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遥かなる釣りへの想いー24

2011-07-12 14:07:45 | 釣り

以前に書いた文章とも重複するが・・・ レオン・チャンドラーを急に

思い出した。

 

僕の記憶が正しければ、レオン・チャンドラーが初めて来日したのは

たしか1972年ではなかったかと思う。というのは当時僕は海外にいて

帰国した年が1972年だった。で、たまたまその年にレオン・チャンドラー

が来たのでそれで覚えているような気がする。無論当時レオン・チャンド            

ラー の名前は知らなかった。ただ時代背景的には1960年代の終わり頃           

からごく一部の人達にルアーフィシングが受け入れられて来ていたが、             

フライ フィシングのほうはまだまだ一般的でなく、何の釣り、毛鉤? という           

程度で正直なところ未開発の分野であった。だからレオン・チャンドラーが            

どういう人物なんていうのは知る由もなかった。1970年代に入っても フライ         

はまだまだルアーフィシングの後塵を拝していたのだ。

 

たとえフライフィッシングに必要な道具がどうにか揃ったとしても身近に教わる

ひともいない。また、ほらこうやってやるんだよ、 と大勢の前で見せてくれるほどの

卓越した技術を持ったひとがまだまだ 日本に少なかったために、日本と米国の

コートランド繋がりで著名な フライキャスターであるレオンチャンドラーを呼ぶことに

なったのだ、と思う。  有名たって釣り雑誌がアメリカじゃ有名だ、というだけで

日本じゃ初耳だけど、て具合。でも、知らないと「エ~、レオン・チャンドラー知らないの?」

ってことになっちゃう。まあ、皆俄かフライフィシャーマンという状態だから、巧いも下手も

混在で、この際だからアメリカから本物を呼ぼう、つまり 専門のプロにやって見せてもらっ

ちゃえってワケだ。

 

そう言えば、昔は「フライ・フィシャーマン」と呼んだのに今は「フライ・フィッシャー」

だねえ。 何時から変わったのかなあ。 「カメラマン」を「フォトグラファー」とか

「何とかマン」を「何とかパーソン」にして差別を無くそう、なんて言い出した頃かな。

 

僕の死んだ父親は一時釣りの業界に身を寄せていたことがあった。

業者から聞いた話として、似たようなことを話していたことがあったから

多分事実に近いだろう。

 

チャンドラーが初めてフライフィッシングなるものを見せてくれたのは

山梨の忍野ではなかったか、と記憶にある。箱根でやったのはハーディ            

だったっけ。

輸入元がフライフィシングの何たるかを見せられなければ販売する方は

もっと困ってしまう。そこでレオンチャンドラーの登場となったわけで、

この時集まったのはほとんどが業者か関係者ではなかっただろうか。                 

個人のフライフィッシングファンというのは少なかったと思う。

 

ティムコもスミスも1970年前後の創立だからルアーやフライに対する時代的         

な先取り感覚はあったんだろうけど、1973年あたりじゃまだまだでしたねえ。          

ハーディのつるやがやはり一歩先に出ていた印象があります。


そういえば、チャンドラーが来る前に業者にフライフィッシングなるものの

案内のチラシが配布されていたような 記憶がある。もう定かではないけれど・・・

 

 

それ以来チャンドラーは何度となく来日してはフライキャスティングの 講習会         

のようなことをしてくれていたからその影響を受けたフライの好きなひとは多い        

はずだ。

チャンドラーは米国公認の釣りの大使として世界中の国々を訪れてもいるし、        

日本の フライフィッシングシーンに最も強い印象を与えた人物のひとりだろう。         

日本のフライフィシングの黎明期に来た人物だった。

 

チャンドラーの来日した翌年に今度は英国からJ・ハーディが来日して英国式          

のフライキャスティングを見せてくれることになる。もっともハーディはそれ以前         

にも来日していたようだから初来日ではなさそうだ。

これより後になると、女流のフライキャスティングチャンピオンであるアン・ スト         

ローベルや、日本に何度も来たハーディのフライキャスティングスクールでお馴           

染みのジョニー・ローガンの登場となって行く。やがて1975年代後半に入り         

日本のフライフィッシングが一気に 熱を帯びていくことになる。 この辺までなら        

何とか覚えている。 ジョニー・ローガンがダブルハンドでフライを投げてる写真

を見た記憶がある。

 

兎も角それで、 僕も慌ててルアーロッドを横におき、フライを始めるのだが当時          

ハーディを扱っていたのは東京京橋のつるやだった。グラスロッドで ジェットセット        

と言われるフライロッドだが、滅茶苦茶高かったような 記憶がある。最低限、ロッド      

にリールにラインをセットしなければ釣りが出来ない。しかし当時の僕のサラリー      

ではおいそれと手が出る値段ではなかった。

 

