかるように、主イエス・キリストをこの世に与えてくださり、その愛を示してくださったと聖書で語られています。
 「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」(Ⅰヨハネ4章9、10節)
  
Ⅱ.神の恵みを体験する
 主イエスは「あなたは神の国から遠くない」と律法学者に語られます。一見、ほめているように思える主イエスのみことばでありますが、「神の国はあなたのものだ」とは語っていません。なぜでしょうか。「あなたは聖書の知識はあるけれども、本当には、神を知っていない。」と語られておられると言えると思うのです。聖書の「知る」は、知識だけではなく、「体験する」ことも含まれています。
 律法学者が主イエスに質問したのは、自分が神に認められていることを実証したかったからではないでしょうか。そういう彼に対し、自分の側に信仰の土台を置くのではなく、神の恵みによって歩むことを気づいてほしいと主イエスは願っておられるのであります。
 人がもし真に愛する者になるには、まず、「愛された経験」が必要なのです。愛されたから、愛することができる者になれるのです。
 今日新たに、あなたが最も必要な神の恵みを求めて行きましょう。神こそ、あなたを愛し、生かすお方なのですから。自分の子である主イエス・キリストさえ、惜しみなく、私たち人間に与えられる神です。御子を十字架で死なせてでも、私たちを救いたいという神の愛に触れられるとき、人の魂は溶かされ、満たされ、真に愛する者へ変えられると信じます。


神のものは神に返す歩み

2022-10-24 | み言葉に生きる
神のものは神に返す歩み


マルコ福音書12:13-17

・人の権威か、神の権威か
・カイザルのものはカイザルに返しない。神のものは神にかえしなさい
 ①カイザルのものはカイザルに
 ペテロは、きっと主イエスのことばを思い出しながら、国家権力というものは、神のゆるしの中で立てられているので、それなりに敬意をはらうべきであると教えています。
「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、 また、悪を行う者を罰し、善を行う者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。」Ⅰペテロ2:13-15
 他にもローマ書13:1-2、7節でこのように語られています。
 「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。・・・・・あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納め、恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさい。」
私たちの理解としては、神のゆるしのもとに政治権力・国家、宗教・教会が存在しているという見方が必要です。万物の創造者なる神の統治のもとに、国家、教会などあらゆるものがそれぞれの領域で役割、責任そして尊さを与えられているのです。
②神のものは神に
 この世のものは、すべて神のゆるしの中であらゆるものがそれぞれの領域で役割、責任そして尊さがあるなら、何よりも「神」に対し、畏敬をもって愛を表す歩みをするべきではないでしょうか。「神のもの」までも自分のものとして奪い取ろうとするときに、国も、地域も、家族も、会社も、学校も、悲惨な結果を生むことにつながるのです。彼らが、主イエスに「わな」をしかけたその根っこにあるのは、やはり神を知らないことにつきると思うのです。神のゆるしの中で生かされている存在として、何よりも神に対して応答して歩んでいるのかを求められているのではないでしょうか。
 しかし、ただの義務では、喜んで神のものは神に返す歩みは続かないはずです。形骸化し、律法学者たちのように、神を知らず試したりする歩みになってしまうと思います。しかし神は、私たちが「神のものは神に返します」と全身全霊をもって歩むことができるよう、主イエスを与えてくださったのです。私たち一人ひとりは、神にかけがえのない命として愛されている存在ということがイエス・キリストを通して現わしてくださったのです。。神は、この世の権力者たちよりも、はるかに勝る権力を持っておられながら、どんな人をもかけがえないのないいのちとして愛されているお方なのです。そのことが最も現わされているのが十字架の主イエスです。この愛を知ることが神を知り、そして、真に喜び、感謝し、何よりも神に信頼し、愛する者へと変えられる歩みなると信じます。
・誰が真の権威者なのか
・神を知ることによって神のものは神に返していける