My favorite things 2024

不定期でジャンルもバラバラです。 お気軽に寄って見て下さい、 

ラテントピック一語一絵 その21

2021-04-17 09:49:16 | ラテントピック・一語一絵
AnÍbal Troilo

アニバル トロイロ

1914年生まれ。ブエノスアイレスの下町生まれ。
子供の頃からバンドネオンに親しむ。作曲家。
Pichucoと呼ばれる。ナポリの呼び方だそうでllorón、ジョロン、つまり
泣き虫、の意らしいが14才の時のバンドネオンを膝の上に載せ蝶ネクタ
イのスーツ姿を見ると立派な好青年に見える。やはり都会の子だ。どこか
に洒落たセンスが光る。10代から演奏活動。トロイロ楽団としては1940年
辺りから1960年前後がピークだろうか。庶民派で人気があった。

そろそろタンゴ以外のミュージシャンの絵でも思っていたがトロイロの
絵も描いてしまっていたのでアップしておかないと。

”Pichuco"という映画があったはずだが一般公開はされなかったのかな。
どうしたんだろ。ネット公開になったのかも知れないね。

年令からいっても我々の父親に近いしダリエンソよりは時代的に馴染み感
が強い。ダリエンソはトロイロより一回り以上年上になる。
1974年に南米に行った友人のミュージシャンがブエノスの楽屋でトロイロに
会ったらコロコロに太っていたとか。良い時に会えた。その翌年にトロイロは
亡くなっている。60才だった。タンゴファンのみならずアルゼンチン国民に
とって悲しい知らせだった。日本に3年滞在したことのあるフェルナンド・
テルには盟友アニバル・トロイロの死は特に辛い知らせだったに違いない。
アニバル・トロイロの生まれた7月11日を記念してバンドネオンの日と
制定された。


何より下町の太った渋い棟梁、タンゴ親父みたいな感じがあるね。でも野暮
ったさはない。一般のひとが踊るためのタンゴの演奏にこだわったようだ。
この辺はやはりピアソラとは違う。ブエノスでは老若男女問わずに踊れる
タンゴでないとダメなんだよ。やはり庶民のものだからね、タンゴは。



カナロがタンゴの演奏でパリに行って大人気だった1925年はトロイロが
11才で、ブエノスアイレスがタンゴが盛り上がって行く頃だ。アルゼンチン
の経済は繁栄を続けて国民総生産も世界トップレベルになる。

その2年前の1923年に当時ハリウッドでチャップリンと並び人気のあった
早川雪洲がフランスで映画撮影のためパリに滞在していた。ヨーロッパ興行は
大成功となりパリを去りアメリカに戻る。その際かあるいは滞在中か、当時の
パリにタンゴのダンスの勉強のために遊学中だった目賀田綱美男爵にタンゴの
レコードを残している。これが目賀田が帰国して日本にタンゴを広めたそもそも
のレコードになったとされている。

目賀田の父親は種太郎といい明治時代にハーバード大を卒業している秀才で男爵。
学業に秀で政府の要職を務めジュネーブで行われた第一回目の国際連盟の会議に
参加するために国連大使として1920年に渡欧。息子の綱美も同行したが当時流行
っていたタンゴに魅せられ綱美はパリに残る。パリの社交会では目賀田男爵として
名を馳せたようだ。社交界ならダンスは必須条件だ。ヨーロッパで大ブームだった
タンゴは切り離せない。目賀田は1925年のカナロのパリ公演も見ているしカナロ
にも会っているらしい。1926年に帰国。大正時代の終わり頃の話になるね。それ
から昭和にかけて日本で初めてアルゼンチンタンゴを広めたのが綱美だ。この言わば
フランス風のタンゴ、洗練された上品なタンゴはアルゼンチンの上流階級に支持され
るし日本でもフロアダンスのタンゴとなって行く。 確か銀座の交詢社にダンス
スタジオがありそこでタンゴを教えていたと記憶している。


余談だか、当時のパリ社交界には、前田利為侯爵、一条実照侯爵、後に首相になる
外交官の芦田均、バロン薩摩と言われた薩摩治郎八、画家の藤田嗣治や歌手の藤原
義江などそうそうたる面々が揃っていた。特にバロン薩摩は早川雪洲とも繋がりが
あったから目賀田とも繋がっていたとも思える。ついでだけど、藤原義江の元奥さん
は藤原あきといい資生堂の重役で、NHKのテレビ番組「私の秘密」のレギュラー
解答者だった。良く見たものだ。

目賀田の帰国後のタンゴを広めた功績を讃えてか、トロイロ楽団で歌手を務めてい
たエドムンド・リベロが "A Lo Megata"というタンゴを作曲している。
リベロは1968年に来日して日本が好きになったようだ。何と言っても"SUR"で名が
知られている。"Arigato Japon" と言うタンゴも作曲、さらには当時減衰気味だった
タンゴの人気を維持するために"El Viejo Almacen"を開店している。タンゴファンなら
この名前を知らないひとはいないくらい有名なタンゴのライブハウスだ。ボカ地区
と隣接した下町サンテルモにあり港にも近く昔からタンゴ好きな庶民の地域だ。
ホセ・リベルテーラ達がタンゴオールスターズで来日した1974年、アルゼンチン
を出る直前練習でここを利用している。



リベロが来日したのは1968年だったか。南米へ行く移民船「アルゼンチナ丸」を
横浜で見送った年だから印象が強い。思い出すといまだに感傷的になる別れだった。
桟橋での五色のテープでの別れは辛い。偶然にもこの時の様子はNHKで移民の
ドキュメンタリーとしてシリーズで放映された。

アニバル・トロイロは描き易いと思ったら、若い時と比べるとまるで別人だから
困る。年を取ってからの太り方が凄い。顔など肉がダブつきアゴが三重になって
いる。10代の頃はキリリとした顔つきなのに。どの年代を描いて良いか困る。
まさしくゴルドだね。今にも大袈裟なジェスチャーで喋り出そう。
またまた話が横道に逸れたけどもう良いや。書ききれない。くたびれた。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ラテントピック一語一絵 その20 | トップ | ラテントピック一語一絵 その22 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