Ⅰテサロニケ4:1-8「神のみこころ→聖く歩むこと」
・罪 と 聖 との対比
①罪
ここで罪とは、不品行(3節)、情欲おぼれる(5節)、他者を踏みつけ、欺く(6節)、汚れ(7節)ということが分かります。このような罪は、単に倫理的な問題ではありません。
例えば、身体的きよめに関して主イエスは、手を清くすることが即、心を清くするものではないこと、人には外面よりさらに深い内的な汚れがあることを指摘されています。
「また言われた。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」(マルコ7:20―23) こうした聖書のみ言葉を読むにつれ、自分が聖書の言う「罪人」であることを認めざるをえません。
②聖
「聖」は「区分する」「区別する」という意味です。
例:Ⅰペテロ1:14-16
「従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」と書いてあるからです。」
ここで「聖なるもの」とは「神に従順になり、神にならう者」のことであります。
私たちはこの「聖なるもの」となるためには、「聖なるものとされなさい」をしっかりと理解する必要があります。イスラエルの民が自らの努力で聖なるものなることに取り組みました。しかしそれは初めから不完全であり、また結局失敗に終わったことは聖書が記す通りです。人間は自分たちの力では罪から分離し、「神に従順になり、神にならう者」になることはできなかったのです。もし、真に神に従順になり、神にならう者とされたいのなら、「神によって」聖くされる必要があることを示しています。
「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。」Ⅰテサロニケ5:23
Ⅰ.イエス・キリストによって
主イエスを信じた時のことを覚えていますか。信仰は信じるだけで救われる。つまり、主イエスは、神の御子キリストであり、十字架と復活を信じるということは、神に認められ、義とされるに十分だということです。あなたの正しさや努力で救われたのではないのです。
「あなたがたの中にある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。」Ⅰコリント6:11
ヨハネも、「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」(Ⅰヨハネ1:7)と、内的きよめと刻々のきよめは御子の血の力によること。また、その獲得は単に「信仰によって」であると証言しています。
Ⅱ.聖霊によって
「8 ですから、このことを拒む者は、人を拒むのではなく、あなたがたに聖霊をお与えになる神を拒むのです。」つまり、神に従順でなく、神にならう者でない人は、神が聖とするために与えられた聖霊を拒んでいることになります。
「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」(ガラテヤ5:16)
聖霊は、私たちの内に住まわれ、私たちを聖めようと働いて下さっておられるということです。闘いがあり、弱さを覚え、失敗があります。ご聖霊は、罪をお悲しみなられますが、しかし、私たちから離れてはいません。聖なる神を畏れ、罪を悲しみ、しかし、罪に伏せたままではなく、神の憐れみの故に、その罪を告白し、イエス・キリストの完全な贖いを信じ、そこから、内に住みたもう聖霊のお働きに身を委ね、聖くなる歩みを求めていきましょう。