
Xavier Cugat
ザビア・クガート
Rumba King
1900-1990
スペイン人 カタルーニャ生まれ。
何と1月1日生まれ。20世紀になった数分後に生まれた。これが
幸い?したのか政治犯だった父親は釈放され兄弟の軍役は免除
とされた。5才(3才?)で家族とキューバに移住。バイオリンの
専門教育を受けて指揮者を目指す。その当時の隣人の一人がバ
イオリンを作る職人だったことも幸いしてメキメキと実力をつ
けた。サイレント映画館のBGMで演奏しバイオリン教師の勧めで
オーディションを受けて、12才でハバナシンフォニーオーケス
トラの第一バイオリンの地位を得る。15才で家族はニューヨーク
へ移る。これも音楽の仕事を求めてだろう。その頃流行していた
タンゴをBGMとして無声映画の録音を担当してザビア・クガート
の名が知られて行った。
カタルーニャ出の歌手Maria Gayを通じてチェロ奏者のPau
Casalsやビクターでレコードを出していたオペラ歌手のEnrico
Carusoと知己を得てツアーに同行しカーネギーホールで演奏した。
ザビア・クガートの人生は若い頃から人に恵まれているのを表す
典型的な出合いが多い。回りの力を上手く自分に取り込む能力に
長けていたとも言える。商売のセンスがあった。そう言う出会いを
書き出したらキリが無いほど多い。
後にニューヨークのホテル専属の楽団を指揮するに至るが、兄の
影響か画才がありロスアンゼルスタイムズに一時期似顔絵を掲載して
いた時期もあったが直ぐにニューヨークに帰り音楽生活に戻って
いる。や映画にも多く出演しMGMには10本近く参加した。
5回も妻を替えている。まあ良く離婚を繰り返したものだ。
バンマスだしね、ボーカルやダンスの女の子に手を出しやすいね。
話題性を作り出すのが上手かった。ショービジネスに長けた
能力があったと言うことだろう。楽曲のオリジナル性より
ビジュアルに訴えたのが成功の一因とも言えるのでは無い
かな。見栄っ張りでプライドが高そうだが機を見るに敏
だった。アメリカ人向けのステージングを全面に押し出した。
ニューヨーク時代の録音にXavier Cugat & his Hotel
Waldof-Astoria Orchestra の名前で有名なヒット曲の
Perfidiaがある。ホテル専属楽団は長く続き"Cugat Room"
と呼ばれるほど高評だった。Perfidiaはメキシコの女性歌手
であるLupita Palomeraも歌っているが作曲は同じメキシコの
Alberto Dominguezでミゲリート・バルデス等沢山の歌手
がカバーをしている。意外だがダーク・ボガードの映画
「カサブランカ」でイングリッド・バーグマンと踊るシーンに
この曲が流れている。余談だがこの映画はモロッコで撮影され
たことは無く全てアメリカで制作された。
カサブランカは市内の表通りの店舗はフランス語の表記が多く
洒落た街並みもあり垢抜けているが、モロッコを感じる都市の一つに
マラケシュがある。今ならカサブランカから洒落た特急電車が走って
いるはずだ。元国王のハッサン二世の高いタワーが見モノらしいが僕
が旅行した時はまだ現役の国王だった。モロッコの街並みはちょっと
中に入ると迷路になるような狭い道が多い。ジャン・ギャバン扮する
映画の主人公を思い出す。フランス人の犯罪者がモロッコに逃れ
スペインの外人部隊に入る設定だがスペインの全面協力を得てスペイン
領モロッコで撮影された。
フェリーでジブラルタル海峡を抜け、港町TangerからバスでFez、
Tetuán,Rabato への旅は印象的だったな。アメリカ人観光客用
のエアコンの効いたバスでは無く、地元民の乗る古いバスで屋根の
上に何でも積み込み、鶏まで載せたオンボロバスに乗ったものだか
ら半分楽しいやら半分不安やらの旅だったのを記憶している。
ザビア・クガートがニューヨークに移った頃はフランスを始め
ヨーロッパでタンゴが人気の頃で、ルドルフ・バレンティノが
主演した無声映画の中のタンゴを踊る場面はニューヨーク中の
女性を夢中にさせて社会背景としてのタンゴ人気は高かった。
バレンティノはザビア・クガートが気に入り自分のラブシーンに
呼びよせ演奏させる程だった。ザビア・クガートもハリウッドへの
人脈を掴んで行く。1925年にはパリでは万博も開催されているし
カナロのタンゴ楽団がパリで大成功を収めている。ザビア・クガー
ドはチワワを抱きながら指揮するので有名だった。ラスベガスで
カジノを経営していたことがあるしレストラン経営もしている。
