Noriko

しあわせさがし、穏やかで心豊かなライフスタイルを求めて・・・ささやかなブログです。

人間の絆 本当にあったお話 執筆中--Nonfiction story--not yet completed

2011-12-21 08:06:23 | ノンフィクションのお話

これは、私が23歳の時、ワシントンDCのジョージタウン大学の大学院にいっている頃、友達になったビオラニストのオランダ人、ステネカのお父様が第二次世界大戦中に起こったとても悲しいお話です。皆さんに本で頂いて、戦争からの痛みや憎しみ、人間の心の絆の復活の、本当にあったお話です。心のとげはそう簡単に抜けるものでは決してないけれど、こんな事もあるのだとしみじみ思い、皆さんと共有したいと思いました。

英語の部分は、一番のハイライトの「とげを抜くシーン」がまだ出来ていませんが、一応アップします。

人間の絆 (本当にあったお話)

昔、日本の東京に住んでいる、のりこと女の人がいました。彼女は日本の文化と日本語のスペシャリストでした。
 
のりこが、アメリカの首都、ワシントンD.C.にあるジョージタウン大学の大学院生だった頃、オランダのハーグという町から来たステネカという女の人に出会いました。ステネカはプロのビオラニストでした。二人は大の親友になりました。そして、のりこは、ステネカの国、オランダに行ってみたくなりました。
 
そこで、のりこはステニカに尋ねました。「あなたは、まだアメリカにいるけど、オランダのおとうさんとおかあさんを数日、訪ねてもいい?」すると、ステネカは、「もちろん!!」とよろこんで答えました。そして、両親にのりこがオランダに行くお手紙を書きました。
 
しばらくして、のりこはオランダのハーグという町に住んでいるステニカの家に飛行機に乗って、アメリカから行きました。ステネカのおとうさんもおかあさんも、のりこを温かくむかえてくださいました。
 
ある日、ふと、のりこは、ステネカのおとうさんの指が一本ないことに気がつきました。 不思議に思って、その指に何がおこったのか尋ねました。
 
おとうさんは、それはそれはかなしいお話をしてくれました。おとうさんは、昔大きな戦争があった時、インドネシアという国にへいたいでいったそうです。そこで、日本からのへいたいに、その指を切られたというのです。おとうさんは、とっても痛かったし、それで心に深い傷を負いました。 それ以来、おとうさんは、余りのショックで日本と日本人が大嫌いになってしまいました。
 
実は、ステネカから, のりこが来る手紙が届いた時、のりこは日本人なので、のりこにきてほしくなかったのだと、うちあけました。そして、日本人が大嫌いな気持ちで苦しくて、のりこの来る前の夜はぜんぜん眠れなかったそうです。
 
それを聞いたのりこは、心からごめんなさいというきもちになり、そして、それにもかかわらず、じぶんを温かく迎えて下さったことに、心からありがとうと言いました。すると、ステネカのおとうさんは、こう言ったのです。「のりこさん、戦争というのは人々を残虐な気持ちにさせるものなのだよ。のりこさんは、なんにも悪いことをしたのではないからね。」
それから数日後、のりこはステニカのお父様の指に、トゲが刺さり痛くてとっても辛そうにしているのに気がつきました。 のりこ見るとトゲがかなり深くまで入り、指ははれていました。 その時、のりこが幼かった時のことを思い出しました。のりこもお外で遊んでいる時、よく指にトゲが刺さり痛くて溜まりませんでした。そんな時、のりこのお父様はお医者様で、すぐさま針を火にかざし消毒して、トゲの入っているところに、針穴でゆっくりゆっくり穴の先を広げ、トゲの先を見つけ、刺抜きでさっと引っ張って抜き取ってくれました。
「ステネカ、針はない?直ぐに持ってきて!!それから虫眼鏡もね!」 のりこは、昔のおとうさんと同じように、針をまず火にかざし消毒して、虫眼鏡で、注意深く腫れ上がった指を見ました。トゲの先は見えませんでしたが、かすかにトゲの部分が皮膚の中に見えました。 指に針をさしました。「痛い!」ステニカのお父様は叫びました。「ごめんなさい、ちょっと我慢しててね。私がトゲを絶対に抜いてあげるから・・。」
丁寧に、ゆっくり、腫れている部分を押しながら、かすかなトゲの部分のところに針を入れて進んでいきました。もうのりこは、無我夢中でした。 お腹の中の小人達が、「のりこ、頑張れ、頑張れ!」っと応援してくれています。のりこは、何かを挑戦する時はいつも、お腹の小人達が応援してくれるのでした。 
しばらくして、トゲの先がかすかに頭を出しました。 小人達が「うんとこしょ、どっこいしょ!いまだ!のりこ!」その瞬間、のりこは刺抜きを使って素早くさっと抜きました・・・・・でも失敗です。お父様は「早くして、のりこ痛いよ」と言って辛そうです。 のりこはそうして何度か抜こうとしましたが、なかなか抜けません。そのうちに、トゲの先がバラバラになってしまいました。のりこはピンチ! お腹の小人達が、「頑張れ、のりこ。 落ち着いて、落ち着いて」とのりこの心を静かにさせてくれました。 
と、その時、トゲの先がポンっと顔を出しました。すかさず、のりこはトゲのさきっちょを刺抜きで引きました!!なんと、抜けました!!
でも、もう一つ残っていました。慎重に、指を押しながら、「お父さん、もう少しだから、我慢してね!」・・・・トゲの先が又、ポンっと顔を出しました。 「いまだ!」のりこは汗びっしょりでした。 でもかまわず、そのトゲの頭を、さっと抜きました!!
抜けました!! 「お父さん、ほら、トゲよ。見て見て!!」 お父さんの顔を見上げると、お父さんの間から涙がポロリ、ポロリと頬を伝って流れていました。 おとうさんは、何にも言わず、のりこを両腕でしっかりと抱きしめてくれました。その胸の中で、のりこもボロボロと泣いていました。
しばらくして、お父さんは、のりこを腕からはなし、のりこの顔を見てこう言いました。「のりこは、私の胸のトゲも取ってくれたんだよ。のりこは、ステネカと同じ! 私の大切な優しいむすめだよ。 今まで、日本も日本人も、大嫌いだった。インドネシアで日本兵に指を切られて、胸のトゲがずっと私を苦しめてきた。のりこのお陰で、指の痛みも、憎しみも、水が流れるように、消えて流れてしまったよ。 有難う、有難う。
 
