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日本へら鮒釣研究会会員名簿 昭和44年度

2006-04-18 23:26:50 | 釣り
またまた古い話しで恐縮です。

写真の名簿は昭和44年(1969年)1月に発行された
日本へら鮒釣研究会の会員名簿です。

昭和30年代の後半からへら鮒釣りの人気がピークを迎え、
千葉県の佐原水郷では毎月大会が開かれ、昭和40年代に
なると各支部クラブの会員数も増加し、最高になった時期
でした。

私メもヘラバックと竿ケースを抱え、地元クラブの会員さん達
と大会用の大型バスに乗りあちこち夜討ち朝駆けで参加した
ものです。

冬の横利根川なんか、前の晩から船に乗り、中島屋前とか、
ウナギの看板前とか、場所確保で明け方まで震えて待って
いました。もう、寒いの、何の。ブルブルで朝までガタガタ
です。

個人的には、春の野田奈川とか新八間とかが好きでした。
近いところで雄蛇ヶ池とか道仙田とか、地下鉄東西線の通る
前の行徳あたりの野池とかね、もうノンビリしていました。
一生懸命やっていたのも昭和40年か41年くらいまでで、
その後はちょっと足が遠のいてしまいました。



これは表紙の裏、目次です。東京の各支部だけで2ページ
あります。ものすごい数の支部ですね。



これは宣伝です。エビスグラスロッドとエサの小口油肥。
エビスのヘラ竿は振り出しの黒塗りで継ぎ口のところが白い
真鍮のようなカバーがはめてありました。当初の竿はペナペナ
でね、もっぱらハコ(釣堀のことをハコと呼びます)で使って
いました。

NFTのヘラ竿も使ってました。粗野な作りでしたが丈夫でしたね、
磯釣りで有名でしたからね、NFTの16Hとか、ペンリールとセット
でイシダイ狙いとか、使っていたひとは多いでしょう。

私メはヘラでは二間竿までは竹を使っていました。ハコでは竹竿と
グラスの併用でした。竹は数釣りをするとどうしてもヘタルんで。
南州とか魚集、一作あたりの竿をもっぱらハコ用にしてました。



これもエサの宣伝。当時ふまつげんは人気がありました。
へら用のエサは、現在みたいに確立されていませんでしたから、
ふまつげんの登場によりヘラのエサの多様化が始まろうと
した時期です。ふまつげんが出るまでは私メなんか、営業用
マッシュの大型袋を買っちゃたもんです。30キロ袋だったかな。




裏表紙。サクラのヘラ竿、江戸川の宣伝。今まだあるんでしょうか。
桜にSAKURAのマークは懐かしいですね。伝統あるメーカーで
どの竿でも結構独創性がありました。ホソ、カル、ピンとか言って、
竿は細くて、軽くてピンとしたものが良いとか謳ってました。
ヘラ竿に限らず六角の竹の投げ竿も製造していたと思います。
たしか、輸出もしていたのじゃないかなあ。

もっと中身をご紹介いたいのですけど、何せ名簿ですからね、
住所が出ていますのでこれはお許しあれ。

ちょっと付け加えておくと、浅草ヘラ研の叶九隻氏とか、銀座
ヘラ研の俳優の山村 総氏とか創世記からのメンバーも多く、
中には簡単には入会させてくれないクラブもあったんですよ。

山梨支部の鈴木魚心さんなんか、後になってフライフィシングの
本まで書いてしまってますが、当時からヘラでは有名な存在で
した。米地南嶺さんもそう。この方も有名で、以前雑誌たか新聞
だかに釣りの交遊録をお書きになっていて、いきさつや歴史が
分かって興味深い体験談でした。たしかJLAAのほうにもお顔
を出していた記憶がありますよ。


もう鬼籍に入られた方も数多くおられますけど、いろいろな方々が
この名簿に名前を残されてます。前述の叶 九隻氏、鈴木魚心氏及び
米地南嶺氏の御三方は当時日研の顧問をしておられました。

この名簿は押入れの奥の方から出てきました。

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