1953年に来日している。
日本でも放映されたテレビの「アイラブルーシー」のリッキー・
リカルド役のDesi Arnazはキューバ生まれでザビア・クガート楽団
に一時期籍を置いていたことがあるし、後にセックスシンボルとして有名
になる前のまだ少女時代のリタ・ヘイワースをスカウトしてダンサーで
起用している。十代でのステージデビューはその頃あまり珍しいことでは
なくタンゴのアニバル・トロイロもバンドネオンデビューも十代だった。
ついでだが日系の両親を持つアメリカ育ちの川畑文子は若干19歳でダンサ
ーとしてニューヨークの映画制作会社RKOと1929年に長期契約している。
日本よりアメリカで先に有名になったアーティストの先駆けで帰国して
横浜港に着いた時は音楽関係者が出向いたほどだった。「思い出のハヴァナ」
と題しエルネスト・レクオーナの「シボネイ」を日本語で歌っている。
川畑文子と言い山本満喜子と言い戦前は国際的に活躍した女性が多い。
相変わらず余談が長々しいや。細かい音楽的な話しや時系列的に前後した
かも知れないが大体合っているとは思う。もう記憶に自信が無くなるから
書き留めておく次第。ザビア・クガート時代の前後のラテン系歌手につい
ては中村とうようさんが詳しいね。とうようさんはそもそもは永田文夫
さんとのラテン繋がりだったような記憶がある。1970年代の初め頃だっ
たか山本満喜子さんが旗振りしてたボランティアのサトウキビ狩りに
キューバまで行っていたんだよ、確か。あの時代のキューバ音楽について
は好きな人が多いですね。
ザビア・クガート楽団はアメリカ人向けの品の良いポピュラーラテン
ミュージック系と言うかどちらかと言えば軽い。それでもミゲリート・
バルデスでキューバの味が濃くなったりしてる。より個性的ならペレス・
プラードかな。音楽も顔も結構濃くて強烈だった。意外と小柄なんだよ
ね。まあどこかザビア・クガートからペレス・プラードがマンボを貰っ
たような印象もあるけど、ペレス・プラードはアルセニオ・ロドリゲス
からマンボを拾った感じもしなくは無い。ベニー・モレとか、この辺の
絡みは複雑ですね。
日本なら何と言っても見砂さんの東京キューバンボーイズが老舗のバンド
ですよ。キューバから文化勲章貰ってるくらいですし。亡くなられている
けど豊岡豊さん、懐かしい。ラリー寿永さんに、納見義徳さん。かつての
「中南米音楽」の執筆陣も皆さん亡くなられた方が多いし昔を知る人たち
が少なくなって来た。大昔になったけどホルヘ的場さんのラジオを聞いた
時代が懐かしい。寂しい限り。
今急に思い出したけどJRの信濃町駅からすぐに「タンゲーラ」と言う
名前のタンゴ喫茶があった。今の駅舎になる前の時代の話になるから
随分前になる。真生会館と言うビルのすぐそばにあった。もはや昭和の
話しだね。今でも神保町に行けばタンゴは聞けるけどね。そうそう、
ドラマーの石川晶さんがオーナーの恵比寿にあったアフリカ料理の店
にも通った。確かピガピガとか言う名前だった。
マイアミビーチルンバも良く流行した曲だったな。ルンバと言えば
マイアミ、玉子売りと言えばミネソタ、洗濯女ならポルトガル、と
言うくらいだった。説明すると長くなるからパスして、ペレス・
プラード楽団と同様に日本でもザビア・クガート楽団は知名度があ
た。マチート楽団とかね。もはや幻の櫻井潔とその楽団とか。
最近は「楽団」と言う言葉が聞こえない。これも時代の流れだろうか。
ちょっと寂しいね。記憶が前後するかも知れないが、マンボが流行る
ちょっと前に8ミリの動画用の小さいカメラが流行ってね、家庭用で
編集が簡単だったから親戚のカメラ好きの叔父さんがいち早く買って
大騒ぎして安全地帯に乗り都電なんかを撮っていたのを何故か思い出す。
28番でね。日本橋や東京駅方面行きだった。東京駅近くに来ると
鍛冶橋とか呉服橋とか停留所があって鍛冶橋や八重洲口には映画館が
あったことを知ってる人ももう少ないかな。日本橋交差点の角は白木屋
デパートだった。通学に良く都電に乗ったものだ。今は廃業して
しまったが室町の村田眼鏡舗、あの辺の老舗で社長だった村田君は
同級生。朝まで麻雀をやったものだが彼も亡くなって久しい。
またまた話しがずれてしまった。
ザビア・クガートはスペインに戻りバルセロナで90才で死去。
顔はまあまあ似てるかな。何とか描けたが文章が支離滅裂になって
しまった。仕方ないよ。書いているうちに色々なことを思い出す
から、忘れないうちに書き足してしまわないといつ思い出すか
分からない。
ザビア・クガート
Rumba King