 
 
のりこさんは、心の親しみのある、愛情一杯で、心の優しい人だから、憎しみはどこかにいってしまったよ。のりこさんが来てくれたお陰で、日本人を憎む気持ちはなくなったんだ。有難う。のりこさん、あなたは僕の本当の娘のように愛する存在になったよ。」と。
 
それ以来、のりこは日本のれきしを色々と調べたら、戦争中、日本人の兵隊は、東南アジア、中国、韓国や台湾でとっても残虐なことをしていたことを知りました。そして、広島のおばあちゃんから、戦争中に、広島に原子爆弾が落ちて、たくさんの人々が辛い辛い思いをした思い出話をたくさん聞きました。おばあちゃんは、のりこの心に「世界平和の種」を蒔きました。それ以来、のりこは「世界の平和」になるように自分ができることをしたいと、それがライフワークになりました。
 
それから20年ほどたって、オランダのステネカから一枚のハガキが、日本ののりこのもとに届きました。そのハガキにはこう書いてありました。「おとうさんの具合がとってもよくないのです。おとうさんの唯一の願いは、天国に行く前に、もう一度あなたに会いたいというのです。 だから、お願い・・・のりこ、ここに来て下さい。」
 
のりこは、びっくりしました。でも行くかどうか決心がつきませんでした。 それを聞いた、9歳だった息子の、りょうが言いました。「おかあさん、早く行ってあげようよ。じゃないと、おかあさんは、行かなかった事を一生悔やむ事になるよ。」
 
とうとう、のりことりょうは、一緒に飛行機に乗って、オランダのハーグに住むステネカのおとうさんに会いに行きました。その頃までには、おとうさんはひどく弱っていて、ベットに寝たきりで、話す事もあまりできない様子でした。のりことりょうは、おとうさんのベッドの横で、体を抱きしめたりさすったりしました。ステネカのおとうさんは、かすかに聞こえ声で、涙をながしながら、二人の手を握って、こう言いました。「のりこさんと、りょうくん。大きな海を越えて遠くから愛に来てくれて、ありがとう。これからは、てんごくから二人をいつも見守っているよ」と。
 
ちょうど、クリスマスの頃でした。家族や親戚もみんな集まって、ステネカのおとうさんと一緒に、楽しくクリスマスのお祝いをしました。雪がふってきれいで、にぎやかで、神聖な雰囲気で包まれました。神様も、みんなを祝って下さいました。(神様の慈しみが、みんなに舞い降りてきました。)
 
ステネカは3人の子ども達がいました。11歳のジョジャネカちゃん、9歳のコデリーブちゃん、そして7歳のソロモンくんです。3人とりょうは、言葉はなにをいっているのかさっぱりわかりませんでしたが、一緒に楽しく遊びました。雪合戦をしたり、雪で大きなサンタクロースをつくったりしました。 子ども達は、世界中、どこでもだれとでも、穏やかに心優しく、仲良くなれるのでした。
 
日本に帰って、のりこに、ステネカから一枚のハガキが届きました。「おとうさんは、穏やかに静かに、まるで心から安心して眠るように亡くなりました。のりこさんとりょうくんが来てくれて、おとうさんの天国への旅はとても幸せそうでした。心からの愛と信頼をありがとう、」 そう書いてありました。
 

 



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2 コメント

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涙が溢れました。 (ROTOTo)
2012-12-24 20:27:31
読んで涙が溢れました。
戦争は人々の人生に影を落とします。
私の父も医者でした。
沖縄で、昭和20年6月22日の沖縄陥落の前夜、大激戦の時に亡くなりました。
33才で男の子4人抱えた母の戦いはなくなる88才まで続きました。
戦争はしてはいけないです。
モノを失うより心を失うからです。
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Unknown (ROTOTo)
2012-12-24 20:26:19
読んで涙が溢れました。
戦争は人々の人生に影を落とします。
私の父も医者でした。
沖縄で、昭和20年6月22日の沖縄陥落の前夜、大激戦の時に亡くなりました。
33才で男の子4人抱えた母の戦いはなくなる88才まで続きました。
戦争はしてはいけないです。
モノを失うより心を失うからです。
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