いわきアッセンブリー教会ブログ 

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神のみこころ → 聖くなること

2022-11-20 | み言葉に生きる



Ⅰテサロニケ4:1-8「神のみこころ→聖く歩むこと」
・罪 と 聖 との対比
①罪
ここで罪とは、不品行(3節)、情欲おぼれる(5節)、他者を踏みつけ、欺く(6節)、汚れ(7節)ということが分かります。このような罪は、単に倫理的な問題ではありません。
例えば、身体的きよめに関して主イエスは、手を清くすることが即、心を清くするものではないこと、人には外面よりさらに深い内的な汚れがあることを指摘されています。
「また言われた。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」(マルコ7:20―23)   こうした聖書のみ言葉を読むにつれ、自分が聖書の言う「罪人」であることを認めざるをえません。
②聖
「聖」は「区分する」「区別する」という意味です。
例:Ⅰペテロ1:14-16
「従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」と書いてあるからです。」
ここで「聖なるもの」とは「神に従順になり、神にならう者」のことであります。
私たちはこの「聖なるもの」となるためには、「聖なるものとされなさい」をしっかりと理解する必要があります。イスラエルの民が自らの努力で聖なるものなることに取り組みました。しかしそれは初めから不完全であり、また結局失敗に終わったことは聖書が記す通りです。人間は自分たちの力では罪から分離し、「神に従順になり、神にならう者」になることはできなかったのです。もし、真に神に従順になり、神にならう者とされたいのなら、「神によって」聖くされる必要があることを示しています。
 「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。」Ⅰテサロニケ5:23
Ⅰ.イエス・キリストによって
 主イエスを信じた時のことを覚えていますか。信仰は信じるだけで救われる。つまり、主イエスは、神の御子キリストであり、十字架と復活を信じるということは、神に認められ、義とされるに十分だということです。あなたの正しさや努力で救われたのではないのです。
「あなたがたの中にある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。」Ⅰコリント6:11
ヨハネも、「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」(Ⅰヨハネ1:7)と、内的きよめと刻々のきよめは御子の血の力によること。また、その獲得は単に「信仰によって」であると証言しています。
Ⅱ.聖霊によって
「8 ですから、このことを拒む者は、人を拒むのではなく、あなたがたに聖霊をお与えになる神を拒むのです。」つまり、神に従順でなく、神にならう者でない人は、神が聖とするために与えられた聖霊を拒んでいることになります。
「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」(ガラテヤ5:16)
 聖霊は、私たちの内に住まわれ、私たちを聖めようと働いて下さっておられるということです。闘いがあり、弱さを覚え、失敗があります。ご聖霊は、罪をお悲しみなられますが、しかし、私たちから離れてはいません。聖なる神を畏れ、罪を悲しみ、しかし、罪に伏せたままではなく、神の憐れみの故に、その罪を告白し、イエス・キリストの完全な贖いを信じ、そこから、内に住みたもう聖霊のお働きに身を委ね、聖くなる歩みを求めていきましょう。

2022/11/08

2022-11-08 | 日記
とったど~。


私の携帯では、これが限度でした。

実際の皆既月食は、物事の見方を改めさせられる景色でした。月が下のほうから欠けたり、赤銅色など、先入観を壊してくれて感謝。

不思議な月でした。また3年後に。



苦難の時、真に集中すべきもの

2022-11-06 | み言葉に生きる
聖書箇所:Ⅰテサロニケ3:1-13「苦難の時、真に集中すべきもの」



苦難の時、キリストに集中する
たとえ神を信じていても、人生には苦難はあるのだと教えています。注目すべきは、そのような中で、どのように歩んでいるかであります。

パウロはこのように語っています。2節をもう一度見てみましょう。
「私たちの兄弟であり、キリストの福音において神の同労者であるテモテを遣わしたのです。それは、あなたがたの信仰についてあなたがたを強め励まし、」

私たちクリスチャンは、自分の限界を超えた苦難の時、何よりも集中すべきは、キリストの福音であります。苦難に遭遇しているテサロニケの人々が、この信仰に立ってほしいと強く願っているパウロの姿がここで語られています。
キリストに、固く立つ信仰こそが、回復させ、乗り越える力を与えることをパウロは知っていたのからであります。

それでは、なぜこのお方に集中すべきなのか、もう少し深めて行きましょう。
この世のものは、限界があり、真に大事なものが見分けることができづらい時代ではないでしょうか。多様化、情報過多、、、他方、裏切り、偽りなどにより、自己防衛が働き、何かを信じることよりも、自分を絶対化し、頼らざるを得ない人も多いのだと思います。
 
パウロが苦難の時、このキリストに集中しなさいと言い得たのはどうしてでしょうか。それは、主が「真実なお方」だったからです。
Ⅱテサロニケ3:3-5
3:3 しかし、主は真実な方ですから、あなたがたを強くし、悪い者から守ってくださいます。
3:4 私たちが命じることを、あなたがたが現に実行しており、これからも実行してくれることを私たちは主にあって確信しています。
3:5 どうか、主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐とを持たせてくださいますように。
主は、あなたに対しても真実なのです。苦難が激しくとも、真実な主は守り、神の愛と耐え忍ぶ力を与えてくださるのであります。パウロも苦難の時、主の真実を体験できたからこそ、その生涯をクリスチャンとして歩み、多くの人々に影響を与えることができたことを見逃してはなりません。あなたは苦難の時「神の真実を体験していますか。」
 
主の真実でパウロを最も変えた力は、「神の愛」です。
「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」ローマ書5:3-5

どうしてこんなことが起こるのか、神はいるのか、という苦難に直面した時、私たちは主イエス・キリストに集中し、パウロの体験したように、主の愛に満ち溢れる体験を通して、苦難を苦難で終わりにするのではなく、主によって、回復し、乗り越え、前進して行きましょう。