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THE ROMANOV PROPHECY - こぼれ話 

2007-02-09 10:30:03 | STEVE BERRY
STEVE BERRY の ROMANOV PROPHECY は大変興味深い
本でした。

1918年、ロシアの最後の皇帝NICHOLAS II とその妻、彼らの五
人の子供達の一家全員はエカテリンブルグで暗殺されます。
その後埋葬されたのですが、その跡からは子供達である ALEXEI
とANASTASIA の2体分の骨は発見されず、彼らはどこに埋葬され
たのか、それとも暗殺を免れ生き延びることが出来たのだろうか、
というのが長い間謎になっていました。

埋葬されていた骨は後にDNA鑑定されて、NICHOLAS II やその
妻や子供達まで確認されているのですが、残る2人の子供の行
方は現在でも解らないままです。

もし彼ら二人がどこかで生き延び、その子供や孫が現在でも生
存していたとすると、ロマノフ王朝の直系の血が蘇ることにな
りロシアに皇帝が復活しえます。

STEVE BERRY はこの事件に着目して ROMANOV PROPHECY
を書き上げたのですが、実は NICHOLAS II は若い時分の皇太子
時代に日本に来ていたことがあるのです。まだ23才でした。

彼はシベリア鉄道の完工式典参列のためにロシア艦隊で航海中
でしたが、明治政府の招きで日本に寄港。長崎から神戸と寄り、
京都で観光をしています。滞在先は常盤ホテル、後の京都ホテ
ル(今はオークラ系のようです)です。明治24年、1891年のこと
でした。

しかし、人力車での琵琶湖観光からの帰り、大津で警戒中の警
官によりサーベルで襲われてしまい、頭に裂傷を負います。
襲った警官は車夫や同行のギリシャの皇太子らに取り押さえら
れました。皇太子の怪我は致命に至らず幸いなことに一命は取
りとめ、傷を縫う程度でのことで済みましたが、事が事だけに
伊藤博文をはじめとする明治政府は青くなってしまいます。
内外に迅速な対応が要求されました。
これが世に言う大津事件です。

ロシア本国に打電し深く謝罪。東京からも政府の重鎮らを京都
へ派遣し、さらには明治天皇まで見舞いに来る騒ぎになってし
まいました。なにしろ明治維新からまだ24年、近代化にやっき
になっている中での大事件で、小国日本には大国ロシアからの
報復を恐れる気持ちが強かったのです。

国を挙げての大歓迎に厳重な警戒。それなのに身内の警官がロ
シアの皇太子を襲う、とは何たることか、と時の外務大臣は辞
職する始末。しかしロシア側はこれに対する報復処置などせず、
皇太子は日本を離れていきました。彼が皇太子からニコライ2世
となるのはこれから3年後のことです。

東京から大津へ派遣された医師に、時の海軍軍医総監,高木兼寛
がいました。彼はイギリス留学の経験もあり日本で始めての医学
博士号を持つひとりでもありました。

これに対しロシア側は日本からの医療処置を拒否、艦隊付属のロ
シア人医師によって治療行為がなされたのです。しかし日本側の
謝罪の気持ちは理解され、皇太子を命がけで守った二人の車夫は
艦上に招かれ英雄扱いをされたのでした。

余談ですが、高木は明治15年に共立東京病院を設立、明治24
年には近代的な設備を持つ東京病院を設立。このときの薬局は資
生堂の担当でありました。もっぱら上流階級の利用する病院でし
たが、これが現在の慈恵医大の前身です。現在ある高木会館は創
設者である高木の功績を称えて建設されているものです。

ニコライ2世の骨が掘り起こされDNA鑑定されるときに、彼が大津
で負傷した際、血に染まった布地も鑑定の対象になったようです。

大津で九死に一生を得たニコライ。しかし後に日露戦争で日本に
破れ, 更に革命に追われて、ついには妻と子供共々銃殺される運
命をたどることになるとは本人はおろか、当時大津や京都へ駆け
つけた関係者は誰一人予想するひとはいなかったでしょう。


この大津事件について STEVE BERRY は ''THAT IS A VERY
INTERESTING STORY.'' と私にコメントを寄せてくれました。








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