僕の高校はつるやの近くにあり、僕が高校生の時につるやはヘラブナの専門店       

で 紀州の高価な竿を扱っていたが、ヘラブナ釣りの好きな高校生の小遣いでは        

とても手が出なかった。毎日通っては竹竿を眺めていただけだった。

まだ都電が走っていた頃で僕の高校の前の道を5番の目黒行きが走っていた

これに乗ると桜橋、京橋、内幸町と抜けていく。そうだ、まだ佃の渡しもあった時        

代だ。 エンジン船だが隅田川の反対側へ行くのに自転車くらいまでは乗せてく        

れた。 30円だったかな。

つるやはやがて方向転換をして英国のフライフィシングやルアーを扱うように         

なるの だが釣具の値段だけは相も変わらず高かった。輸入品ということもある        

のだろう。 74年当時のガルシア・ミッチェルのカタログを見るとこちらのほうが        

まだいくらか安い。例えば「チャールズリッツ」のフライロッド2064が¥29500

だが、適合ライン(ポンド)で8~9としてあるのは良く判らない。AFTMAの何番

とか今なら記すだろう。 当時はこんなもんだ。

 

英国皇室御用達のハーディは高級感が漂っていた。何たって英国貴族の趣味

だからね。今で言うブランド品です。これまた眺めていただけだった。

 

ところがタイミングのよいことに、従兄弟がプライベートで欧州へ行くというので、

これ幸いとばかりにロンドンに行った際にハーディに寄ってもらってフライロッドと

リールにバッグなど買って来てもらった。それで僕の持っている2本のフライロッド

には74年の12月と75年の2月の製造マークが入っている。さらに面白いことに

JETの字がない。JETセットと言われるロッドであることには間違いないのだが

JETの字がないのだ。英国内での販売には記されなかったのだろうか。まあね、

今更どっちでもよいことだけど。



JETの字がない。そう言えば、#5の竿にはこのハーディのロゴすら無い。

 

JETとはこの竿をJ・ハーディと共に開発したアメリカ人の名前の省略で、ジョン・

E・タランティーノという才能あふれるロッドデザイナーであり優れたキャスター         

だったが、 惜しいことに強盗に殺されて若くしてその生涯を閉じてしまった。

 

ロンドンからヴァイスも買ってきたもらったので一時期フライタイイングにも夢中        

になって しまいドライフライばかり作ったことがあった。自分で作ったフライで魚が      

出てくれれば 最高なのだけど、やはりそうはうまくは行かなかった。素人のフライ      

はすぐ見破られる。たまに魚が出ても乗らなかった。

 

イングランドといえばCHALK STREAMを思い浮かべ湖水地方が連想される。        

WILLIAM WORDSWORTHの、SPLENDOR IN THE GLASSの詩が        

頭をよぎる。              

 

THOUGH NOTHING CAN BRING BACK THE HOUR OF             

SPLENDOR IN THE GLASS, OF GLORY IN THE FLOWER、        

WE WILL GRIEVE NOT. RATHER FIND STRENGTH IN WHAT

REMAINS BEHIND.

 

というあまりにも有名な詩で映画「草原の輝き」にも登場する。 LAKE POETと         

呼ばれたWILLIAM WORDSWOTHも鱒を釣り沈思黙考しただろうか。 

 

話をレオン・チャンドラーに戻して、この人はリタイアした後、世帯道具やキッチン       

などを組み込んであるクルマ、移動住宅とでも言うべきモーターホーム、であちこち      

米国内を周り余生は釣りを楽しんでいた。 TROUT UNLIMITED という魚を中心

にした自然保護活動にも力を入れていた。

 

チャンドラーは NATIONAL FRESHWATER FISHING HALL OF FAME  に

最上級のランクである ENSHRINEMENT (釣聖とでも呼ぶべきか、あの「釣魚    

大全」のISSAC WALTONと肩を並べている)として2000年にその名を刻        

まれているが惜しむらくは2004年3月にこの世を去った。

世界中を回り一生を釣りに捧げた人生だった。 いつだかボーンフィシュをフライで

釣るのが最高に面白いと語っていたらしい。 大きい魚ではないが確かにやって

見たい釣りだ。 手軽だし。 

 

追記: 記憶力もだいぶ落ちてきたから西暦の正確さに欠けているかも知れません。






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2 コメント

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Unknown (邂逅)
2011-07-14 14:34:40
暑い日がつづきますね。

チャンドラーさんの写真 見つけました。
http://home.s03.itscom.net/kuroishi/images/chandlerinoshino.jpg

京橋のつるやで買い物したときに五十嵐さんにお会いしたことを覚えています。

なつかしく思い出させていただきました。
返信する
Unknown (NN)
2011-07-14 22:42:01
いや本当に、暑くて駄目です。
今年の夏が越せるかなあ、なんて思ってしまい
ます。

懐かしいですねえ。あっと言う間に40年
くらい経ってしまいました。

ルアーロッドもフライロッドも結構処分した
時期があり、今考えるともったいないことを
しました。

店長の息子さんかな? 記憶がはっきりしま
せん。

そういえば、つるやは夏になると鮎竿の
特集もやっていましたね。つり人社の社長
だった竹内始萬氏が鮎好きで、どういうワケ
は当時つり人誌には鮎釣りに「ボルボ」車
の宣伝が出ていました。釣りの雑誌に外車の
宣伝でした。ご愛用のクルマだったのかな?

チャンドラー氏の写真、貴重です!

いや、懐かしい。有難うございます。

開口健氏につるやでたまたま会ったことが
ありました。あのまんまでした。

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