1900-1990
スペイン人 カタルーニャ生まれ。
何と1月1日生まれ。20世紀になった数分後に生まれた。これが
幸い?したのか政治犯だった父親は釈放され兄弟の軍役は免除
とされた。5才(3才?)で家族とキューバに移住。バイオリンの
専門教育を受けて指揮者を目指す。その当時の隣人の一人がバ
イオリンを作る職人だったことも幸いしてメキメキと実力をつ
けた。サイレント映画館のBGMで演奏しバイオリン教師の勧めで
オーディションを受けて、12才でハバナシンフォニーオーケス
トラの第一バイオリンの地位を得る。15才で家族はニューヨーク
へ移る。これも音楽の仕事を求めてだろう。その頃流行していた
タンゴをBGMとして無声映画の録音を担当してザビア・クガート
の名が知られて行った。
カタルーニャ出の歌手Maria Gayを通じてチェロ奏者のPau
Casalsやビクターでレコードを出していたオペラ歌手のEnrico
Carusoと知己を得てツアーに同行しカーネギーホールで演奏した。
ザビア・クガートの人生は若い頃から人に恵まれているのを表す
典型的な出合いが多い。回りの力を上手く自分に取り込む能力に
長けていたとも言える。商売のセンスがあった。そう言う出会いを
書き出したらキリが無いほど多い。
後にニューヨークのホテル専属の楽団を指揮するに至るが、兄の
影響か画才がありロスアンゼルスタイムズに一時期似顔絵を掲載して
いた時期もあったが直ぐにニューヨークに帰り音楽生活に戻って
いる。や映画にも多く出演しMGMには10本近く参加した。
5回も妻を替えている。まあ良く離婚を繰り返したものだ。
バンマスだしね、ボーカルやダンスの女の子に手を出しやすいね。
話題性を作り出すのが上手かった。ショービジネスに長けた
能力があったと言うことだろう。楽曲のオリジナル性より
ビジュアルに訴えたのが成功の一因とも言えるのでは無い
かな。見栄っ張りでプライドが高そうだが機を見るに敏
だった。アメリカ人向けのステージングを全面に押し出した。
ニューヨーク時代の録音にXavier Cugat & his Hotel
Waldof-Astoria Orchestra の名前で有名なヒット曲の
Perfidiaがある。ホテル専属楽団は長く続き"Cugat Room"
と呼ばれるほど高評だった。Perfidiaはメキシコの女性歌手
であるLupita Palomeraも歌っているが作曲は同じメキシコの
Alberto Dominguezでミゲリート・バルデス等沢山の歌手
がカバーをしている。意外だがダーク・ボガードの映画
「カサブランカ」でイングリッド・バーグマンと踊るシーンに
この曲が流れている。余談だがこの映画はモロッコで撮影され
たことは無く全てアメリカで制作された。
カサブランカは市内の表通りの店舗はフランス語の表記が多く
洒落た街並みもあり垢抜けているが、モロッコを感じる都市の一つに
マラケシュがある。今ならカサブランカから洒落た特急電車が走って
いるはずだ。元国王のハッサン二世の高いタワーが見モノらしいが僕
が旅行した時はまだ現役の国王だった。モロッコの街並みはちょっと
中に入ると迷路になるような狭い道が多い。ジャン・ギャバン扮する
映画の主人公を思い出す。フランス人の犯罪者がモロッコに逃れ
スペインの外人部隊に入る設定だがスペインの全面協力を得てスペイン
領モロッコで撮影された。
フェリーでジブラルタル海峡を抜け、港町TangerからバスでFez、
Tetuán,Rabato への旅は印象的だったな。アメリカ人観光客用
のエアコンの効いたバスでは無く、地元民の乗る古いバスで屋根の
上に何でも積み込み、鶏まで載せたオンボロバスに乗ったものだか
ら半分楽しいやら半分不安やらの旅だったのを記憶している。
ザビア・クガートがニューヨークに移った頃はフランスを始め
ヨーロッパでタンゴが人気の頃で、ルドルフ・バレンティノが
主演した無声映画の中のタンゴを踊る場面はニューヨーク中の
女性を夢中にさせて社会背景としてのタンゴ人気は高かった。
バレンティノはザビア・クガートが気に入り自分のラブシーンに
呼びよせ演奏させる程だった。ザビア・クガートもハリウッドへの
人脈を掴んで行く。1925年にはパリでは万博も開催されているし
カナロのタンゴ楽団がパリで大成功を収めている。ザビア・クガー
ドはチワワを抱きながら指揮するので有名だった。ラスベガスで
カジノを経営していたことがあるしレストラン経営もしている。
1953年に来日している。
日本でも放映されたテレビの「アイラブルーシー」のリッキー・
リカルド役のDesi Arnazはキューバ生まれでザビア・クガート楽団
に一時期籍を置いていたことがあるし、後にセックスシンボルとして有名
になる前のまだ少女時代のリタ・ヘイワースをスカウトしてダンサーで
起用している。十代でのステージデビューはその頃あまり珍しいことでは
なくタンゴのアニバル・トロイロもバンドネオンデビューも十代だった。
ついでだが日系の両親を持つアメリカ育ちの川畑文子は若干19歳でダンサ
ーとしてニューヨークの映画制作会社RKOと1929年に長期契約している。
日本よりアメリカで先に有名になったアーティストの先駆けで帰国して
横浜港に着いた時は音楽関係者が出向いたほどだった。「思い出のハヴァナ」
と題しエルネスト・レクオーナの「シボネイ」を日本語で歌っている。
川畑文子と言い山本満喜子と言い戦前は国際的に活躍した女性が多い。
相変わらず余談が長々しいや。細かい音楽的な話しや時系列的に前後した
かも知れないが大体合っているとは思う。もう記憶に自信が無くなるから
書き留めておく次第。ザビア・クガート時代の前後のラテン系歌手につい
ては中村とうようさんが詳しいね。とうようさんはそもそもは永田文夫
さんとのラテン繋がりだったような記憶がある。1970年代の初め頃だっ
たか山本満喜子さんが旗振りしてたボランティアのサトウキビ狩りに
キューバまで行っていたんだよ、確か。あの時代のキューバ音楽について
は好きな人が多いですね。
ザビア・クガート楽団はアメリカ人向けの品の良いポピュラーラテン
ミュージック系と言うかどちらかと言えば軽い。それでもミゲリート・
バルデスでキューバの味が濃くなったりしてる。より個性的ならペレス・
プラードかな。音楽も顔も結構濃くて強烈だった。意外と小柄なんだよ
ね。まあどこかザビア・クガートからペレス・プラードがマンボを貰っ
たような印象もあるけど、ペレス・プラードはアルセニオ・ロドリゲス
からマンボを拾った感じもしなくは無い。ベニー・モレとか、この辺の
絡みは複雑ですね。
日本なら何と言っても見砂さんの東京キューバンボーイズが老舗のバンド
ですよ。キューバから文化勲章貰ってるくらいですし。亡くなられている
けど豊岡豊さん、懐かしい。ラリー寿永さんに、納見義徳さん。かつての
「中南米音楽」の執筆陣も皆さん亡くなられた方が多いし昔を知る人たち
が少なくなって来た。大昔になったけどホルヘ的場さんのラジオを聞いた
時代が懐かしい。寂しい限り。
今急に思い出したけどJRの信濃町駅からすぐに「タンゲーラ」と言う
名前のタンゴ喫茶があった。今の駅舎になる前の時代の話になるから
随分前になる。真生会館と言うビルのすぐそばにあった。もはや昭和の
話しだね。今でも神保町に行けばタンゴは聞けるけどね。そうそう、
ドラマーの石川晶さんがオーナーの恵比寿にあったアフリカ料理の店
にも通った。確かピガピガとか言う名前だった。
マイアミビーチルンバも良く流行した曲だったな。ルンバと言えば
マイアミ、玉子売りと言えばミネソタ、洗濯女ならポルトガル、と
言うくらいだった。説明すると長くなるからパスして、ペレス・
プラード楽団と同様に日本でもザビア・クガート楽団は知名度があ
た。マチート楽団とかね。もはや幻の櫻井潔とその楽団とか。
最近は「楽団」と言う言葉が聞こえない。これも時代の流れだろうか。
ちょっと寂しいね。記憶が前後するかも知れないが、マンボが流行る
ちょっと前に8ミリの動画用の小さいカメラが流行ってね、家庭用で
編集が簡単だったから親戚のカメラ好きの叔父さんがいち早く買って
大騒ぎして安全地帯に乗り都電なんかを撮っていたのを何故か思い出す。
28番でね。日本橋や東京駅方面行きだった。東京駅近くに来ると
鍛冶橋とか呉服橋とか停留所があって鍛冶橋や八重洲口には映画館が
あったことを知ってる人ももう少ないかな。日本橋交差点の角は白木屋
デパートだった。通学に良く都電に乗ったものだ。今は廃業して
しまったが室町の村田眼鏡舗、あの辺の老舗で社長だった村田君は
同級生。朝まで麻雀をやったものだが彼も亡くなって久しい。
またまた話しがずれてしまった。
ザビア・クガートはスペインに戻りバルセロナで90才で死去。
顔はまあまあ似てるかな。何とか描けたが文章が支離滅裂になって
しまった。仕方ないよ。書いているうちに色々なことを思い出す
から、忘れないうちに書き足してしまわないといつ思い出すか
分からない。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます